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Adam's Apple あるいは魚の目の芯 そして不思議の国JAPAN

 誰に命じられたわけではない、自分でことさらに日々を忙しい方向へ走らせている。わたしの年齢であれば猫にからかわれつつ昼寝とテレビでいちにちを埋めたとしてもさほど世間に叱られはしないだろうに。
 世間というのは不思議だ。人さまといってもいい。気にしているうちは、なかなかことはうまくは運ばない。なんとなく距離を置きつつ、さほど気にせず、かといって背中を向けるわけでもなく、とりあえずの笑顔と挨拶をふりまくうちに、するすると事が運ぶ。
 世間も人さまも個人的にはどうも不得手ではあるけれど、この国で暮らす以上、私たちはいつでも世間と人さまのお世話になっている。おそらくこれは事実で、かといって頑なな事実というわけでもなく、なんとなく肌で感じてなんとなくするすると、いるかいないかよくわからないくらいの微妙なポジションを過ごすうちに、出会えば挨拶をし、たがいの健康とありていの幸せを願うくらいの関係性を保てるようになる。こういうのは本当に時間と、自分以外の外側をあまり気にしない鈍感さと自分が自分であることをよく理解するクールで快活な頭脳の動きをまずまず必要とする。
 いろんなものを見るといいだろうし、いろんなひとの話に耳を傾けふむふむと他者の言葉を素直に受け入れることのできる弾性のある魂があるといい。

 忙しさの中身はほぼ外国語である。今朝はスペイン語圏の詩人が書いた詩を訳すのに時間を費やした。詩人の履歴と彼らの作品を丹念に紹介するスペイン発信のサイトを見つけた。メキシコ出身の文学者オクタヴィオ・パスの詩をまずノートに写した。街路を描いた詩だ。何者かにつきまとわれている、しかし振り返るとそこには誰もいない、しかしやはり誰かが自分をつけている、静寂に支配された街路、「わたし」が止まれば「誰か」もその歩を止める、「わたし」が走れば「誰か」あるいは「男」もすなわち走る・・・。こんな内容の詩だ。オクタヴィオ・パスという名はスペイン語圏におそらくは大げさではなく轟いているようなので、彼の作品にあたるときはなんとなく気が引き締まるのだが、これは本来の在り方とは異なる。
 オクタヴィオ・パスだろうが、セルバンテス、ロルカあるいはフランコ将軍、ピカソ、現大統領ペドロ・サンチェス、サンチェス大統領を敵視する対抗勢力の長ー名前は忘れたーであろうが、名の知れた方々のことを、名が知れているというそれだけの理由でよく知りもしないのに崇めたりするのは間違いだ。
 相手がスペイン文化を代表する文化人であれ、マドリッドのバルの片隅で地味にビジネスの話をするアジアの商社マンであっても、相手が誰であっても、お釈迦様であってもキリストであっても、見知らぬ国の見知らぬ神であっても、私はいつでも堂々としていたい。

 いつでも堂々としていたい。
 鼻水が出てしまったら自前のティッシュで拭く。
 テーブルに腕をぶつけて腕をひどく打ち、紫色の傷口から変な臭いの液体が出ていても、胸をはる。
 知り合ったばかりの気のいいご婦人がこう言った。
 「道の真ん中をおまわりさんのパトカーが牛耳っていて、仏花と甘酒を買いに隣町に行きたくても、おまわりさんの小型パトカーが玄関を遮っているから、だからなかなか隣町へと走る列車には乗れないの」
 うそか本当かよくわからない適当な話を聴き、私自身の話も相手に面倒くさがれない範囲でやや印象的に披露して、ともかくわたしはいつでも堂々と胸をはり、自分のいい加減とシリアスをじょうずにコントロールしていたい。

 そんな風に午前中は過ぎた。スペイン語圏の詩人の作品を訳す作業はおそらくわたしが100まで生きたとしても終わることはない。つまり、私には100まで続けてもいいと思える作業がある。すなわち「幸せ」を予知している。
 幸せは魚の目の芯に似ている。突き詰めるのには周囲の固まった皮の集積を削りえぐる必要がある。芯に直接触れるとおそらくは火のように痛い。だから魚の目を抱えた患者は、芯のまわりをぐるぐると削り、芯を探る。いつの日か芯に到着し、だからといってそこには強烈な痛みか、あるいは実は何もないことを知らされるだけなんだろうなと思いつつ、わたしたちは「幸せ」という名の「芯」をメダカの学校の生徒のように群れをなして従順に追う。

 午後は英語のレッスンに行った。ネイティブとの会話に必須のネイティヴっぽいフレーズを日々習っている。同時にわたしは英語の長い文章に毎日触れるようにしている。バイデンやトランプについて書かれた新聞記事を読む、あるいはイスラエルと合衆国のどうも妖しい関係性を新聞記事の中に追う。そういえば本日、SNS上にバイデン大統領が副大統領ハリスや他の多くの人たちの中で約30秒ただ固まっているシーンを見た。
 アメリカは病んでいる。
 それをいうなら日本も相当病んでいる。夫婦別姓をことさらに拒む自民党保守派は何をもくろんでいるのだろう?あるいはどこからかの圧力が、日本を家父長制から抜け出せない、女性に真の自立を与えない、すなわち現状の国際状況からはずいぶん遠いところに置き捨てているのだろうか?

 見えない縛りはしかしどこにでもある。西洋はキリスト教の影響下にある。文化は聖書によってあらかじめ決定されていると疑いたくなるほどに西洋文化は聖書に拠っている。
 リンゴを食べるとリンゴの軸がアダムののどに引っかかる。だから「のどぼとけ」をAdam's appleなどという。

 日本という国を縛っているものの正体はいったい何なのか?いまだに続く政治家の世襲と水流のように自在に移動するよくわけのわからない金。前例や過去の悪弊にあくまで拘泥する不思議の国JAPAN。
 海外からの客は日本の不動産と宝石に湯水の金を惜しまず払い、あるいは富士とコンビニに歓声をあげ、日本人はもたらされる利益と、刻々と消費される固有の日本文化のあいだをゆらゆらと半ば不安げに過ごす。

 これ以上日本を疲弊させてはならない。

 


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