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とある神職の「シン・ウルトラマン」鑑賞雑記

特殊な「シン・ウルトラマン」鑑賞法?

シン・ウルトラマンを観てきた。懸賞に当選した鑑賞券を握って。
ウルトラマンについての事前知識など全くない。
しかし、「ウルトラマン」と聞くと思い出す言葉がある。

「教祖はウルトラマンなんだ。」

なんというパワーフレーズ。神職になるための修行期間中、ある講師から聞いた。冗談めかして話されていたが、核心をついているように思えたのを覚えているし、とても印象に残る講義だった。だから、「ウルトラマン」と聞くと神職の眼鏡をかけてしまう自分がいる。宗教的な観点で「シン・ウルトラマン」を読み解こうという訳ではないが、無意識のうちに「シン・ウルトラマン」を通して自分の宗教理解を深める触媒的な役割を期待していたように思う。
※ちなみに、神社神道には教祖という概念はありませんが、教派神道には教祖が存在します。

こんな鑑賞の仕方は見当違いではないかとも思ったが、主演の斎藤工さんも、

「神仏のような存在と向き合うことに注力しました」

斎藤工(GQ JAPAN「"シン・ウルトラマン計画"の全貌に迫る」)

とインタビューで発言していることや、劇中にもウルトラマンを「神に近い存在」と呼称していることからも、あながち外してないかも知れないと思ったりもする。

そもそもウルトラマンというネーミング自体、「ウルトラ(=超越)」+「マン(=人間)」で「超越者」という意味だし、ウルトラマンがやって来る「光の国」が極楽浄土を想起させると指摘する評論もあった。


ハヤタ隊員と神永の人格のゆくえ

ここで「教祖はウルトラマン発言」のあらましを説明しよう。教祖は神か人か、という論争は教祖が存在する宗教には避けては通れない。僕の宗派においても教祖は人の子として生まれながら神格化していく訳なのだが、「発言」の講師は、教祖のなかに神格と人格が同居しており、だから、天地自然をつかさどる神との意思疎通が可能となのだ、と言う。ちょうどこれはハヤタ隊員の肉体にハヤタ隊員とウルトラマンが同居するのと符合する(「発言」は「シン・ウルトラマン」公開の数年前)。

本作においても、ウルトラマンが斎藤工さん演じる神永と「融合」(と呼ばれていた)した外星人と地球人の「狭間」の存在として描かれている。神永が自らの命を賭して子どもの命を救った行為にウルトラマンが興味を持ち、融合した。

ウルトラマンと融合した神永に、融合以前の神永の人格が残っていたのかは不明だ。公安時代の特殊塗料というやり方で位置を伝えるなど記憶が残っているように見える一方、辞書や学術書を読み漁り人間の知識を体得しようとする姿から融合前の知識を持っていないようにも見える。少なくとも、融合により神永の死は免れた訳だが、融合していた間については人格が「オフ」だったように思える。

この辺りは「発言」が参考にしている初代ウルトラマンは違っていて(とは言え聞いた話だが)、日常的にはハヤタ隊員の人格がオンになっているものの、変身することによりウルトラマンがオンになる、というものだった。こと教祖については、このどちらでもなく、もっとマーブルな状態だったのではないかと思っている。


「狭間にいるから見えるものがある」

劇中で最も印象的だったのが「狭間にいるから見えるものがある」という台詞。外星人であり、地球人でもあるという「狭間的存在」がウルトラマンの存在意義なのだと思う。教祖というものを表すにも相応しい言葉だろう。

人間では理解が及ばないことも解るし、一方で人間的な心情にも共感できる。
両方に通じているからこそ「架け橋」になれるのだということ。

しかし、一方で純粋な意味で、外星人ではなくなってしまっているし、地球人でもない。双方に理解されなかったり異物として扱われてしまったりもする。「架け橋」は両岸に架かるが、接地面以外はどちらにも属していないのと似ている。狭間ゆえの孤独や苦悩もあるように思える。その孤独や苦悩を一身に背負いながら、それでも地球人の助かりを願う存在がウルトラマンであり、教祖であると言えよう。


様々な「狭間」にいる私たち

風呂敷をすこし広げすぎたかも知れないが、私たちもウルトラマン同様、いろんな「狭間」に置かれることがある。上司と部下、父親と母親、利己と利他、男性と女性、日本人と外国人ーときに仲裁者としての立場に立たされたり、あるいはマイノリティとして当事者になったりすることもある。両者から理解を求められたり、両者から疎外されたりする立場でありながら、両者を取り持つ可能性を秘めているのもまた「狭間的存在」なのである。どちらか一方に加担した方が気が楽かも知れないが、あえて「狭間」に居続ける意味があるのだと思う。



おまけ:鑑賞後雑記

・圧倒的な存在を前にすると思考停止して、依存(隷属)する人間心理とそれを超克して行く必要性についてメッセージがあった。そして、意図したものではないだろうが、それぞれのシーンについて具体的な社会問題を想起されられた。

ザラブへの態度     →外交問題
ゼットンを前に思考停止 →環境問題
ウルトラマンに丸投げ  →コロナ対応の政府任せ

・神永がシュタイナーを読んでいる。斎藤工自身がシュタイナー教育を受けてきたこと、宗教性について。

・神永がレヴィ・ストロース『野生の思考』を読んでいる。同氏は民俗研究の大家で構造主義的立場としても有名。「未開」だと考えている社会が実は「近代化社会」と通じる構造を有しているという内容だったかと思う。外星人である神永が、地球人理解のために読んでいるという設定か?ウルトラマンについて考察した思想家・人類学者が「100分de名著」で同著を解説していたので併せて読んでみよう。

・長澤まさみの眉毛がナチュラル(というか手がほとんど入っていないように見える)のは、忙しいと数日風呂にも入らないという役柄を表してのことか。

・シン・エヴァンゲリオンの「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」から、今回の「おかえり」という台詞に繋がりを感じずにはいられなかった。

・禍威獣が地球を侵略する存在というより、浄化させようとする存在とするあたり、ナウシカの王蟲や腐海を想起させられる。宮崎駿イズムが継承されている?笑

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