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ドライブ・マイ・カー 2回目鑑賞したのでさらなる感想を

こんにちは、makoto です。

シネマ映画comでドライブ・マイ・カーをやっと視聴出来たという話は昨日書いたが、レンタル期間がもう1日あったので2回目の鑑賞をした感想を少し補足したい。

1回目に観た時と大きく印象が変わったところはないが、1回目に観た時にいわゆる邦画っぽくないと思ったのだが、その印象がどこから来ていたのかについて少し分かったような気がした。

まず、台詞がとてもよく聞こえるということ。
邦画を観た時にほぼいつも感じるのは
「声が聞こえにい。台詞が聞き取れない」
ということだ。

音量が一定でないというか、環境音・背景音に合わせて台詞の音量を適切に設定していないというか、MIXが悪いというか、とにかく耳に聞こえてくる音量が一定ではないので、映画館ならまだしも、自宅でストリーミングやDVDで観ていると音量を上げたり下げたりしないといけない。
洋画を観ていてあまりこんな感じはないので、やはり邦画独特のことだと思う。
ところが、ドライブ・マイ・カーではそんな事は一切なく、台詞の全てが聞き取りやすく調整されていたということ。

次に余計な劇伴がほとんどないということ。
邦画の多くはここぞという時に、
「ほら泣けよ」とか
「スリリングなシーンだろ」とか
うるさいくらいに色んな劇伴が流れている印象で、つまり必要のない過剰な演出、演出のための演出がないということで、これがドライブ・マイ・カー全編に流れる文字通り静謐な印象につながっている。

劇伴が流れることがあっても、石橋英子さんのそれは、メロディが立ちすぎないドローン・アンビエントとやネオクラシックと言ってもいいような音楽で、とても静かに、注意しないとその存在に気づかないほどそっと情景を彩っていた。

あと、2回目を観てさらに印象を強くしたのが岡田将生演じる高槻の存在。彼はいったん何だったんだろうか?感情移入がしにくいということでは、一番よく分からないキャラクタで、死さえ迎えることはなかったが、なんだか後味の悪い印象だけを残して最後にはいなくなってしまった。

村上春樹作品には主人公の「僕」と対峙する人物がよく出てくるが、その中でもなんとなく「ダンス・ダンス・ダンス」の五反田君のイメージか、いや違うかな。
村上春樹初期の作品では「僕」は年齢も若いので、対峙する人物はおおむね年長の存在で、よきにつけ悪しきにつけ(大概は悪い方だが)、主人公を何かに誘おうとしていた。

今回のドライブ・マイ・カーは主人公の家福がそれなりの中年になっていたため、高槻は年若い設定になっていたが、最後の車中後部座席での長台詞では、やはり主人公の家福=僕が気づかなかった何かを、これまでの彼の行動も含めて示唆していたように思う。

また、高槻はひょっとすると、家福自身の「邪悪な一面」が表出した存在だったのかもしれない。
もう一人の家福=高槻が「お前いままで気づかなかったのか?」と家福に訴えていたのだろうか。

少し間を空けてから3度目の鑑賞をするともう少し近づけるのかな。
メイキングの特典映像も観てみたいのでBlue-rayを購入しようかと考え中です。

それでは!



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