朝井リョウの「正欲」を読んで、「少女は卒業しない」が好きすぎることを思い出した
「少女は卒業しない」を最初に読んだのは青春ど真ん中の中学生のとき。バスケットボールを追いかけ、誰もいないところで重度の捻挫をして、部活で見学を余儀なくされ情けなくて泣いていた、あの日々だ。
当時、部屋の学習机で読んでいて度肝を抜かれた。なんて言うか、当時の私の日々にはドンピシャすぎた。その中の「在校生代表」は恋愛ストーリーとして、今でもめちゃくちゃ好きである。
当時の私にとっての高校生の卒業式は、何となくどんなものか想像できるけど、高校生ってその後の進路とかみんなバラバラになるし何か中学卒業よりも大事だよね、という感じで。この小説から、今で言う「エモさ」と、王道な感じの卒業式に途轍もなく感情移入した。憧れ成分を頭の中のノブが「もう死ぬど」とと言うギリギリまで摂取させられた。(当時は千鳥のノブの存在は知らなかったが。)
何だかもう、グサッと刺されるより、もっと大きいものでドンッと押された感じ。
「うわあぁぁ!!なんか、みんな目の前のことに一生懸命で、必死で、頑張って、張り詰めたギリギリみたいな、虚勢を張ってる感じが最高だ…!!」とベッドに倒れ込んで悶えた。
何でこんなに憧れたかって、私の通っていた小学校も中学校も幸か不幸か新築ピカピカだったからだ。この小説に出てくるような哀愁漂う埃っぽいレトロさと、青春ど真ん中の若々しさの対比みたいな良さが全くなかった。ピカピカの校舎とピカピカの3年生の卒業だった。エモさ成分ゼロ。
そんな生活だったため、この小説が好きになりすぎて、高校入試の面接で好きな本を聞かれたら絶対「少女は卒業しない」を挙げる!と息巻いていた。(姉にはそんな縁起の悪いタイトルの小説はやめろと止められた。)
何で、こんなに当時の感情が再燃してるかって、映画を見てきたからだ。原作は朝井リョウの「正欲」。あんな青春ピカピカの鋭い光みたいな文章を書いてた彼が、大人社会の影にいる存在の隠し秘めたる思いを書くようになったのだ。そう思ったら、過ぎた時間をものすごく感じた。
私も、朝井リョウも、ほんとに、どうしようもなく、大人になったのだ。
あの時の猪突猛進な、何でもできる!みたいな、マリオのスター状態みたいな、この世界を掌握したみたいな感覚は、もう感じられないのかもしれない。でもそれは、生きてきた証拠で、ありがたくて、嬉しいことなんだ。時間が経つことは、神様からの寿ぎでもあるのだ。そう思った。
さて、もう一度「少女は卒業しない」の話に戻らせてくれ。
ほんとに、もう、良作だよね。もう、どの登場人物も大好き。みんなまとめて抱きしめたい。大丈夫だよ、大好きだよって言ってあげたい。
中でもやっぱり「在校生代表」は大好きだ。文章を読むだけで、あの世界に自分も没入してしまう。
たくさんの思い出をつくった体育館の中で大勢の知らない大人といつもよりきちんとした格好の先生たち、3年間を共にしてきた友達、冷めたくて張り詰めた空気感、ステージにマイク1つで立つ孤独で孤高な彼女の姿が、私には見える。
則天武后の悪女ぶりを先輩よりも知っていて、試験の成績ランキングに自分の名前が載ることに事前に気づくくらい聡い彼女。そんな彼女の恋。
計算高い女で上等だ。この恋が実らずとも、どうなろうとも、一緒に生徒会室に居たかった。同じ数式を見て、おでこをぶつけたりしたかった。花火を並んで見たかった。
何て純粋で一生懸命な恋なんだろう。そりゃあ先生だって成績順の掲示から名前抜くくらいしてあげるわ。
そんな聡明な彼女が、用意した上品な文章を投げ捨てて伝えたかったのが、今までの彼との思い出。ここまでの事の成り行き。しかも、かなり砕けた口調で友人に語りかけるかのように話す。
嗚呼、この子は頭が良くても、教室で「うるせえぞ!」って先生にどやされるくらいに同級生と騒ぐような子だったんじゃないかなって思う。それでもきちんと時系列で、つっかえて余談を挟んでも本筋にちゃんと戻るのが、彼女の頭の良さを表してるんだろうな。
在校生代表は時に熱心に、時に言いよどみながらも続いていく。長い、長い、彼への思い。生徒会に入った本当の理由。立候補したときの話。長く、長く、時にハウリングしながら、体育館に響く。
嗚呼、美しい。なんて綺麗な感情だろう。
ここ(note)で明らかにしている通り、私はアセクシャル(恋愛感情がない人間)だ。だからだろうか、この卒業という感慨深い儀礼にある格式ばったイベントの中に落とされた、1つの恋という要素が物凄く浮いていて、ガラス玉のように輝いて見える。 恋愛というものの美しい面を私に教えてくれる。
青春は儚い。もう戻って来ない。私たちは大体、週に5回程、荒々しいアラームで起きて満員電車、あるいは車の渋滞に巻き込まれたりしながら、お金を稼ぎに行かなくてはならない。「また明日ね」なんて言わずに、疲れていることを前提にした「お疲れ様です」を言って帰る生活をおくるのだ。
「正欲」。彼が伝えたかったことを、私が読んで感じたことを、まだ整理しきれていない。映画もまた然りで、依然として私の心の中に問いかけとして残ったままだ。
アセクシャルである私は、社会のバグかもしれない。露見されてしまったバグは背負って生きていくしかない。バレていないのであれば、隠し通して行かなくてはならない。自分の核にあるものを他人に執拗に追求されたくはない。
映画「正欲」はヒットを飛ばしているらしい。国民的アイドル、国民的女優、稀代のミュージシャン。どの世代も虜にするキャスティングは見事である。
あとは、見た人が何を感じ、明日から社会バグをどのように存在させていくか。
地球への留学生は、その場所に帰化できるのだろうか。
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