少し辛口です、子どもを守りたいなら
色んな方の記事を読み歩いているなかで
親子関係・夫婦関係において、
「なぜ自分が非難されるのかわからない」
という記事をいくつか拝見しました。
そういった方々の疑問に対する答えを
筆者なりに考えてみました。
…
1.自分の価値観を押し付けても毒親と言われない人がいる中で、なぜ自分は毒親だと言われるのかがわからない
目に見える暴力をふるっていないとしても、
子どもに罪悪感を負わせていませんか?
その価値観から “子が得たもの” を “そのまま”(大人の都合や自分の感情とは切り分けながら)受け入れられているでしょうか。
例えば、「ある習い事をするよう誘導したことはあるが、強制はしていない。子どもが嫌がってその習い事をやめたときも私は怒らなかった。だから自分は価値観を押し付けていない。」という主張があるとします。
習い事この子にいいかも?と思うことは、親なら自然にあることだと思います。ただ、以下の点はどうでしょうか。
① 提案と誘導は違います。誘導はコントロールです。
② 「やめたときも怒らなかった」これを理由としてあげるということは、「怒らずにいてあげた」という気持ちが隠れていないでしょうか。「本当は自分はがっかりしているけど、我慢して子どもの意見を優先してあげたのに…」といったような気持ちです。
子どもは親の “期待” や “ガッカリ” に敏感です。
“ガッカリ” は、子どもに罪悪感を植え付けます。
“ガッカリ” したのは自分なので、それは子どものためではなく、自分が自分のために処理する感情です。
③ そもそも、「嫌だからやめたい」と言っている人に対して「怒る」という動作がセットとして出てくるのはなぜでしょうか? その原因を考えてみるのもいいかもしれません。
意見を言っても毒親と呼ばれない人たちは、
もっと自分自身に対して素直なのではないでしょうか。
もしくは、自分の気持ちと相手の気持ちの
切り分けが上手なのかな、とも思います。
同じ「やめていい」でも、
「そっか、私はあなたにいい影響があると思ってやってほしかったんだけど、あなたは嫌なんだね。よし、やめよう。嫌だってこと教えてくれてありがとう。」と対等に向き合ってやめるのと、
曇った顔や作り笑顔、もしくは嘲笑で、
「やめたらいいんじゃない?」と
言われるのとでは、
やめるという結果は同じでも、
相手側が受ける印象には大きな差があります。
…
2.配偶者の悪い部分が子どもに悪影響を与えているのに、自分ばかり責められるのはおかしい
その“悪い”と思っている部分は(表れ方は異なっていても)ご自身の中にもあると思った方がいいし、たぶん相手方も逆の立場で同じことを言っていると思います。
パートナーは鏡です。
似た者同士だから一緒になりました。
相手だけがおかしいということはないです。
私も過去にやばい人と結婚してましたが、
それは私がやばい人間だったからです。
それで、こういう話題になると
「自分にも非があった」という言葉だけで
片づけようとする人がいるんですが、
それ、解決になってますか?
表現方法が違っても、
相手がやってることと自分がやってることは、
根本的には同じと思ったほうがいいです。
たとえば、
依存する側は見てわかりやすいですが、
依存される側も実は同時に相手を縛っています。
依存される人がいなければ、依存する人は存在しないんです。
支配においても、
力で頭ごなしに押さえ込むことだけが
支配ではありません
“かわいそうな人”という立場を維持し続けることで相手を支配する、ということもあります。
相手の “悪い” と思っている部分が、
自分の中の何にあたるのかを確認してみると
違うものが見えてくるのではないでしょうか。
※これは暴力を受けている側を責める意味で言っているのではありません。
とても繊細な問題、特に虐待やDVにあっている人には誤解なきようお伝えしていきたいところです。被害を認めることとこれは、別課題と捉えてください。
…
3.自分はこんなにも譲歩しているのに、相手(配偶者)が話し合いに応じてくれない
この主張をする方々に
共通する思考パターンがあると私は思うのですが、
相手にはこういうところや
こういうところがあって、、、
勿論、相手だけが悪いとは言いません、
相手を恨んだりもしていません!
自分にも非があったとは思います、
だけどそれにはこういう理由や
こういう理由やこういう理由があって、、
自分はこんなにも皆の幸せを考えているのに
相手のせいで全く話し合いにならないのです・・・
そして、最後は
“子どもの幸せ” で
締めくくる人が多いのですが、
私には、この文章は
『あなたは悪くないって言ってほしい文章』
『なんていい人なのって言ってほしい文章』
に見えます。
同情や共感を求める姿勢が問題なのではありません。
何を書くかは自由だし、
その目的が
こころの膿を吐き出すことでも、
共感を得たいということでも、
話しを聞いてほしいということでも
いいと思います。
(筆者自身もそういう目的あります)
問題は、
【 目的を自覚していないこと 】です。
そして、
文章がこうなるということは、
恐らく、日常会話でも、
同じような思考回路で
会話していると思います。
目的(ゴール)が
「自分は悪くない」
「いい人でいたい」
というところにあるのに、
そこから目を逸らして、
「子どものため」とか
「みんなのため」という
姿勢で会話に臨んでいると
話しがいつまでたっても嚙み合わない
これを続けているうちに、
「話し合いしても結局いつも、“自分は悪くない”ってところにもっていこうとするから、もうあの人とは話したくない」
となっていきます。
ところで、ここで言ってる譲歩って
何を指しているのでしょうか?
我慢を譲歩と呼んでいるのでしょうか?
本音で語ってない状態で、
譲歩ってあるのでしょうか
ちなみに、
相手を恨んでないかどうか
子どもの幸せを願っているかどうか
は、言葉ではなく、
“行動” が 物語ります。
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<< この記事から伝えたいこと >>
なんでこんな失礼なことを
ズケズケと言っているかというと、
以前の筆者自身がまさにそうだったからです。
旧夫婦関係においても
親子関係においても
私は「いい人」や「かわいそうな人」
であろうとすることを
なかなかやめられませんでした。
その結果、
人生はどんどん好くない方向に
進んでいきました
…
ポジティブ思考は大事ですが、
ポジティブなのと、
自分の闇から目を逸らすのとは違います。
光があれば闇はあります。
人工照明で照らし続けている間は、
自然光がどれだかわからない
暗闇に身を置いてはじめて、
自然光(自分の本当の優しさ)が
どれなのかわかります
…
本当に子どもを守りたいのであれば、
世間体とか評価とか善悪とか
あらゆるフィルターを取っ払った
自分の本音 (闇) と向き合う勇気を
もっていただけたら嬉しいです。
“闇と向き合う” というのは、
自分を責めろという意味ではありません。
“ 自分の言動を冷静に分析してください ”
ということです。
そして、
その闇の発端は、
あなたのせいじゃないです。
自分の闇を認めるって
しんどい作業ですよね
でも、
向き合える方だからこそ、
この記事と出会われていると思います
筆者の闇はこんな感じ👇
「口ではありがとうって言いながら、
あなたは心の底では誰にも感謝してない」
って言ってもらった話が最後にあります👇
苦しい中、
最後まで読んでくださり
ありがとうございました
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