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戦いを終わらせることは出来るのか? 論理的に考えて二つ方法があるかも。。。っていう話です。

人生というのは、他者に対してどうやって向き合い続けるか、というオワリの無い課題だと思うんだけど。。。

他者が、他者であるゆえんは、理解不可能な他者であるから、ということにあるよね。

でも、そういう他者となんとかココロを通わせようとして、努力する。

いろいろ努力する。ほんとに努力する。ひたすら努力する。。。

しかし、どうしても折り合いがつかない場合には、あきらめる、譲歩する、距離を置く、かかわりを断つ、徹底的に戦う、という選択肢が出て来る。

で、徹底的に戦う、を選んでしまった場合。。。

じゃあ、どこまで戦うの? という話になる。

人類歴史における最初の「戦い」は、シンプルにこぶしで殴る、ということからスタートしたんじゃないだろうか。

次に、モノで殴る、ということに移行したんだろうね。

聖書では、人類歴史における最初の兄が、最初の弟を、石でもって撲殺するという、最初の悲劇が記録されている。カインとアベルだ *。

この悲劇が悲劇であるのは、兄弟の間で起きた悲劇だからだ。

同じ父と母から生まれ、同じ家で育ち、同じ言葉をしゃべり、同じ食べ物をたべ、同じ遊びをし、同じように育って。。。

なにからなにまで同じ二人なはずなのに、ココロを通じ合わせることができなくって、兄は他者である弟を人生から排除することを選んでしまった。。。

今日の聖書の言葉。

地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
詩編 46:10 新共同訳

今日の聖書の言葉が言うように、世界からすべての「戦い」がなくなる日が、ほんとうに来るのだろうか?

考えてみれば、この世界の成分はぜーんぶ他者で出来ている。

しかもそれは、みーんな理解不可能な他者ばかり。親子や兄弟や夫婦であったって理解不可能な場合があるわけだし。。。

そういう他者で構成されている世界で、もし自分が他者に向き合うことに失敗したら?

その結果、他者を自分の人生から排除するという選択肢を選んでしまったら?

そしたら「戦い」になるしかないわけだけど。。。

でも、神はすべての戦いを終わらせる、と約束している。

神の約束が空文にならないためには、論理的に考えて、二つの方法しかないんじゃないかと思う。

第一は、理解不可能なはずの他者がどういうわけか 100パーセント理解できるようになって、自己と他者の区別が消えてしまう場合。

もし、世界がそうなったら、戦いはなくなるだろうねー。

第二は、理解不可能な他者を、理解不可能なまま、受け容れ、忍耐し、それでも一緒に生きることができるようになってしまう場合。

もし、世界がそうなったら、やっぱり、戦いはなくなる。

人間は、そういうふうになることができるんだろうか?

第一の道は、瞑想とかやって脳を変性意識状態にして、自己と他者の区別を消すことで実現するかもしれない。たぶん、仏教が目指すのはこれなんだろう(諸説あります)

第二の道は、愛だね。イエスが言った、敵を愛し、迫害する者のために祈る、という生き方。これが「戦い」を終わらせるために新約聖書が提唱している方法だと思う。

これは自分の経験だけれども、第二の道は、絶望的にハードルが高い。

だって、自分に対して敵対的に立ち現われて来る理解不可能な他者を、あるがまま受け入れて、一緒に生きるなんて、できるわけないじゃん!?

しかし「神」は、だいじょうぶだよ、できるんだよ、こういうふうにやればいいんだよ、って手本を示してくれた。それが「イエス」なんだと思う。

十字架を通って復活の栄光に達したイエスは、いま聖霊をとおして人類のなかに生きている。

その「聖霊」を通して、神の愛が自分のココロのなかに注がれている。その愛に動かされるなら、自分は「戦わない」という選択肢を選ぶことができるはずなんだ。

希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
ローマの信徒への手紙 5:5 新共同訳

じゃあ「戦わない」という選択肢を、いつ選ぶのよ?

今日でしょ、今日。ねえ、ウラジーミル、ジョー?

註)
*  Cf. 創世記 4:8

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