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「マウントを取る(マウンティング)」と「恐れと怒り」について先生として考えてみました

「マウントを取る」っていう言葉をネットでもリアルの生活でも本当によく聞きます。

「自慢話でマウントを取られた」「マウントされて正論をただただ言われた」というような「相手を押さえつけて自分の意見を押し付ける行為」として認知されている「マウントを取る(マウンティング)」ですが、
自分がされると大体の場合いい気持ちがするものではありませんよね。

教育という現場にいるので、このマウンティングが「相手の間違いを指摘し理解させる方法」として使用されることが多い関係上、
以前からこれに関してほんとに色々を思うことがありました。
そしてつい最近自分の周り(自分含め)でこのマウンティングがとても目に入るようになったため、今回マウンティングについて考えてみることにしました!

ここではまきのが自分はこうしようという思考の整理のメモとしてマウンティングについての見解をまとめます。

1.マウンティングって防衛行動(攻撃)


学校の先生をやってて自分や学生、他の先生方を見てて思ったのが、
「マウントを取る(マウンティング)」ってやっぱり恐れから出る、反射的で、過剰な防衛行動(攻撃)なんだなと思いました。

他人、特に若い人たちに仕事において自分より優秀な人がいる、ということや
その人たちが自分に攻撃(反撃)をしてくるかもという恐れから、
「反撃をさせない状態」=マウンティング(馬乗りになって完全に有利な体勢)をとらないと恐いんです。
威圧的な態度をとる、怒る、正論で抑え込もうとする、全て相手からの攻撃と自分のダメージのリスクを恐れた防衛行動。
少なくとも僕がこれらのことを行う際には確実に「自らが傷つくことへの恐れ」が自分の中にあることを自覚してます。

そうしないと自分が傷つけられるかもしれないし、
なんなら相手からマウンティングされるかもしれないですよね。
(たいしたやつじゃないと舐められる、こちらの意思を否定されるなどを恐れてしまうなど)

先にお断りしておくと、マウンティングしてしまう人がただただ悪であると言いたいのではありません。
教育の現場にいるものとして気持ちはとてもよくわかります。
僕も学生に反抗的な態度を取られた際、これを思わずしてしまった時がありました。

相談をいただいた学生に僕はなるだけ自分の意見や言葉とタイミングを選びながら「ここはどうします?」「こう言ったのはどうですか」と確認・提案をしたつもりだったのですが、おそらく相手の意見を否定する形になったのでしょう、「先生のその意見に何か意味があるんですか?」と思わぬ反論をもらったことがあります。
面食らった僕がとってしまった行動が「いや、このままだと全然ダメでしょ」と言うはっきりとしたダメ出し、マウンティングでした。
その時僕の中には明確な怒りの感情があり、そして攻撃をされているという本能的な恐れがありました。
「この人を黙らせないといけない」という衝動に駆られ、相手の意見を論破しようと必死になっていました。
その時は怒りに身を任せてたので感じませんでしたが、後から強い罪悪感を感じ反省することに…

言い方は他にもあったはず…わざわざ威圧する必要もなかった…色々と考えさせられました。

社会には色々な人がいます、学生さんにもいろんな性格や経験値や意見をお待ちの人がいます。
そんながくせいさんたちもそうですが、僕自身も自分の人生を生きていくのが大変な1人の人間、他の人と違う性格や経験値や意見をもっています。

体調や精神の状態、タイミングによって余裕がない時もありますし、
それまでの文脈によっては相手の行いが許し難かったり、
相手がこちら側を意識的(無意識の場合も)に攻撃(反論、非難、プレッシャーをかけるなど)してくる場合もあります、
そうなったとき僕たちも自分自身を守らないといけない、だから防衛としてマウンティングを選択してしまう事はあり得ると思います。


2.とにかく慎重になりたい「怒る」について


少なくとも僕にとってマウンティングは、ほんとにほんとの緊急時の最終手段であり、教育現場だけに限らず社会において、極力使わない方がコミュニケーションはうまくいくと感じています。
だからテクニックとしてマウンティングを使うのであれば、とにかく慎重になる必要があると考えます。

特にマウンティング行動の中でも気をつけておきたいと思うのは「怒る」でしょうか。
「教育においてときには怒ることも必要だ」と言う意見もよく聞きます。
確かに怒る事で効果的に相手にこちらの意図や感情、相手のミスや事態を伝える事はできますよね。
怒るのは「手っ取り早くて良い」と言うのも聞きます、確かに遠回しな言い方をせずストレートに相手に伝わる、時間は1番かからない、自分自身のもやもやも晴れやすいでしょう。

しかし「怒る」は、
様々な説得・伝達の中でのあくまで「一手段」であり、僕は本当の最終手段であると思ってます。
少なくとも早い段階で選択肢に持ってくるべきものではなく、とにかく怒っておけばいいという教育理念をよく思ってません。
かなり多くの教育のシチュエーションにおいてマウントを取ること、特に怒ることがベストな選択である場合はとても少なく、別の選択肢が先に存在すると思ってます。

僕は怒られることはもちろんのこと、
怒ることにとてもストレスを感じるので基本的に怒らないと言うのもあるのですが、
他人が誰かを怒っている一部始終を教育現場で見て、大体の場合「この件に関しても他の効果的な言い方、またはやるべきことがあるなぁ」と感じてました。

諭すようにどのような部分が悪かったのかと事の重大さを言いきかす、
例え話をして理解を促す、
なぜそのようなことをしてしまったのか理由を聞いていきそれを踏まえた上で今後同じことが起こらないようにどうすればいいかを話し合う、
などがあります。

結局はコミュニケーション上の問題の1つなので、
こちらと相手が思っていることや同じ物事に対する認識の違い、
またはそのすれ違いによってすり合わせがいずれ必要です。

その時「怒る」と言う行為は一方的な意見の主張になりやすい。

「こちらはあなたにこういうことをされて損失を被った」と一方が攻撃的に伝えるため、攻撃をされた相手は萎縮しやすく、
また意見を言うために自分が「負けないようにする」ので防衛のためのアクションが相手のダメージを視野に入れた「反撃」に変わってきます。
やられたらやり返す、お互いがその思考になり、闘いが戦争になる…それがこの両者の関係性に深い溝を作ってしまう事も大いにあるでしょう。
勝者と敗者、
怒る側と怒られる側、
両者が1歩も引かず攻撃をし合うのであれば最終的に「敵」と言う関係性になってしまう。
これは協力体制をとり知識や情報や経験を共有しあっていく必要のある教育の場での関係においてとても良くないと思ってます。

そしてこの怒る事の「攻撃性」が、怒る以外の手段にはない新たな問題を発生させてます。

例えば…

とある学生が先生との大事な約束を、明らかなミスにより破ってしまったとします。
課題を設けられた期日までに完成させ提出しなかった、報告の約束をすっぽかし黙ったままにしておいたなど色々あるでしょう、
そしてそれを破ってしまった理由にも色々あると思います。
気分が乗らなかったからやらなかった、めんどくさかった、この約束を破ることがこんなに悪いことだとは思わなかった…

若さからの経験不足により、相手に納得される理由を用意できず、事態の深刻さを理解できないことからやってしまったミス。
僕も若い時によくやってしまい怒られてました。
これに対し「とんでもないことをしてくれたな」とそれらの理由と行いが「こちら(他者)が怒るくらい良くないことである」と言うのを、
「怒るという衝撃的なアクション」を持って印象的に伝えようとする、確かにこれが教育において有効な方法ではあると思います。
その学生が罪悪感をちゃんと抱く人で、自分が経験不足からの勘違いによりミスを犯してしまったことを反省できる人ならば、
この出来事は大変ショックで忘れられないものになるでしょう。
同じことをしそうな時、その人は今日のことを思い出しあの時の恐怖と罪悪感をもう味わいたくないとして、同じミスを犯さないようにするでしょう。

しかしそこには、別の大きな問題も発生します。

怒られた相手の心に必要以上な傷を作ってしまうことです。
その「自分はとんでもないことをしてしまったから怒られた」と言う痛烈なミスの記憶は長年残ります、
思い出すたびにストレスが強くかかるほどの痛烈な記憶。
同じミスをしなくなってからもまるで後遺症のように残り続けるその古傷を直すまでにとても多くのコストがかかるように思います。

少なくとも、怒って相手を反省させる(へこませて鍛えて強くさせる)という考えのもと怒ることを行う場合には、
筋トレにおける超回復をもって筋肉を強くしていく理屈同様、
その傷を治すための時間と、休養・栄養として「信頼・自信を回復させる言葉や態度を伝える」アフターケアが必要で、そのケアをお手伝いできないのであれば決して怒る事はすべきではない、と僕は考えます。

3.マウンティング(怒る)をテクニックとしてコントロールしたい

「今後深く関わるかどうかわからない相手だからずっとケアなんてしていけないし、怒られた経験をうまく生かすかは相手次第だから、その場で相手にわからすためだけに怒ればいい」
正直そう思ったりすることもあります。
ですが敵を倒す目的ではない、相手の成長をお手伝いする教育においてこれはいささか乱暴な意見だなと思います、
この時僕自身の正直な気持ちを深掘りして考えると「怒りに任せて相手を傷つけたい」と言う欲求も確実に入っているのに気づくからです。

怒ると言う行為はかなりの場面で「反射的行動」だったりするのではないでしょうか。
こちらの意に反することをされた、その瞬間にカッと頭に血が上り思わずその気持ちを相手にぶつけたくなる。

そこで「怒り(感情)が高まって頭がいう事を聞かなくなってからの、理性が追いつく時間は6秒なので6秒我慢すれば冷静になれる」と言うアンガーマネジメントのお話が大変興味深く参考になりました。
"【アンガーマネジメント②】怒りそうになった時の対処法と長期改善策-中田敦彦のYouTube大学より引用
https://www.youtube.com/watch?v=fjuYr1pj-Bo&t=64s# "

それだけ怒りは瞬間的なもので、「相手に負の思いをぶつけてやりたい」と言う「強い欲求」なのでしょう。

とはいえ、「さすがにこれは怒った方がいいんじゃない?」というパターンもあるのでは…とは思いました。
相手によっては無理解・経験不足によりミスをしたと言うよりは、「明確の悪意を持ってこちら側に損をもたらしてくる人」もいるかもしれないというパターンですね、
そういった相手には正直容赦なく怒りを持ってマウンティングしてわからせてやりたいところです。

ですがよくよく考えてみると…
そのような明確な悪意がある人間には、
後悔させる方法(怒ることで自分が悪いことをしたことを自覚させる方法)はそんなに効果はないのではないでしょうか。

なぜならば、その相手には罪悪感がない。だから悪意を持ってこちらに損害を与えてくるのだと思います。
それならばゆっくりとその相手のやったことがどのような被害を出したか、
それが結果的にどういう理屈で自分に回り回って不利益をもたらすのか、
と言う観点から話をし「あなたのその主張はあなたが損をしているだけ」と感じさせる方法を使った方が有効なように思います。

"こちらのデメリットを伝えるのではなく、相手のデメリットを教えてあげることで意見を聞いてもらう「嫌いなこと回避」"というテクニックが効果的だと思いました。(伝え方が9割 著:佐々木圭一 より引用)

4.まとめ

マウンティングをしない選択をするのは、相手にこちらの意思を伝える上でとても手間がかかります。
怒りをぐっとこらえなきゃいけない分ストレスも溜まるし、場合によってはその我慢が報われないこともあります。

ですがマウンティングをするのは、やはり長くその人とコミュニケーションをとっていく上でリスクが高いように思うのです。

うまく使えば効果が高いものでもありますが、本能的・反射的におこなってしまいがちだからこそ意識的にコントロールしたい「マウンティング」。

僕は性質上攻撃的なコミュニケーションがとても苦手なので、
できる限り使わず使われず、多少コストはかかるかもしれないですが別の方法を試してからにしたい。

うまくマウンティング、そして恐れや怒りをコントロールしてこれからも学生さんやいろんな方とコミュニケーションを長く丁寧にとっていきたいですね!

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