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一見、子どもの気持ちに寄り添って対話しているように見えるんだけど、結局は、自分の持つ答えに固執していて、やんわりとそれに導いているだけの大人について
2024年1月11日 曇り
昨日、また偉そうにこんな記事を書いた。
何か気がついたふうに書いているが、こんなことはみなさんにとって自明のことだろうと思っている。私が遅ればせながら気がついたことにすぎない。
しかしやはり、私が感じていることを表現しきれてはいなくて、言語化する難しさを痛感する。
なので、まとまりがなくて申し訳ないのだが、今回もまた、関連してもう一つだけ追記したい。
そもそも書いていることは、<子どもたちを見守って、対話しよう>ってだけの話で、冒頭にも書いたが、そんなことは子どもと向き合うみなさんにとって自明である。
子どもたちに、自分の考えを押し付けたり、頭ごなしに叱りつけるような大人は、長女が産まれた7〜8年前に比べてみたら、確実に減っているように思うことからもわかる。肌感覚だけど。
それは、現代を憂いて、旧態依然とした教育や、子育てに疑問を持つ大人が増えているということだと思うし、私にはいいことのようにうつっている。
しかし一方で、そうすると<良い子育て>とされているはずの、<見守る><寄り添う><対話する><自己肯定感><非認知能力>等々のワードは、どこか独り歩きしているように感じることもある。
一見、子どもの気持ちに寄り添って対話しているように見えるんだけど、結局は、自分の持つ答えに固執していて、やんわりとそれに導いていっているだけの大人。
そこにはプロセスがないように感じるのは私だけだろうか?
子どもたちと共に悩み考えるプロセスこそ尊いと思ってのことである。
そもそも自分など、別に正しくもなんともないし。
ぶち当たる壁ごとに答えを出そうとし過ぎ。
そう思うんだねぇ、なるほどねぇで、終わって、後日、そういえばこの間の件さ、で始まる対話を子どもとしたい、って感じで言えてるんだろうか。
子どもたちと一緒に悩み考える、一緒に学び直す、そんな意識で子どもたちと接してみるのは難しいことなんだろうか?どうなんだろうか?
それで改めて、昨日のタイトルをもう一度擦っておくと、むしろ、大人の役割はそれだけでいいんだと思っているのだが、どうなんだろうか。
ってところで、以上とします。
長々とすみませんでした。
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