『淡くてラグジュアリーな旅の記憶』
境内まではまだ
あと数百段を登らなければならないようで
僕の先を行くTさんは
そりゃあ慣れたものだ
幼少期から何百回と登っているというのだから
ところが僕にとってはもう苦行でしかない
春先だからまだ良いものの
観光ってなんだろう
そんな愚問が脳裏をよぎる
やっとのことで登り切った僕を
柔和な表情の如来様が迎えてくれた
なんということはない
このために石段を乗り越えてきたんだ
およそ信仰心というものもないが
そんな穏やかな気持ちにさせてくれる力が
ここにはあった
Tさんは境内の鳩を嚇して遊んでいる
同じ石段を下って
ガイドブックには載っていないという
Tさんおすすめの地鶏屋さんに来た
ランチタイムを少し過ぎていることもあり
店内は適度にまばら
僕にリクエストを問うまでもなく
親子丼を2つ注文するTさん
別にアレルギーがあるわけでもなし
期待に腹をへこませ
提供を待った
思えば朝食を摂っていないうえに
石段でへとへとだった
それを差し引いても
旨い
これは
旨い
たしかにガイドブックには載っていない
よくある芸能人のサインも
店内には1枚も見当たらない
ほんとうに
知る人ぞ知る名店なのだと
唸りを上げた
会計をしようとレジに向かうと
Tさんが済ませてくれていた
頑なに受け取らないので
どこかでお返しをするという約束になった
いったん僕は予約していたホテルにチェックインをする
Tさんも自宅へ戻るという
また数時間後にホテルまで迎えに来てくれるというから
本当にありがたい
部屋でユニフォームに着替えグッズを纏う
ホテルのロビーでTさんを待つ
案の定
ユニフォームと応援グッズ一色になったTさん
スタジアムの駐車場に
アウェイカラーで身を固めた僕を乗せ
堂々乗りこむホームカラーのTさん
どうやらお仲間もたくさんいらっしゃるようで
僕は試合前からいきなり
彼らに胴上げをされるという
試練に見舞われた
とはいってもさほど乱暴なわけでなく
歓迎の意味を以て
同じ競技を愛する仲間が
遠方から駆けつけたことに対する喜びを
素直に表しているような気がした
もう試合開始まで30分ほどとなった頃
思い出したようにTさんがチケットを差し出す
ネットで知り合ったTさんは
このチケットを僕に
タダで
譲ってくれたのだ
それだけでも驚きなのに
なおも驚いた
券面に目をやると
"VIPラウンジ ビュッフェ付"
およそ庶民が入手できるようなシロモノではない
恐る恐るお代を尋ねると
昼の親子丼と同じように
知らないふりをされてしまった
唖然としていると
Tさんはお仲間たちと
ホーム応援席のほうへ向かって消えた
VIPラウンジでは
ホームチームのカラーをあしらった色のカクテルが
美味しくてお替りしたのを覚えている
試合の後
Tさんはホテルまで送ってくれた
翌朝は
僕ひとりで帰路についた
あの旅以降
Tさんとは連絡が途絶えている
いまだに整理のつかない
淡くてラグジュアリーな旅の記憶