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気になってたことだけど、体育会系の表現が、パラパラと新約聖書に出てくるんだよね。
自分は中学では美術部だった。七宝焼きとか、漆塗りとか、やったなー。部長も務めたけど、部員は3人しかいなかった。。。
高校はアマチュア無線部。無線免許を取ろうとしたけど、あえなく挫折。数学が赤点レベルだったため、数式問題でつまずいてしまい。。。
そんな文系人間だったので、運動はからきし苦手。
球技だめ。鉄棒だめ。マット運動だめ。跳び箱だめ。長距離走だめ。もうね、だめだめづくし。
高校のラグビーの授業では、前日に献血で 400cc 抜いてたもんだから、貧血になりぶっ倒れるありさま。。。
でも、少しラグビーをやってたおかげで、大学のラグビーの授業では級友が鎖骨をポキポキ折るなか、フォワードでスクラム組まされたにもかかわらず、骨折を免れられた。
それ以降、運動らしい運動は、やっていないけど。。。
唯一の例外は、道東地方に赴任していた4年間にやったクロスカントリースキー。家の裏の河川敷に、冬になるとコースが設けられるので、毎日そこを数キロ往復していた。
それからもう20年以上。運動らしいことは、ほとんど何もしていない。
コロナ禍のステイホームで体重が増えてしまったので、さすがにマズイと思い、散歩を始めたけれど、歩いてもせいぜい一回6キロメートルぐらいだ。
今日の聖書の言葉。
およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
ヘブル人への手紙 12:11 新共同訳
新約聖書が書かれたローマ時代の地中海世界は、スポーツが盛んだった。種目としては、レスリング、円盤投げ、やり投げ、幅跳び、徒競走など。
そういうこともあってか、体育会系の表現が、パラパラと新約聖書に出てくるんだよねー。
人生をランニングコースになぞらえて、勝利の栄冠を目指し、最後まであきらめずに走りなさい、みたいな表現。
たとえば、こういうのがある。
競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。
テモテへの手紙二 2:5 新共同訳
競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
コリントの信徒への手紙一 9:24 新共同訳
競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
コリントの信徒への手紙一 9:25 新共同訳
今日の聖書の言葉の「鍛錬」というワードも、その系統のものだね。
おもしろいなあ、と思うのは、聖書には、そのままでいいんだよ、ありのままでいいんだよ、なんにもしなくていいんだよ、ぜんぶ神さまがやってくれるんだよ、みたいに解釈できるような、文系のハートにフィットする勧めが出てくる一方で。。。
競技者みたいに、鍛錬しなさい、訓練しなさい、節制しなさい、忍耐しなさい、あきらめないで最後まで走り抜きなさい、勝利の栄冠を目指しなさい、みたいな、体育会系のハートにフィットする勧めも出てくるんだよね。
これは、想像なんだけど。。。
文系人間の自分は「なんにもしなくていいんだよ」的な教えが好き。なので、ほっとくと、なんにもしなくなってしまう。なので、「ちゃんと動きなさいよ」という意味で、神さまは体育会系の勧めを聖書にちりばめているんじゃないだろうか。
逆に、体育会系のひとは「いつも・たえず・つねに努力する」的な教えが好きなんじゃないのかなー。なので、「ちゃんと静まりなさいよ」という意味で、文系の勧めも聖書にちりばめられているんだと思う。
聖書に、予定論(神の聖定によってすべての物事はあらかじめ決まっている)と自由意志論(人間の自由な意志によってすべての物事は変わり得る)が絶妙なバランスで配合されているのも、もしかしたら、こういう実践的な勧告と関係しているのかもしれないね。。。
まあ、あくまでも想像だけど。
今日の聖書の言葉を、自分が受け取るとしたら。。。
このコロナ禍にあっても、悲しまないで、あきらめないで、輝かしい栄光の瞬間がこれからやって来ると期待して、自分にできる努力を怠らないで、後ろのものをあとにして、前にむかって、走る、走る、走り続ける、最後まで走り抜く、ってことかなー。
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