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全18回/双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方

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双極性障害を発症した大学4年から、うつ・躁うつ等の方々を支援する職について7年目までの14年間を記した自分史。
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#日記

双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第1回 [双極性障害の開示とうつ診断で始まった双極生活]

はじめに「双極性障害(躁うつ病)の当事者としての松浦さんを、もっと発信したらいいんじゃない?失敗だと考えてる経験も全て価値になるよ。」 2017年11月29日。前職から8年の付き合いで、今私が所属する会社代表の伊藤さんの言葉に、自分はハッとさせられました。 (前から考えてはいたが、本当の意味で覚悟してなかったのかも。企業で働く双極性障害の当事者として実名で顔を出し、疾病があっても働いていけることを伝えていく覚悟。) このnoteは、私、松浦が双極性障害を発症した大学4

双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第2回(21歳:人生はじめての軽躁状態)

〜21歳(2004年)発病〜はじめて精神科の入った病院に行った日、実際は病院の入り口までいって引き返してしまいました。 (この入り口を越えたら、うつ病と確定してしまうのでは。もう引き戻せないのではないか) ただ、引き返したところで状況は改善せず、数日後再び病院へ、そして意を決して精神科の待合室までたどり着く。 (家から近い病院。同級生がいたらどうしよう。ばれたらどうしよう。。) そんな思いの中、名前を呼ばれ、自分の症状を伝えると、 「軽いうつ症状ですね。お薬出してお

双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第3回(22歳:新卒入社での浮き沈み)

〜22歳(2005年)〜 入社日の朝、とても気分が重く、朝起きるのもつらかった。 何とか電車にのり、会社に向かう道で (ここで引き返すとどうなるんだろう。新卒で会社を入社1日で退職なんて、誰にも顔見せできない。) そんな考えがうかび、何とか会社にたどり着きました。 私が入社した会社は、名古屋で50年以上続く社員30名程度の食品原料の商社。 なぜ起業志望の私が入社したかといえば、当時60歳近い社長はとても考えが柔軟で、また原料商社というスタイルだけでは生き残れないので新

双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第4回(22歳:刺激ある日々と退職の兆し)

〜22歳(2005年8月)〜 ところで、私の所属した部は何のネット事業をしていたのか? 主には「海外からペット(主に猫)用品を輸入し、楽天・ヤフーなどのネットショップで販売する」というものでした。 今でこそ楽天は有名になりましたが、2005年当時まだまだ世間はネットでモノを買うことに懐疑的。そんな中で、私たちの部は、ネットショップの販売だけで収益をしっかりあげ、法人化することを目指していました。 ただ、会社から私に言い渡されたのは、「既存の仕事をやってもらうつもりはない

双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第5回(24歳:夢に見た独立と出版、そして挫折)

親友にも家族にも話したことないこと。 2007年、25歳になるこの1年間の詳細は、ずっと隠してきました。人に話すと軽蔑をされる、恥ずかしい経歴だと思ってきたから。 今回、noteをはじめるにあたって、14年間を振り返ること以外に目的があったとすれば、この2007年の出来事を自分で消化し、開示し、整理をつけること。 そして、次につなげることだと思っています。 〜24歳(2007年)〜その出会いは、私の行動がきっかけでした。 昔から私は、サプライズが好きでした。人の想像を超え

双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第6回(25歳:都落ち、うつで実家に引きこもる)

〜25歳(2007年10月)〜 「会社を辞めるからには、今度名古屋に帰ってくる時は独立が間違ってなかったと証明して戻りたい。」 そんな想いを持ち、名古屋を出たのが同年2月。 8ヶ月が経ち、起業を諦めるという結果で戻ることになり、「友達や前職の人に合わせる顔がない」という考えが第一にありました。 そのため、実家にいることは誰にも連絡をしませんでした。 出来るだけ、人目に触れないように外出は夜中。 午前はひたすら寝て、NHK朝ドラの昼再放送がはじまる時に起きる。午後も何

双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第7回(25歳:人生はじめての休職と復職と…)

〜25歳(2008年3月)〜今回の転職時、マイナスと思う部分は伝えなかった。つまり、うつ病ということを隠しての入社でした。 (バレないようにしたい。うつの症状は出てくれるな。) そう願い、後ろめたさを抱え続けながら働いていたため、会社にいけなくなった日には、「遂にこの日が来てしまった」という心境でした。 多くの中小企業と同様、この会社でも休職者対応のノウハウがあるわけではなく、一定期間休んで、戻ってきたら以前の勤務時間で業務を再開するものだ、と認識されていました。

双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第8回(26歳:軽躁の勢いで再び都のベンチャー企業へ)

〜26歳(2009年1月)〜 「で、いつ来れますか?」 (本当にこういうのってあるんだなぁ。東京って凄いなぁ。) 私はもともとテレビっ子。 生まれは島根県で、昔からテレビの中に見る都会への憧れと偏見が強かった。 「いつ来れます?」という言葉に、東京感というか、何となく凄いと感じていました。 (私を必要としてくれる所があるなら行きたい。ソーシャルビジネスという分野の可能性を感じるし、こんなメンバーと一緒に、やる気に満ちた環境でやってみたい) 「ぜひ、お願いします!

双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第9回(27歳:閉じた心を開いた人)

〜27歳(2010年1月)〜 C社に広報という業務が生まれたこの年、私が並行して担当していたのが「新規事業」でした。 前職でWebサービス企業にいた社長にとって、C社の中でWebサービスを立ち上げることは悲願。 Webマーケティング担当として入社した私がリーダーに抜擢され、その期待に応えるべく必死でチャレンジしました。 私の特性上、自分ごとより人ごと、人の依頼に力を発揮する傾向があります。 このときも、期待に応えたい一身で平日土日問わず新規事業のヒントを探しました。

双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第10回(28歳:福祉サービス、社会復帰トレーニングでの3つの気付き)

〜28歳(2011年3月)〜 通院途中に体験した大きな揺れ、東日本大震災。震源が東北方面という情報が入り、C社の本社や拠点が東北にあったので (あの人は大丈夫かなぁ。。) と、身近な存在が頭に浮かび、とても他人事ではない心境でした。 とはいえ休職の身。 家でテレビを見て過ごすのが日課になっていたため、ACジャパンのCM、震災のニュース、緊急地震速報の音が繰り返される日々で、ただでさえうつ状態なのに、更に気分が滅入っていきました。 そんな中、一緒に新規事業立ち上げをや

双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第13回(30歳:双極性障害でもチャレンジをしていきたい)

〜30歳(2013年4月)〜(自ら、働き続けるのに問題ない、平常の幅を広げていきたい。今はまだ軽躁になってしまうラインも、訓練すればコントロールできる範囲に収められるにのではないか。) この想いで、産業カウンセラー平日夜間コースの受講を4月からスタートしました。 平日夜間コースは、職場から30分の場所で行われ、開始時間は18時半。 会社定時は18時でしたが、仕事に直結する資格だったことと、土日コース選択をして休日が減ることでの負荷の大きさを会社に納得してもらい、定時前に

双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第14回(31歳:継続勤務3年目という未開の道)

〜31歳(2014年2月)〜勤務3年目は私にとって未知の領域でした。 今まで2年以上同じ会社で働いたことないので、自己新記録を更新していく毎日。 重すぎるかもしれないですが、3年目当初はそう考えてしまっていました。 そんな矢先、勤務先の異動が言い渡されました。 御茶ノ水センターの入居するビル 1ヶ月後、御茶ノ水のセンターに変わり、新しい環境でやっていけるのか不安に思っていた矢先、インフルエンザになります。 これから頑張ろうと思う気持ちが空回るかのように勤務停止、強

双極性障害の勤めびと。たどり着いた自分らしい働き方 第15回(32歳:双極性障害と結婚と子供)

〜32歳(2015年1月)〜新しい事業をつくるプロジェクトがスタートしました。 発起人として私がリーダーとなり、業務後の時間を使い、有志が集まってミーティングを重ねました。 私が作りたかったのは、会社の事業「うつ・双極性障害などの方の社会復帰サービス」の対象を広げるもの。 休職、離職中に限らず対象範囲を広げてサービスをとどけたい。 また、会社の理念にある「自分らしい生き方」を実現させるため、休職、離職から社会復帰したあとで必要とする方に、自分らしい生き方を実現させるサ