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役立たずSEがデザイナーという天職にたどり着いたはなし

普段noteでは読んだ本のメモを書いているのですが、新年度ということで少し自分の就活〜社会人生活までを振り返ってみようと思い立ちnoteを書き始めました。ふと思い立ち書き始めたら1万字超えの長文になってしまいました・・・

誰のなんの為になる記事となるのかは全くわかりませんが、自分のひとつの記録とそこから得た教訓をつらつら書き留めておこうと思います。

【2023.3.24追記】
あまりにこの記事が長すぎるのと、長い上に結局自己紹介としての機能があんまり果たせていない感じもしたので、自分なりのデザイナーとしてのスタンスや考え方を改めてまとめました。

そんな前置きのあとで、それでもこの1万文字の壁に挑んでくださる方はぜひ辛抱強くお付き合いください。ありがとうございます。

インターンシップでデザイナーという職業に絶望

もともと大学、大学院でプロダクトデザインを研究していた私は、大学院1年の夏に大手メーカーM社のインターンシップに赴きました。

デザイナー、特に製品の外観を作るようなプロダクトデザイナーの就職は狭き門(デザイン系を学んだ学生に対して求人数が少ない)で、特に名のしれた企業のデザイナーともなると当時は1〜2人の枠を数十人~数百人余りで奪い合うということもありました。現在ではデザイナーの必要性が少しずつ認知されてきたことや、スタートアップ企業などの台頭からデザイナーの需要は高まりを見せているようにも感じられますが、当時は世の中の不況の波がまだ残っている状況もあり企業の正社員デザイナーとして働くまでの道のりは険しいものだったと感じます。

そんな大手に就職する道としては基本的には企業が開催するインターンシップへ参加することが重要で、そこで実力を認められた学生に関しては就活が始まる前に青田買いのようなかたちで声がけがされることが一般的でした。(就活解禁前の段階なので建前上はただの職場体験なのですが、選考の意味合いが強いということは企業側も学生側も暗黙の了解として認識していました)

そのような中、いくつかインターンシップを申し込んでいたところ1社書類選考が通り、晴れてインターンシップに参加できることになりました。

全国から10人弱の学生が神奈川に集められ、2週間会社の寮で暮らしながら配属される部署にて仕事を経験し、最終日にそこでの仕事の成果(基本的にはデザイン提案)を行うというものでした。

結論から言うと、インターンシップ先のデザイン部は非常に魅力的な職場でした。若手からベテランまで幅広い年齢層がいるもののみんな気さくで面倒見がよく、何も知らない学生の自分に対しても同じ目線で対等に向き合ってくれる態度が感じられました。

しかし、1つ大きな問題がありました。

絶望的に仕事がつまらない。

自分はモビリティ(車ではないです。かなりぼかして言っています)の一部のデザイン提案がミッションだったのですが、毎日様々な資料を見ながらスケッチを描き、社員の人にコメントをもらいながら提案を固めていきました。

最初の1週間は新鮮な刺激があり楽しかったのですが、それが2週間ともなるとさすがに飽きてきてしまいました。自分はどちらかというと、プレゼンテーションやデザインのロジックの整理などが得意だったので、デザインに関してOKが出た後のプレゼン作成がかなり早く終わってしまったこともあり(他の参加学生は全員学部生だったのでさすがに同じスピード感を見せるわけにもいかなかったということもありますが)他の社員の方の仕事もチラチラ観察していたりしました。

しかし1日経っても2日経ってもみんな同じような画面とにらめっこしていてはたから見ると全然仕事が進んでいるように見えませんでした(超失礼)
ある人は工業用製品のアーム部分のデザインのCADを開きながら、会社のロゴ?を入れる位置を何日も悩んでいるように見えました。

しかし社員の方々は決して仕事をサボっていたわけではありませんでした。細かいディテールの検討に何日も何日も頭を悩ませて、提案の完成度を高めようとしていました。

そのような仕事を見ていたとき、自分は本当にデザイナーとしてやっていけるのかと考えるようになりました。その職場の雰囲気や社員の方々が魅力的であったがために、余計に仕事の内容が目につく感覚がありました。外から来た要件に合わせて、ひたすら数日間ロゴの位置を決める作業に自分は耐えられるのだろうか。

こんなに良い職場でも仕事内容が輝いて見えないのであれば、そもそもデザイナーという仕事自体に魅力がないのでは、と考えるようになってしまいました。


デザイナーが嫌でプランナーとしても就活してみる

そんなかたちでインターンシップも終わり、煮え切らない思いを抱えながら就活本番になりました。

自分としてはデザイナーとしての就職に疑問があったものの、学生時代に培ってきたものでデザイン以外に価値提供できるものがなかったということもあり、ひとまずデザイナーを募集している企業に何社か応募していました。

先程も述べたとおりデザイナー就職は狭き門のため、デザイン系の学生は(超実力がある学生以外は)一緒に設計職か企画職(プランナー)の業種も見据えて就活をしたりします。デザインの中でもゴリゴリものづくりが好きなタイプは設計、どちらかというと企画提案などが好きなタイプはプランナーの道も保険として就活をすることになります。

自分はめちゃくちゃ自分のデザインスキルに自信があったわけでもなく、かつデザイナーとして働くことへのモチベーションも下がり気味だったため、プランナーとしての募集も積極的に探しました。(あとプロダクトデザインを学びながらCADが全く使えないという割とありえない状況だったこともあり、早々に設計の道も諦めていました)

また、M社の仕事に感じていた退屈さも「他からの指示に従って仕事をしている」感が強かったことにも起因するように感じ、もっとデザインではない製品開発の上流工程から仕事をしてみたいという思いもあったため、プランナーとして商品の企画を生業とすることは自分に向いているのではと考えるようになっていました。

そんなこんなでデザイナーへのモチベーションは下がり気味の状態だったため、ポートフォリオ(就活の際に企業に提出するデザインの作品集)も品質が低く、それでもいくつかの企業には書類選考が通り選考実習(採用の際のデザイン試験のようなもの)に参加することもできましたが、本人の実力不足も相まって箸にも棒にもかからない状況でした。

しかし、そういった選考を進めながら色んな他大学の学生も見ていく中で、やはり自分のプレゼンテーションスキルには少し他の学生より力があるのでは、という自信も少しずつ高まっていきました。自分はどちらかというと手を動かしてデザインを進めるというよりは、何か人に提案するような仕事が向いているのでは、ということを感じ始めて、プランナーへの就職の意欲も高まっていきました。


内定・そしてなぜかSEへ

そんなこんなでなんとか今の電機・ITメーカーへ企画職として内定をいただくことができました。もともとこの企業は企画職の募集をしていなかったのですが、この企業のインターンシップ(総合職?)に参加していたこともあり(就活の夏休みはバイト感覚で職種問わず様々なインターン行きまくっていた)、人事の人と交渉して一旦"デザイナーか企画職"でという特殊な条件で採用試験を受けさせていただけることになりました。※交渉の際に企画部希望と率直に言えば良かったのですが、学部がデザイン系なのに企画部で応募しようとする自分に違和感をもたれる気がしてとっさに「デザイン」という言葉で予防線を張っていました。今考えるとそれが何の予防線になっていたのかわかりませんが、

ちなみに参加していたインターンシップはM社以上につまらなくてあまり自分がこの会社で働くイメージが湧かなかった企業だったのですが、全然就活で内定が出なかったのと、この会社の最終面接で当時の執行役員に言われた「君がやりたいことがうちの会社でできるのかわからないから、君が納得行くまで就活してそれでも良いと思ったらうちに来てくれ」という言葉に感動して、早々に他の企業の選考を打ち切ってこの会社へ入社することに決めました。

古い日本企業らしいのんびりとした雰囲気の中で新入社員の集合教育を2ヶ月半とかなりみっちり取り組んでくれました。今現在そこで得られた知見にはほとんど価値を発揮しているものはありませんが、その間に同期社員と仲良くなることができ、その関係性は部署や事業所が離れていてもずっと財産として残り続けることになりました。

しかし研修も終盤にさしかかった入社2ヶ月目ころ、自分にとって人生のターニングポイントとなる事件が起きました。

それは研修の中会議室に研修を受けていた新人が全員集められて配属先が通達された日。

私の配属先は「システムインテグレーション部」とのこと。


(゚Д゚)??????


まず横文字の単語の意味がわからなかったため、その場にいた同期に聞いてみたところ、どうもプログラミングを生業とするSE(システムエンジニア)やそのSEが開発するプログラムの構造や全体の統括をするSI(システムインテグレータ)という仕事なのでは?とのこと。

自分の大学での専門はものの形をつくるプロダクトデザインで、かつ同じ研究室の学生みんなが一生懸命習得したCADさえ避けてきた生粋のハイテク嫌いでした。(なのにIT企業に入ったのも謎ですが)

もちろんプログラミングなんてものやったこともやりたいと思ったこともなかったため呆然としつつも、それまでの集合研修で同期の中でも一定の存在感を示せていた自負もあり「まぁそれでも自分ならそれなりに上手く立ち回れるかな」という思いも少しあったりしました。

そしてそこから約1年半の期間は人生史上最も自信が粉砕された暗く辛い日々になっていきました。


自分の価値がどこにもない

SEに配属されてからの仕事で明るい記憶がほとんど見つけられません。

技術力もなく、そもそも仕事への意義も見つけられない中での配属ということもあり、当初は周囲の社員の方やOJTの若手の先輩も気遣ってくれていました。しかし配属された部署が当時かなり激務なこともあり、すぐに自分のスキル習得スピードと仕事の進行具合に開きが出てきました。

プログラミングの技術も興味もない中、部署に配属されてから特別な教育もなく中古で買ったC#の参考書を片手に、先輩の書いたコードを読みながら仕様書と照らし合わせてプログラムの確認をしたりしていたのですが、全くプログラミングの構造が理解できない。

会議に参加しても専門用語が高速で行き交う中で脳の処理速度が追いつきません。議題についていけなくなっても、何がわからないのかわからない状態で質問ができない、質問をしたとしても「話聞いてたの?」と苦い顔で一蹴され質問すること自体にも引け目を感じてしまい声を上げることができず、それが悪循環になっていきました。もちろん会議の内容が頭に入っていないためその後の作業への理解もなく、仕事ができない無能新人というレッテルを貼られるのに時間はかかりませんでした。

それからは自分の作業を分単位でスケジューリングされたり、仕様書もろくに理解できない中0からプログラムを一人で立ち上げるような作業を振られたり、周りの目が光る中できないタスクをどんどん積まれていき、あっという間に職場の居心地が悪くなっていきました。

スキルが無い上に細かい資料の確認漏れやミスも多く(←当時は自分の精神的なものに起因していると思っていたのですが、これは今でも変わらないので単に自分が苦手なだけでした)どうにか怒られない仕事をしようと思いながら毎日怒られ続ける日々を送っていました。

談笑する他社員を横目に、死んだ顔で黙々と作業をする自分の唯一の救いは、昼の時間を毎日一緒に過ごしていた同期のJ君の存在でした。

寡黙で少し汚れたスーツを毎日着ている変わった雰囲気を持つJ君ですが実は非常な苦労人で、高くない給料から大学の奨学金の他に関西にいる身体の悪い両親にかなりまとまった仕送りもしていました。※J君とは部署が異なり彼の部署はそこまで激務ではなかったのと、彼自身優秀であるがゆえに毎日定時上がりしていたため残業代もほとんど出てませんでした

そんな独特な雰囲気がありつつも裏表のない彼の純粋な人柄が心地よく、毎日何を話すでもなく二人で昼食を取っている時間が自分の救いになっていました。


UI/UXデザイナーへの転属の誘い

そんなこんなで、2014年6月の部署配属から1年半経った2016年初頭。

そのころの自分は部署の定期的な面談でも上司にSEをこのまま続けたくない、という旨を伝えていました。

しかし、かと言って自分に"何がしたい"という意志も、"何ができる"という自信もなく、上司からも人事からもそろって「石の上にも三年」という言葉で一蹴され、抜け殻のような身体をなんとか毎朝事務所まで運び、降りかかるタスクをただ必死に他人に迷惑のかからないようなクオリティと速度でこなすことだけを考える日々を続けていました。※ちなみに以降困っている人間に対して「石の上にも3年」という言葉を言う人間は全員敵と見なすようになりました

昼食も半分くらいしか食べられなくなり寡黙なJ君からも心配されました。家のポストに入っていた「スキル不問!郵便配達員大募集」のチラシは大事に取っておき、これ以上ものが食べれなくなったときはここに応募しよう、と思っていました。

そんな中、同期から偶然一本のLINEが届きました。「今夜通話できない?」と。

彼女は自分と同じくプロダクトデザインを学び、デザイナーとして採用された人物でした。(自分は人事にお願いしてデザイナーとしての採用枠を開けてもらったつもりでしたが、実は非公開でデザイナーの募集をしていたようで、彼女は地元の大学に教授経由で来た求人に応募して採用されていました)

ちなみに彼女とは入社前に別企業のデザイン実習選考で一緒だったので、100人弱いる同期で唯一学生時代からの知り合いであり入社後も仲良くしていました。

そんな彼女からの連絡に何のことかわからずひとまず通話してみると、曰くデザイン部署に育休で欠員が出るからその補填を社内の人材で探そうとしている、業務内容はUI/UXデザイン(ソフトウェアの画面やグラフィック、顧客体験などを考えるデザイン)になるがデザインをまたやる気はないか、と言った内容でした。

SEとしてやっていくことに絶望していたタイミングだったのでこれ以上にない申し出だったのですが、勤務は当時通っていた関東を離れて北陸になる点や、デザイナーの採用に落ち続けた自分が全く知識のないUI/UXという領域でやっていけるのか、など考えるほど無限に不安が頭を過りました。

ただどんなに不安が噴出しても現状から抜け出したいという欲求が勝り、数日は悩んだものの結局デザイナーへの転属を決めました。

転属を勧めてくれた同期にはもちろんSEを辞めようとしていることなど話してはいなかったのですが、タイミングがあまりにも良すぎたこともあり上司から「そういう見えないところでの根回しは本当にやめろ」と釘をさされました。そんなことはしていない、と言っても腑に落ちない彼の顔を見ながら、もうこの人の下にいなくていいんだ、と思うと晴れ晴れとした気分になりました。


ブラックSEから超絶ホワイトデザイン部へ

転属して労働環境が一変しました。

北陸へ転居しデザイナーとして配属されても1ヶ月ほど前部署の「引き継ぎ」という名目の半分嫌がらせのよう事務作業をさせられていましたが、いくらメールや電話で嫌味を言われても数百キロ離れている自分にはほとんどダメージがありません。

そしてその「引き継ぎ」が徐々に落ち着き始めた頃に早々にデザインの作業が割り振られました。プロダクトデザインを学んでいたとは言え、IllustratorやPhotoshopと言った基本的なグラフィックツールは一通り使えたため、最初は上司も周りのデザイナーもSEをやっていたという自分を少し様子見ていた雰囲気でしたが、「ひとまず使えそう」程度に思ってもらえるのにあまり時間はかかりませんでした。

そして何より仕事が楽しい。いや、仕事という感覚がまったくなく、「これでSEのときと同じお金がもらえるの?」という疑問すら感じていました。おまけに残業はほとんどなし。それもあってかSEの部署に比べてみんな心に余裕があるようにも見えました。

紙にスケッチを描きながらIllustratorでソフトウェアに使うアイコンをぽちぽち作っていく。やることもやる手順もこれまでのSEの業務と比較して格段に明確で、その分自分の創意工夫を入れ込む余裕も出てきました。

仕事へのモチベーションは上がっていき、勉強もしながら徐々にUIデザインの作り方が分かってきました。

そしてUIデザイナーが少ないこともあり、配属から半年経たずに自社の主力製品のUI担当にしてもらえました。周囲の人に支えてもらいながら分からないなりにもデザインを作っていく中で、仕事の進め方も身についてきました。

就活生のときは全く希望を持てなかったデザイナーという職種に自分の居場所があるかもしれないと考え始めました。


EIGHT BRANDING DESIGN 西澤明洋さんを知る

2016年は自分の人生のスイッチが音を立てて切り替わった年でした。

大きな要因はデザイナーへの転属の他にEIGHT BRANDING DESIGN代表でブランディングデザイナーの西澤明洋さんとの出会いが大きかったです。

西澤さんは当時私の会社の製品のブランドデザインを担当してくださった縁もあり、北陸の本社で講演会をしてもらったりと会社ぐるみでのお付き合いがある方でした。

そんな西澤さんが自身のノウハウをもとにブランドデザインを他のデザイナーへレクチャーする「熱血!ブランディング塾」を東京・青山で開催するということで、デザイナー1年目の自分が会社負担でセミナーへ参加させてもらえることになりました。

西澤さんという人物を知ったことと、この講座を受講したことがまた自分の人生に多大なインパクトを残すことになりました。


経営ロジックに裏打ちされたブランドのデザイン

西澤明洋さんの生業とする「ブランディングデザイン」は一言でいうと「ビジネスの文脈の中に適切なデザインを織り込んでいく行為」と(個人的に)解釈しています。ビジネスが向かうべき方向性の軸に沿ったデザイン・コミュニケーションを設計していく、とも言えると思います。

それまで見た目やかたちのデザインについて、ユーザーの使いやすさやアフォーダンス(振る舞い)から導き出される、程度のロジックしか持ち合わせていませんでした。
これも間違いではないのですが、この考え方はデザイナーとユーザーという1対1の極めて小さい視野の世界の話に留まったものです。

小さい世界の中にはデザインを評価するものさしも少なく曖昧なものになりがちです。そしてその世界の余白を埋めるのはデザイナーの”作家性”で、デザインとはアーティスティックな素養とパワーと権威が大部分を占める非常に非言語的な世界なのだと考えていました。

しかしブランディングとはビジネス戦略であり、デザインはそのビジネス戦略の中で適切に駆動することが求められるパーツです。つまり、ビジネス戦略と同じ文脈・スケール感でデザインを語ることが求められます。

つまり、ビジネス戦略が「このマーケットに対して、こういうメリットを与えるサービスを展開させると、こんなことが起きて、次にこういうことをする」のような言葉と論理に分解されるものであるとしたら、デザインも「この色はこんな気持ちを想起させ、このネーミングはこの地域、マーケットの中ではこのような見え方をする」というようにロジカルに分解し、ビジネス戦略との整合性を図りながら適切に設計していくというものです。

西澤さんの語るブランディングは非常に論理的で、完成品だけ見れば単純に「カッコいいな」くらいにしか考えられないものでも、その背後には濃密で緻密に組み合わされたロジックがあり、実際のビジネスの成功がそのブランディングの有用性を示しています。

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西澤さんのセミナーを受けて「デザインてこんなにロジカルに設計できるのか!」ということと「ビジネスってすごく面白い!」という事実が、自分の脳内のあらゆる情報を一気に書き換えていく感覚がありました。

それまで非言語的で曖昧さが多い分野と考えていたデザインは、きちんと論理立てて設計することができる、そしてそれをビジネスの中に織り込んでいくことで強力な力を得ることができる。

この考え方に出会えたことで、自分のデザイナーとしての歩む先の道標を得たような感覚がありました。

デザインを作ることは楽しい。色んなイメージから自分の想像力を働かせて美しい造形を作ることはこの上ない興奮があります。

しかし今ひとつデザインという分野に身体が乗り切れない感覚がありました。言語化・論理化が難しい分野で、本当に自分が良いデザインにたどり着いているのかどうかが不安でした。

しかしこの「論理的・戦略的に構築するデザイン」というものに巡り会えたことで自分のモヤモヤが一気に晴れて、これこそがまさに自分の天職と思えるようになってきました。

なお、西澤さんの著作は超絶おすすめなのでぜひ読んでみてください。


社内でもブランドをつくる!

以降すっかり西澤信者と化した私は、西澤さんが勧める本(セミナーの中で課題図書がどっさり出されました)を読み漁り、その1冊1冊に脳内が高速で書き換えられていきました。それから全然興味のなかった経営論的なビジネス書を多く読むようにもなりました。

ビジネスってすごく面白い!

そうして脳内が経営・ブランディング一色に汚染されてしまうと、どうしても社内での仕事に窮屈さを感じてきました。

見た目のデザインはブランディングの中の1要素であり、本当に自分がやりたいことをやるならその上流のビジネス戦略やコンセプト作りからデザイナーとして参画しなければならないと強く思うようになりました。

そのような中で、運良くめぐり合わせもあり、社内の看板製品のリブランディングを担当させていただけることになりました。

見よう見まねではあったものの何とかそのブランディングを着地させ、自社で初の本格的なブランディングデザインを完成させることができました。
そしてそこから得たノウハウや知見をもとに、自社製品や新サービスのブランディングを任せてもらえるようになりました。


J君の決断

デザイナーとしてのキャリアを積み、仕事も軌道に乗りきっていた2020年6月。SE時代に毎日一緒に昼食を食べてくれていたJ君が自殺しました。

会社に来れなくなった、という情報は耳にしていたので気にかけてはいたのですが、そういった状況の人に何と言葉をかけたら良いのかわからなかったのと、会社の友人でも同じような状況になりながらも時間をかけて復職を果たした人が何人もいたため、「いつか帰ってくるだろう」と少し楽観視していた自分がいたのも事実です。

彼が会社に来れなくなった当時の状況や、彼の決断の真意はわかりません。わからないのですが、彼が会社に来られなくなった当時、部署の改変で彼のいた部署と自分がかつていたSEの部署が組織上同じ部に統合されたということがありました。

記憶に残っている彼の一番辛そうだった時期は自分がまだSEだったとき、難航している私のチームのプロジェクトの応援で一時的に彼が私のチームのメンバーに加わっていたときでした。

彼はもともとスキルが高く飲み込みも早いため、応援とは言いつつ次第にかなりガッツリプロジェクトのプログラムの設計やコーディングをやらされるようになっていきました。

さらに彼の部署と私のいたチームとでは文化が違いすぎました。
いや、もともとうちの会社はわりと日本企業らしい牧歌的な雰囲気なため私の部署が異常だったのですが、根性論的な体育会系なノリとネチネチした陰湿さを併せ持つ閉鎖的な環境でした。

定時退社する日はその前週までに言っておかないと気まずい、休日出勤していないと「甘ったれてる」と言われる、先輩からの電話に気づかず出れないと「殺す」と言われる・・・などなど。もしかしたら他の会社では「そんなの当たり前」というものもあるかもしれませんが、うちの会社の中ではかなり尖った人が集まっていたのもあり、会社の中では異質なチームでした。

そんな環境はそれまで毎日定時上がりしていた真面目で寡黙な彼をどんどん追い込んでいきました。それまで仕事の愚痴などこぼさなかった彼が仕事への疲れと失望をポロポロと口にするようになっていました。
当時私は話を聞いて励ますことしかできませんでした。近くで見ていてさすがにJ君への扱いがひどいのでは、と思う場面があっても自分にはその場で直接先輩に意見する勇気がありませんでした。

結局真意はわからないので憶測でしかないのですが、もし彼が仕事で悩んでいたのなら少しでも話を聞いてあげられたら良かった、という後悔が拭えません。


嫌なこと、嫌な人からは逃げる、今よりは良くなる

社会人として得た大きな教訓は、嫌なこと、嫌な人から逃げていけば今よりはきっと良くなる、ということです。

自分はSEという仕事に絶望していました。プログラミングが自分に向いていないこともハッキリ自覚していました。そして会社が嫌でした。

それでも同期からデザイナーへの転属の誘いが来たときは迷いました。多分、「デザイナーで失敗したらSEにもう戻れないぞ」なんてことも考えていたと思います。

あれほどSEの部署に居たくないと考えていたのに、いざ「じゃあSEやめるのか」となると「いや、それはちょっと・・・・」と考えてしまっていたと思います。

「これ以上は絶対ダメだ」と人が思うとき、きっと誰もが「でもこれは自分の責任だし、まだもう少し我慢してやらなければならないのでは」とか「ここから逃げたらもっと悪い状況が待っているのでは」と考えるものだと思います。

でも今ならハッキリと言えます。自分が「絶対ダメ」と思ったらなるべく早くそこから逃げるべきです。

「絶対ダメ」という感覚に人は自分自身で疑いすぎな気がしています。

「本当に絶対ダメなのか?もっと頑張れば乗り切れるんじゃないか?」という自問自答が発生し、考えて結論が見えない中「石の上にも3年」といった言葉で自分を納得させてしまう場面があるのではないでしょうか。

恐らく自分自身で「絶対ダメ」と思ったとき、それが自分の人生最底な時期だと考えて行動したほうが良いと思います。
つまりそこから逃げることはプラスでしかない。その状況から逃げることはリスクゼロでリターンの大きな投資です。結局なりませんでしたが、あのとき仮に自分が郵便配達員になっていたとしても、少なくとも人生は好転していたと考えます。

もしJ君が仕事に悩んでいたとしたら、自分がSE時代に見た苦しんでいる彼の横にもう一度寄り添えるとしたら、彼の両手両足を縛り付けて一目散に会社から脱出します。

先ほど述べた自分の「細かいミスをやりがち」という部分、SE時代は致命的で一生あらゆる仕事が人並み以上できないのだと考えていましたが、デザイナーになってからはそこまで思いつめなくなりました。

自分の得意なことで成果を上げていれば、不得意なことは仕組みや他の誰かがカバーしてくれます。自分のできないことに焦点を当てて未来を考えるのはあまり建設的ではありません。

新しい年度に、今一度自分の状況を振り返ってみて、もし「これは絶対ダメだ」と自分の心が言っていたのであれば、ぜひそこから逃げ出してみることを検討してはいかがでしょうか。
絶対今よりは良くなると思っています。

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@やました
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読んでいる本のメモをつぶやいています。
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