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広島平和記念日に「平和への願い」をやめるわけ

義務教育の9年間、8月6日は夏休みの登校日だった。

黙祷をささげ平和学習をして帰宅。夏の空と雲を見上げ、もしかしたらB29が飛んでくるのではという怖さの中で、爆撃機が来たらあの側溝に隠れよう、ここは隠れるところがないから走ろうなどと頭を巡らせながら、田舎のあぜ道を駆け足で帰っていた夏の日。もちろん平和に暮らしているのに。


10歳頃だろうか。
「戦争は良くない。なぜ人間は愚かなことを繰り返すのか。」と書いた何かの作文。

赤ペンで「戦争が技術を発展させるという事実もあります。」と担任教師が記してくれた。

事実として伝えてくれたのかもしれないし、一方から見て正義と決めつける私に対しての警告だったのかもしれない。


それから30年近くが経った。

戦争と平和。政治、宗教といったタブーになりそうな話題は避けてきた。 

自分の考えは浅はか
多面的に考えられない
何か行動を起こしているわけじゃない

こんな理由から、話すことも書くこもしてこなかった。話したり書いたりする資格がないと思っていた。ただ何もせずに「平和」を願っているだけだから。

何かができる。何か活動をする。とはまだ思えていない。何もしてこなすぎて何も分かってない。


とはいえ10歳の頃、正義感に満ち溢れて作文を書いた頃と変わらず、平和への願いは変わってない。口にするのは自由と思えるようになったので、書いてみてる。

 

そんな私は、まず平和への願いをやめることにした。

平和の響きはとてもいい。

だが『平和』の対になる言葉は『戦争』。平和と戦争はセット。ここに正義と悪ってのも入ってくるかな。

なんで戦争を起こすんだ、なんで平和を求めないんだ!と言っても相手には相手の歴史的背景や事情や思惑があり、関わる誰もが『正義』を振りかざしている。

誰もが誰もの正義を全うするために、戦争が起こる。

アインシュタインのこの言葉が思い起こされる。平和を願うと、戦争や正義や悪が対になり同じ次元なので、平和はずっとおとずれない。

Problems cannot be solved by the same level of thinking that created them.(いかなる問題もそれが発生したのと同じ次元で解決することは出来ない)

7つの習慣、アインシュタインの言葉より

 

じゃあ、どうする?
いったん心に置いておくものを平和ではなく、調和にすることにした。

【調和】[名](スル)全体がほどよくつりあって、矛盾や衝突などがなく、まとまっていること。また、そのつりあい。

goo辞書


ちなみに調和の対義語は、混沌・衝突。

たいして変わらないんじゃないかとも思ったけれど、芸術分野でなじみのある言葉だったり、対義語が複数定義されていたりして、平和とはまた違ったイメージがある。

平和というと人にフォーカスされがちだけれど、調和は動物や植物、自然、地球ともっと大きく多くなものを含む。人だけにフォーカスできない時代なんだとも。


平和って言葉にするのも躊躇するんだけど
調和の方が口にしやすいのは、私だけかしら。


長年の平和への祈りをやめて
調和への生き方をめざしていく。


何ができるかわからないし
何もできないかもしれない。

できないと言ってたら何も進まないから

日常から、家族から、
一番身近なところから調和していく生き方をしていくよ。

しょっちゅう衝突してる夫婦だけどさ。
目指すのは自由だね。



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