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嘘のスペインひとり旅 バルセロナの海で怪物になる

 潮風に吹かれてバルセロナまでやってきた。アンダルシアではさんざんな目にあった。黒ビールとパエーリャで腹を膨らませていたら太っちょの禿げたアメリカンに絡まれたのだ。年齢はたぶん50より少し上くらい?いや、男の年齢はわからない。日本人でもわからないのだ、アメリカ男の年齢なんかわかるもんか。アメリカ男は下手くそなスペイン語でわたしを口説いてきた。うっとおしかったから下手くそな英語で失せろと言ったら、ネィティブ英語で生意気なジャップのババアだとやり返してきた。
 ジャップはよろしくないわよ、Japanese lady とお呼びなさい。
 そんなわけで女の一人旅には数々の災難がふりかかる。

 サグラダ・ファミリアはもちろん観た。
 ミロの美術館も観た。
 アートでお腹いっぱいになった。

 そして今、のんびり海岸を歩いている。日本でわたしを待っている家族のことを思い出すと少し心が痛む。行きたいから行かせてくれ。勢いのままに家を出た。行かないと脳が窒息してしまう。無茶苦茶な理由で決めたスペインひとり旅だ。
 お前はいつでも気の向くまま、俺のことなんかほったらかしさ。
 むかし、音楽をやっていた夫が書いた曲だ。わたしのことを歌ったのかしらん?聞いたら「歌詞に意味はない」とのことだった。
 彼はたくさんの音楽を聴いている。しかし歌詞にはさほど興味がないという。もっとも人生を語る系の歌詞には嫌悪感を示す。80年代歌謡曲のようにたわいなく「君が好き、きみが欲しい」などと騒ぐような歌詞ならいいらしい。洋楽の歌詞になるとリスニングに抵抗があるらしくほとんど意味をとろうとはしない。さすがにデビッド・ボウイのレッツダンスはわかるでしょ?と聞くと、ネィティヴ英語はレッツ・ダンスなんて言わない、いうならレッツ・ロックンロールだ、と答えた。レッツ・ダンスなんて言ったら、ダサイともいう。わたしはダサイという言葉がダサイと思った。

 異国の海辺はみっつめだ。
 ひとつはメキシコ アカプルコの浜辺。
 ふたつめはアメリカ サン・フランシスコの浜辺。
 そして今、バルセロナで海を見ている。
 深呼吸をした。わたしは今たったこの瞬間に自然発生したぼわぼわの怪物だと自分を定義してみた。日本人でもなければ、人間でもない、文学も知らないし音楽も知らない、政治も宗教もなんにも知らないただのぼわぼわの怪物、すると心はうるさいほど興奮する。破裂しそうな歓喜が全身から湧き出てくる。二本の脚はいつの日か象の背をまたぐためにある、手を伸ばせば太陽の炎にきっと届く、ふたつの眼はすべての神から解放される日を待ち望んでいる。

 カンバスに油絵具を重ねている青年に出会った。とび色の髪と日に焼けた肌、引き締まった顎のラインと髪のかたち、肉体ぜんぶのバランスから見てどうやら日本人だ。
 くだらない女のふりをしているうちに本当にくだらない女になりさがりました、という表情を工夫して作り青年に近づいた。
「こんにちは。海を描いているの?」
 青年はちらと私を見ると、見事なほど正直な嫌悪の表情で私を追い払う。男に追い払われるたびに、作るポーズがある。「はいはいわかりました」のポーズだ。背中を丸め、腰のうしろで手を組み、子ウサギのように足をぺたぺたさせつつその場を去る。人生で何回このポーズをとってきただろう。

 潮風を浴びた髪はどこかべとつく。じょうずに巻けた髪は一本一本がからみあってもみくちゃだ。ベージュのショートパンツのポケットに両手を突っ込んで歩いてみた。
 世界に人類共通の「幸せ」なんてものがもしあったとしても、わたしはそんなものを探したりしない。バルセロナの浜辺をショートパンツのポケットに手を突っ込み、ひとりでふらつく今のわたしは、誰よりもきっと幸せで、誰にも決して理解なんてされたくないのだ。
 さみしい。
 禁句だ。死んでも口にするもんか。


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