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エルドラドとさかさまの十字架

 眠い。朝から眠かった。午前中眠い頭でnoteに一本話を書いた。眼の周りがしびれて鼻がつんとなる。脳みそと筋肉の区別がすでにつかない。言葉はすでにわたしの監視下にない。それは勝手にわたしから出ていく。否、そうではなくて言葉は不意にわたしを裏切り走り出すのだ。つかまえようと手を伸ばすと言葉は跳ねる、跳ねてどこかへ逃げる。

 暗い夜を跳ねた言葉を追いかけた。すでに言葉はかつて言葉であったことをかなぐり捨てて具体的な形を帯び始めている。さいしょに眼が現れた。赤く充血した尖った眼。赤い眼がわたしをさっと斜めに見た。次に後ろ足と前足と胴体がほぼ同時に空を飛ぶ。
 白いもわもわした羽のような毛をはやした獣がわたしの前をちょこちょこ跳ねている。つかまえようと飛びかかった。が、それはわたしの腕を交わし、左右に飛び、前後を自在に移動する。

 諦めてわたしは部屋に戻ることにする。なぜならわたしは狩人ではないし、詩人でもない。言葉を追いかけるつもりはなく、明日の食事のためにうさぎをしとめる必要もない。そんなことをしてどうなる?

 部屋に戻ると2人の男がトランプで遊んでいた。ひとりの男はジャックのカードを並べて「ジャック」の由来を語ってみせた。「ジャック」はキング専用の道化師でピエロの元祖。いつなんどきでもキングを笑わせ、キングの相談相手になる。だからジャックはキングをいともたやすく洗脳できるのだ。
 わたしは「ジャック」と「ジョーカー」の違いについて男にたずねたかったが、眠いのとウサギを追いかけるのに疲れすぎたのだろう。小瓶のテキーラをあおった。マリアッチが聴きたくなる。
 セニョリータがたたずむ窓の下、マリアッチを奏でるメキシカン。
 恋するメキシカン、という曲をむかしどこかで聞いたことがある、わたしは「ジャック」のうんちくを並べる男ではない、もうひとりの寡黙な男に声をかけた。
 恋するメキシカン、誰の曲か知ってる?
 寡黙な男はわたしの目をめんどくさそうに数秒眺め、
 知らないね。ばあさん。
 
 こうしてわたしは名誉ある「ばあさん」となり、トランプ遊びをするふたりの男のかたわらで古い音楽をかたっぱしから探しはじめる。わたしには不思議な能力がある。古いLPアルバムを一枚一枚手繰り寄せるうちに「今日、聞くべき曲」に辿り着くという天才的直観である。
 部屋には大量の段ボールが置いてある。中にはLPレコードが詰まっているのだ。一枚一枚をリズミカルにチェックしてゆく。今日聴くべきは、ケルトの音楽のように思える、あるいはやはりマリアッチ、そうではなくてジブシーが奏でるスパニッシュギター、アメリカ南部の恋の歌、わからない。心がぴたっとそのLPに留まる瞬間を待ちあぐねわたしの指はLPレコードジャケットを風のスピードでめくるのだ。
 やがて「恋するメキシカン」をわたしの指は突き止めた。
原題はMexican Divorce
  ニコレット・ラーソンのアルバム「愛しのニコレット」の中に眠るステキな曲だ。わたしは「愛しのニコレット」をターンテーブルにのせ、慎重にレコード針を降ろした。

 ふたりの男たちのトランプ遊びはいつまで続くのだろう?そもそもふたりは実在するのか?途切れそうになる意識を無理やり奮い立たせ、テーブルにトランプを拡げる男たちを見る。「ジャック」のうんちくを述べていた男のたくましく盛り上がった肩にさかさまの十字架を入れ墨が見えた。さかさまの十字架には世界をねじる魔力が備わっているとむかしどこかで聞いたことがある。もうひとりの寡黙な男は真綿のように白い肌をしている。一粒の吹出物もないきれいな肌だ。
 あまりにも眠すぎる。愛しのニコレットが古きアメリカの歌をわたしに聞かせてくれているというのに、わたしの脳はすでに「かつてあんなに憧れたアメリカ」を捨てている。ニコレット・ラーソンは失われたエルドラドを歌っているのだ。

 さかさまの十字架を肩に彫った男がわたしに襲い掛かる。右の頬を殴られた、一発目、左の頬を殴られた、二発目。生来、知能に問題があり、男の欲と暴力には従順に従う傾向のあるわたしは殴られながら殴打の数を数えていた。合計して10発目に右か左の頬を打たれたとき、わたしの眼からガラスの義眼がはずれ、わたしの上半身と下半身がふたつに割れた。寡黙な男はわたしの上半身と下半身をかぼちゃを集めるみたいに手際よくたぐりよせると、大きな水槽にわたしの下半身を沈めた。

 わたしは今、上半身だけでこれを書いている。遠くで跳ねていたうさぎが戻ってきたのだ。戻ってきたうさぎはわたしの目の前で「戻ってきたよ」を表すステップを数回繰り返し、それから言葉に戻った。
 さっきまでうさぎだった言葉を使ってわたしはこの文章を書いた。原稿用紙にして5枚分のうさぎのステップだ。
 
 洗濯機が回る音がする。

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