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「意識高い系」の大学生だった10年前の自分に、起業したいま伝えたいこと

学生時代の僕は、いわゆる「意識高い系」でした。

何者でもない自分に、すごくコンプレックスがあったのです。「とにかく何かで突き抜けたい」と思っていて。大学にもほとんど行かず、NPOやインターンに打ち込んでいました。

でも、なにをやっても満たされない。理想に現実が追いつかない。周りにはもっと優秀で、カリスマ性のある人がたくさんいました。

彼らと自分を比べては、嫉妬ばかりしていました。

それから10年以上が経ち、いまはFUSIONというデジタル広告の会社を経営しています。サイバーエージェントとチョコレイトを経て、2020年に起業しました。創業から4期目、まだまだ道半ばですが、売上は20億円を超える見込みです。

大して優秀でもなく、カリスマ性もなかった僕が、なぜ起業してここまでやってこれたのか。

これまで自分や会社のことはあまりオープンにしてこなかったのですが、採用に力を入れるタイミングということもあり、まずは創業までの道のりを書いてみることにしました。

決して生きるのが上手な人間ではないので、ちょっと恥ずかしいのですが……。いまキャリアに悩んでいる方や、就活中の方、起業を考えている方にとって、少しでも役に立ったらうれしいです!

「意識高い系」になったワケ

僕が「何者かになりたいコンプレックス」をこじらせることになったのには、大きな理由がありました。

それは、経営者だった祖父の存在です。

祖父は、山形で印刷会社を経営していました。地元ではちょっとした有名人で、みんなから慕われている。僕のことをすごくかわいがってくれて、僕も祖父のことが大好きでした。

朝から一緒にゴルフに行ったり、大人がたくさんいる会食に連れて行ってくれたり。そして行く先々で「これが次の社長だ」と言いふらすのです。

祖父からは、毎月のように手紙が届いていました。

「遼介は無条件で社長になれますが 社員はどんなにがんばっても社長にはなれません」「だから社員のためにも尊敬される人にならなければなりません」

代々家族経営だったこともあり、こんなことをずーーっと言われて育ったのです。

僕も「自分は社長になるんだ」と信じていたし「おじいちゃんの期待に応えたい」「どうすれば、社長にふさわしいと思ってもらえるかな?」と、小さいながらにいろいろ考えていました。

でも結局、僕は会社を継ぐことはできませんでした。

祖父は、僕が大学生のときに亡くなってしまって。僕はまだ若すぎて「社長は任せられない」ということになったのです。

「無条件で社長になる」とまで言われていたのに、突然そのレールがなくなって、大好きな祖父もいなくなってしまった。

それは僕にとって大きすぎる喪失でした。

”次期社長”から一転、コンプレックスの塊に

それまでの僕は、はっきり言って「調子に乗っていた」のです。

祖父の前で、僕は無敵でした。祖父は僕を全肯定してくれたからです。周りの人たちも「次期社長」としてチヤホヤしてくれる。

でも、社長の話がなくなってからは、みんな離れていきました。誰も僕のところには集まってきません。実家まで届いていたお中元もなくなりました。

それで「僕自身には、なんにもなかったんだ」と思い知ったんです。

「自分は特別だ」という感覚は、ただ祖父から与えてもらっていただけだった。次期社長の肩書きがなくなったら、本当の自分は、なにも持っていなかった。ものすごく没個性的な人間だったのだ、と気づいてしまって。

MAXだった自己肯定感は、一気にどん底になりました。

そうして僕は「自力で泥水すすってでも、どうにかして、何者かにならなければいけない!」という、圧倒的なコンプレックスを抱えることになったのです。

何者かになりたいけど……

しかし、そう簡単に「何者か」になんてなれるはずもありません。

勉強は苦手でした。高校の成績はずっと下位で、卒業もギリギリ。しかも、サボっていたわけではなく、自分なりにがんばってもそんな結果でした。

部活は野球部でした。けっこう頑張っていて、キャプテンにも選ばれました。ところが僕がキャプテンになったら、組織崩壊が起きて部員が半分も辞めてしまったのです。

組織崩壊の原因は「みんなが求めていない目標」を掲げてしまったことでした。

「関東大会に行く」という目標です。

僕としては本気でした。言葉では、みんなで話し合って、納得して目標を決めたように見えたのです。でも実際のところは、ぜんぜん合意が取れていなかった。

通っていた高校は進学校で「部活よりも受験勉強のほうが大切だよね」という空気が強くて。いざ練習メニューを厳しくしはじめると「ちょっとついていけないわ」という人が多数派だったのです。

みるみる人が辞めていく。そうなったらもう僕は「部活をダメにした奴」として見られます。どんなに正論を言ったところで、誰にも響きません。

それは自分にとってかなりショッキングな出来事でした。

いつしか僕は「社長になりたい」と夢を口にすることもなくなっていました。

小学生の頃は卒業文集に「将来の夢は、社長かプロゴルファー」と堂々と書いていました。でも、AO入試の志望理由書には、もうなにを書いたらいいかわからなかった。

自分なんかが「社長になる」なんて言っても、みんなに認めてもらえないだろう、と思っていたんです。

大学に行かなくなる

大学には、AO入試でなんとか合格できました。でも入ってすぐに絶望しました。

「ああ、自分はここでは勝てない」と。

僕が入学した慶応の法学部は、偏差値72ぐらい。当時の私立文系でいちばん高かったと思います。周りはみんな勉強で入ってきた人たちなので、もうぜんぜんレベルが違うのです。授業を1週間も受けたら、それがはっきりとわかりました。

それ以来、僕は大学に行かなくなりました。

いわゆる「意識高い系」に振り切りはじめたのです。

せっかく入学させてもらった大学だし、受からなかった人もいるのに……と、後ろめたい気持ちはありました。

だけどそうでもしないと、自分の存在意義を見出せなかった。このままなにもしなかったら、ただの「勉強ができないやつ」で終わってしまいます。「なにか違う軸で勝たないといけない」と焦っていたんです。

それでさっそく、友達と一緒に教育系のNPOをつくりました。

やっていたのは、高校生向けのキャリア支援です。AO入試の志望理由書がなかなか書けなかった経験から発想しました。読売新聞や博報堂とコラボしたりもして、ワークショップをひたすら回していました。

NPOの活動は、そこそこうまくいっていたと思います。

けれど周りには、自分よりもっと成功している人がたくさんいました。特にAO入試組は、個性の強い人が多かったんです。高校生のときからNPOをやってメディアにも出ていたり、学生起業をして成功していたりするような人たち。

「ああいう人がリーダーになるべきなんだろうな……」とずっと思っていました。

高校時代のトラウマもあって、なかなか自信を持てずにいたのです。

リクルートのインターンで優勝

転機になったのは、リクルートのインターンに参加したことでした。

グループに分かれて、事業アイデアを考えて提案するインターンです。優勝者はシリコンバレーに行って、現地のVCやGoogleなどの企業を回るというものでした。

そこで僕のアイデアをプレゼンして、優勝することができたのです。

シリコンバレーに行ってリクルートの投資先を回ったり、新規事業担当だった麻生さんの前でプレゼンをしたりしたのは、とても刺激的でした。

事業アイデアは、祖父がきっかけで思いついたものでした。

祖父が山形で老人ホームに入ったとき、様子を知りたいのになかなか知れなかったことが、すごくもどかしかったんです。

向こうに遊びに行ったとき、楽しかったのが「日誌」でした。ヘルパーさんたちが、毎日の祖父の様子を日誌に書いていて。「この日誌を、離れていても毎日読めたらいいのに」と思っていました。

あと、バイタルや体温などのデータも、ぜんぶ手書きで。そういう健康状態や、日誌、病院や家族とのやり取りなど、ヘルパーさんの日々の業務を、すべてデジタルで統合できたらいいな、と思ったんです。

老人ホームやホームヘルパーの市場は、今後どんどん伸びていく予測でした。「リクルートとしても、きっと介護領域には入りたいだろうな」という考えもあって。

あまりに個人的な感情からくるアイデアだったので、まったく自信はありませんでした。もっと戦略的で、カッコいい事業のほうがいいんじゃないか、という気がして。

でも、結果的には認めてもらえた。それで初めて、少し自信が持てました。

圧倒的なカリスマ性やリーダーシップは、自分にはない。でも「アイデア」がよければ、みんなついてきてくれるんだ、と。「これなら勝負できるかもしれない……」と思えたのです。

「このままじゃ自分の市場価値は下がっていく」

大学は、5年生で中退しました。単位がまったく取れていなくて。

親には猛反対されました。そりゃそうですよね。小学校から私立に通わせて、塾にもずっと通わせてきたのに「中退します」なんて言われたら、僕が親でも「はあ?」と思います。本当に申し訳なかったです。

でも「このタイミングを逃したら、自分の市場価値が下がっていく」という感覚がすごくあって。

大学はうまくいっていなかったけど、学校の外でいろんな活動をして、そこでの評価は高くなってきていました。このまま就職すれば、いい会社に行けそうだった。

でもそこから2年も留年したら、卒業するときの自分の価値はめちゃくちゃ低いな、と思ったんです。「今じゃないとダメだ」となんとか親を説得して、中退を許してもらいました。

経営を学びたくてサイバーへ

中退は結果的に正解でした。就活では学外活動を評価してもらい、サイバーエージェントから内定をいただくことができました。

サイバーに入社を決めたのは、社内起業をして、経営のイロハを学びたかったからです。

インターンで少し自信がついてから「やっぱり、いつか会社をやりたい」という思いを、もうごまかせなくなっていました。

いつかその気持ちが溢れてしまったときに「気持ちだけはあるけど、スキルもノウハウもない」みたいな状態になるのはヤバい、と思ったのです。

当時サイバーでは「シロク」の飯塚さんのように、新卒で社長になる事例も結構ありました。そこに魅力を感じて、入社を決めました。

先輩と3人で社内起業

最初の配属は、本社付けの新規事業開発室でした。僕はとにかく延々と「会社をやりたい、会社をやりたい」と言っていました。

それで、新規事業開発室でつくった「CA Young Lab」という会社を、先輩2人と一緒に運営できることになったんです。

やっていたのは、若年層向けのマーケティング。

なかでもメインの事業になったのは「YouTuberマーケティング」でした。途中で別の子会社を吸収したのですが、そこがYouTuberの代理店トップの会社だったのです。

肩身の狭いサイバーでの日々

入社後はとにかく、任された子会社を大きくすることだけを考えていました。

しかし、子会社の社内での評価は、あまり高くなかったです。

サイバーには「CAJJ制度」や「JJJ制度」とよばれるルールがあって、子会社どうしで競い合うような仕組みができています。藤田社長から直々に、会社に時価総額をつけられたりもするんです。

これがサイバーグループじゃなくて、ひとりで独立してやっている会社なら、まあまあいい業績だったと思います。

でも、サイバーが求める基準には、まったく届いていませんでした。

100社以上もの子会社があるなかで評価されるには、やっぱり売上目標が100億円とかにならないとダメなんです。僕らは、いつも下のほうの順位をさまよっていました。

社内での肩身はずっと狭かったです。

「おまえは頭でっかちすぎる」

そのうえ毎日、僕は上司に死ぬほど怒られていました。

僕の仕事は「YouTuberのタイアップ案件」を企業に売ることでした。

ところが、入社してから1年半ぐらい、まったく成果が出なかったのです。しかも成果が出ていないのに、言うことだけは一丁前で。上司からは「おまえは頭でっかちすぎる」と言われていました。

「もっとこうしたい」という思いはあるけど、実力がまったく追いついていなかったんです。当時の僕は、目先の成果を出すことよりも「どうすれば価値が作れるか?」をずっと考えていました。

たとえば、キッザニアに「YouTuber」という職業を作ったり。

それをやっても、すぐに売上に直結するわけではありません。でもそのときは、YouTuberという仕事がまだ公共性を帯びていなかったんです。世間から「職業」として認められていなかった。

だからキッザニアで、子どもたちや親御さんが「YouTuber」という仕事を見てくれたら、世間的な信頼度も高まるはず。

結果的にクライアントからも信頼され、受注につながるんじゃないかと思ったのです。中長期では市場の拡大にもなる。新しい取り組みとして、会社の実績にもできると思いました。

でも僕のやっていたことは、そのタイミングで新卒1、2年目の社員に求められる動きではなかったんですよね。

「今やることじゃないだろ」「そんな小さいことはいいから、もっと手を動かせ」「売上を上げろ」と、ずっと言われていました。

頑固な性格も相まって、なかなかその状態から抜け出せず……。

つらかったけど、辞めるわけにはいきませんでした。「このままでは終われない」「とにかく何かで勝たなきゃいけない」とずっと思っていました。

頭と体が合ってきた

土日も休まず働いて、広告や経営の勉強をしました。

1年目の給料はぜんぶ「本」に投資すると決めていました。とにかく、努力量だけは絶対に負けないようにしようと思ったのです。

すると2年目の後半ぐらいから、やっと成果が出はじめました。

「思いはあるけど、実力が追いついていない」状態だったのが、やっと追いついてきた感じでした。不思議と、頭と体が合ってくるタイミングがあったんです。

最終的には、営業成績1位になることができました。

YouTuber代理店トップの会社で1番になれた、それはすごく嬉しかったし、いい成功体験になったと思います。

サイバーを辞める決意をした瞬間

やっと成果が出てきたのですが、入社2年目の終わりに、僕はサイバーを辞めました。

サイバーには「YMCA」という制度があります。「ヤングマンサイバーエージェント」の略で、毎年、十数人の若手が「次世代の役員候補」として選ばれるんです。

2年目の終わりになっても、僕はYMSAには選ばれませんでした。

それで「もうゲームオーバーなんだ」と思ったのです。「2年目のこのタイミングでも選ばれないような自分が、この先サイバーの本体で、社長や役員になれるとは思えない」と。

実際は、別にそんなこともなかったと思います。

努力次第では、数年後にちゃんと評価されていたかもしれない。役員になれる可能性も、完全にゼロというわけではなかったでしょう。

でも僕は「もうダメだ」と思い込んでいました。

なにかで突き抜けて勝てないと意味がなかった。そうしないと、自分の存在意義を見出せなくなってしまうから。サイバーで突き抜けられないまま、ズルズル時間が過ぎるのには耐えられなかった。

「別の道を見つけて、そこで勝つしかない!」と思ったのです。

ブレストでお腹が痛くなるほど笑う会社

転職先は、当時立ち上がったばかりだった「CHOCOLATE Inc.」でした。

チョコレイトには業界トップのプランナーが一斉に集まってきていました。レベルの高い全体戦略やアイデアの出し方を学べそうな環境に、とても魅力を感じたんです。

面接ではサイバーでの営業の実績も評価してもらえて、入社が決まりました。

サイバーエージェントが「テキーラ」だとしたら、チョコレイトはなんというか「ロイヤルミルクティー」みたいな雰囲気の会社でした。みんな穏やかで、威圧感がない。「こんな会社があるんだ」と驚きました。

チョコレイトに入って驚いたのが、ブレストが死ぬほどおもしろいことでした。みんな会議室で、本当にお腹が痛くなるほど笑っているんです。

業界のトップレベルの人たちと、そんなふうにブレストをして「彼ら基準でOKなアイデアのレベル感ってこれぐらいなんだ」「これぐらいだとNGなんだ」という「ものさし」ができた。

それは自分にとって、すごく大きな財産になりました。

副業でプランナーのスキルを磨く

僕は「チョコを出るときに、営業からプランナーにキャリアチェンジしていたい」と思っていました。いずれ起業することを考えても、このスキルは必須だろうと。

でも、トップクリエイターばかりのチョコで、未経験の僕が「プランナーをやりたいです」とは到底言えません。だからチョコレイトで働きながら、休日に副業でプランナーをやっていました。

チョコで見て学んだ「ものさし」を、副業でひたすらアウトプットしていたんです。

お客さんは飲食店さんがメインでした。飲食だと土日に本社があいていて、土日に打ち合わせや提案ができたんです。平日はチョコで営業をして、土日はプランナーの副業。本当にずっと働いていました。

気づいたら26歳になっていた

「起業したい」という気持ちは、サイバーに入るときから変わっていませんでした。ただ、それが3年後になるか5年後になるか、具体的にはまだわからないなー、と思っていて。

チョコに入ってからも、とにかく目の前の仕事に没頭していて、具体的に起業の計画を立てていたわけではありませんでした。

でも、途中でパッと一息ついた瞬間に、気づいたんです。

「あれ? 俺、もう26歳じゃん」と。

周りの同世代の起業家は、もう起業しているどころか、ひとつめの会社を軌道に乗せているじゃないか! と。 delyの堀江さんや、ZIZAIの塚本さん、ラブグラフの駒下さんとかですね。「26歳のいま起業しなかったら、もう遅い」と思いました。

もちろん何歳からでも起業はできます。でもこれ以上先延ばしにすると、割と「失敗できないゾーン」に入ってしまうと思ったんです。起業して失敗したときに、取り返せなくなるような気がした。

「こういう事業がやりたい!」という具体的なものは、正直ありませんでした。

でもそれまでのキャリアの中で、自分一人でやれることは増えていました。しようと思えば、独立できる。おそらく食いっぱぐれることはない。そして「今しかない」という焦り。「だったら、もう起業してしまおう!」と思ったのです。

そうして僕は、会社を辞めて起業しました。副業で稼いだ、資本金の100万円を握りしめてのスタートでした。

「前田くん、マーケティングの定義ってなんだと思う?」

独立した直後のことです。自分の「広告」への考え方が、大きく変わるできごとがありました。

「Gong cha(ゴンチャ)」の経営会議に、マーケティングチームの一員として参加させていただけることになったんです。

そこには、マクドナルドやコメダ珈琲、IBMなど、名だたる企業でマーケティングを手がけてきた猛者たちが集まっていました。

「こんな人たちと仕事ができるチャンスなんてなかなかない」「学べることはすべて吸収しよう!」と思い、自社オフィスごとすぐ側に引っ越してきて、ひたすら通いつめました。

こちらが当時のオフィス。超狭かったです。夜18時になるとビルのエアコンが止まってしまい、夏場はまるでサウナのようでした(泣)

あるとき経営会議のなかで「マーケティングの勉強会」をやる機会がありました。それで当時の経営者の方に「前田くん、マーケティングの定義ってなんだと思う?」と尋ねられたのです。

僕は言葉に詰まりました。「モノを買ってもらうこと」「伝播させること」……ぱっと頭に浮かんだ答えは、どれもなんか違うような気がして。

彼はこう続けました。

「マーケティングの定義は『顧客価値の創造』だよ」

僕はハッとさせられました。

「広めること」が目的になったらいけない。「価値をつくること」が先にあって、それを伝播させるのが、本来のマーケティングだ。プロダクトも、価格も、広告も、コミュニケーション設計も、すべては「顧客価値の創造」のためにあるのだ、と。

ずっと代理店にいた僕は、そこの感覚がズレてしまっていたんです。つい「この広告の数字を伸ばそう」みたいな、本当に小さいところばかり見てしまっていた。(いま思うと本当に恥ずかしいのですが、、)

経営レイヤーの人からすると「そんな米粒みたいな話をされても仕方ないわ」って感じなんですよね。自分がいかに広告の「具の部分」しか考えていなかったか、気づかされました。

「広告屋」になってはいけない。もっと大きな視点で設計しないと「顧客価値の創造」はできないのです。

「いま広告費にこのくらい使っているけど、実はその予算をパッケージに投資したほうが、レバレッジが効くんじゃないか?」みたいな発想ができなきゃいけない。

どうすれば、いちばんクライアントのためになるか?
どうすれば、投資対効果を最大化できるか?

それ以来、自社で広告の仕事に向き合うときも、これを一番に考えるようになったんです。

初めてのコンペで大手に勝てた

ゴンチャでの学びは、その後の仕事にもすごく活きました。

起業してすぐ、ある電子メーカーのPR案件をご相談いただいたんです。代理店さんから「予算1億で、コンペで提案してほしい」と依頼を受けて。6、7社が参加するコンペで、大手総合代理店や専業代理店も参加していました。

そのコンペで、なんと僕らは勝つことができたのです。

コンペのお題は「インフルエンサーを軸とした、年間を通した統合キャンペーン」でした。

求められていたのは2点。「デジタルマーケティングの知見を生かし、緻密な戦略と検証の設計がされていること」、そして「企画によって成果にレバレッジがかかること」でした。

それはまさに、僕らが意識して力をつけてきた分野だったんです。

これがきっかけで「FUSIONはいい提案をする!」と思っていただけて。他の代理店さんに、僕らを知っていただくきっかけにもなりました。

コロナで仕事が全部飛ぶ

このまま順調にいけるか……!? と思ったら、大変なのはそれからでした。

コロナの影響で、他の仕事がぜんぶ飛んでしまったんです。撮影も納品も、決まっていた仕事がぜんぶ飛びました。

大型コンペには、たしかに勝つことができました。でもコンペに勝っても、すぐにお金が入ってくるわけではありません。

タレントさんの裏どりをして、日取りをして。企画の詳細を考えて、撮影して、納品して、公開。そこまでやってようやく売上が立ちます。さらに入金は、そこから1ヶ月後です。

しかも1億円の案件が取れたら、そのうち8000万円ぐらいは他社さんに発注をします。こんな立ち上げ間もない会社に、上場企業が普通の入金フローで対応してくれるはずもなく「8000万、前金でください」ということになる。

つまり1億円の売上が立つ前に、まず8000万円が手元に必要になるわけです。

それなのに、他の仕事がコロナで吹き飛んでしまった。もう本当に地獄でした。

すぐに銀行に走って、初めての融資を受けました。それだけじゃぜんぜん足りないので、支払いのフローを頼み込んでなんとか調整してもらったりして、ギリギリ持ち堪えました。

一時は、残キャッシュが数万円のところまでいきました。あれは本当に怖かったです。。

ANAのデジタル施策を担当

会社の風向きが大きく変わったのは、2021年のこと。

「2020 東京オリンピック・パラリンピック」での、ANAさんのデジタル施策の担当にご指名いただけたのです。

ANAの案件でいちばん意識したのは「どうやって世の中の空気を、ポジティブな方向に持っていくか?」でした。

というのも、オリンピック開催前の世の中の空気って、すごく難しい状態だったんです。予算の問題や、開会式のゴタゴタなどがあって、いろいろ揉めていたんですよね。

そういう難しい状況で、どんな施策をすれば、いちばんお客さんのためになるだろうか? これにはすごく悩みました。

僕らが提案したのは「#未来への搭乗券」というプロジェクトです。

SNSでみんなに参加してもらって、夢や目標を投稿してもらう。それを「搭乗券」の画像として発行できるような特設サイトをつくりました。投稿してくれた人に抽選で、ANAのオリジナルグッズをプレゼントするキャンペーンをやったんです。

その後、みなさんが発券してくれた搭乗券をつかって、オリジナルCMやクリエイティブもつくりました。広告だけでなく、ANAの飛行機内のモニターや冊子などにも展開し、日本中に想いを広げていきました。

コロナで先行きがわからなくて、みんな不安なタイミングだったからこそ、未来に希望を持てるようなコンセプトにしたかった。

単なる「自社の宣伝のための広告」ではなく、みんなを巻き込んでいい空気をつくっていきたかったのです。

これは結果的に、大きな成果につながりました。

施策を実施したあと、広告によるイメージの変化を測る「ブランドリフト調査」というものをやります。その結果、オリパラ期に広告を出稿した企業のなかでも、群を抜いた成果が出たのです。

戦っていける自信がついた

ANAの実績は、僕らにとって大きな突破口になりました。

お仕事のご相談もいただけるようになったし、なにより自信がついたんです。

デジタル広告でブランドが向上すること自体は、他社さんでも珍しくないことです。ただ、今回ほど「大幅に数値が上昇した」のは、なかなかないことでした。

地道に身につけてきた実力を、ANAという大きな舞台での施策で、ちゃんと証明できた気がしたのです。

「これなら、この業界で戦っていけるんじゃないか」と思えた瞬間でした。

従来の広告の「枠」を超えていく

僕らはずっと「どうすれば、お客さんにとっての投資対効果を最大化できるか?」にこだわってきました。

ちょっと業界っぽい話なのですが、広告には大きく分けて2つの種類があるんです。バナー広告に代表されるような「ダイレクト広告」と、テレビCMや動画広告のような「ブランド広告」です。

この2つは、よく「別のもの」として捉えられがちです。それぞれ扱う代理店も違うし、予算も別々でつくことが多くて。そうすると、ダイレクトとブランドという2種類の広告を、別々の施策としておこなうことになります。

でもそれって、常にベストな「投資」になっているのかな? と思うんです。

ダイレクト広告での獲得効率はそのままに、ターゲットを拡張させる、ブランド認知につながる施策だって、本来できるのです。

そうすれば、バラバラだった予算をひとつに集約して、少ない予算で目的を達成できます。

結果的に、投資対効果を最大化できるはずです。

「ダイレクト広告の会社」「ブランド広告の会社」と、既存の枠にはめて自分たちを定義づけるのではなく、お客さんの状況にあわせて、さまざまな手法をご提案する。

サイバーとチョコレイトという真逆の2社を経験したからこそ、そんな広告のあり方が実現できると思っています。

ブランドとダイレクトの枠を超えた、いちばんお客さんのためになる広告施策を、僕らは追求していきたいんです。

コンプレックスが原動力になった

コロナを乗り越え、ANAさんの案件の成功を経て、会社はいま急拡大しています。毎月のように新しいメンバーが入ってくれて、もうすぐ50人。数年以内には、上場も視野に入れています。

最後に、冒頭の問いに戻ります。

なぜ、ずば抜けた優秀さもカリスマ性もなかった僕が、起業してここまでやってこれたのか?

それは「戦う場所と角度」を変えながら、試行錯誤してきたからなのかなと思います。

今うまくいかなくても、戦う場所や角度を変えれば、意外となんとかなるんです。勉強だと勝てないけど、課外活動ならやれそうだ。カリスマ性でみんなをまとめるのは苦手でも、アイデアでなら勝てそうだ……みたいに。

そうやっていろいろ試すうちに、自分の特性がわかってきた。「才能の源泉」を見つけられたのだと思います。

そして、その原動力になったのは「圧倒的なコンプレックス」でした。

コンプレックスを持つことや、他人に嫉妬してしまうことを、どこか後ろめたく感じることもあったんです。「あ~、自分の人間性、イケてないなあ」と。

でもあるとき、懇意にしていた業界の大先輩から「前田くんのそれは『前向きなコンプレックス』と『健全なジェラシー』だよね」と言っていただいて。

その言葉をもらってから、自分の性格をポジティブに捉えられるようになりました。コンプレックスやジェラシーは、必ずしも悪いものじゃない。うまくコントロールすれば、成長のための大きな原動力にもなるんだ、と。

だから、もしも今「意識高い系」だった学生時代の自分に会えたとしても、アドバイスしたいことは何もありません。

「そのままでいいぞ!」と言いたいです。

今、かつての僕のように悩んでいる人にも、そう伝えたいなと思います。

僕はまだ経営者としては未熟すぎて、立派なことを語れるような立場じゃありません。古巣であるサイバーの藤田社長は、26歳で上場しました。それに比べたら自分はまだ全然ダメです。同年代の起業家には、いまだに嫉妬したりします。

でも、いつか絶対に超えられる。笑われるかもしれないですが、そんなポジティブなコンプレックスを原動力に、これからも突き進んでいきたいです!

僕らはいま、複数領域で仲間を探しています。

このままの自分じゃ終われない。もっと価値あることができるはず。そういう「自分の可能性を諦めない人」には、カルチャー的にも、フェーズ的にもぴったりの環境だと思います!

興味を持ってくださった方は、ぜひ、下記リンクからご連絡ください〜!


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