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「いい先生」の正体

どの学校にも、「いい先生」「悪い先生」はいます。この「いい」「悪い」の厄介さについて。

僕がこれを「厄介」と言うのは、「いい」「悪い」の意味が視点の違いによって変わるがゆえです。今回は、これらの言葉が持つ意味を、視点別に考えてみます。

生徒にとって「いい先生」

条件の例を挙げてみます。

・授業がわかりやすい
・自習が多い、宿題を出さない
・テストが簡単
・褒めてくれる
・怒らない
・熱心で生徒思い
・堂々としている
・率先的に動いてくれる
・基本的に放っておいてくれる
・困った時には助けてくれる
・差し入れをくれる
・ポジティブ
・面白い、冗談が通じる
・清潔感がある

生徒たちから聞いた話

数ある要素の中で、僕が特に問題に感じているのは、「授業がわかりやすい」です。

現代の教員が授業でやるべきことは「生徒に考える力をつけさせる」ことです。
考える力は、主体性と言い換えてもいいかもしれません。
これは学習指導要領にも書かれていること、つまり、政治のままならないこの国でさえ憂えていることで、この点については僕も同意見です。

広く誤解されていることですが、「わかりやすい」ことほど、授業において価値の低いものはありません。なぜか。授業とは「集団的筋トレ」だからです。

力をつけるためには、負荷をかけなければいけません。また、かけすぎてもいけません。これは、筋トレと同じです。そして、考える力についても、同じ論理が働きます。
したがって、わかりやすい、つまり負荷のない授業では、生徒に考える力はつきません。

内容によっては、わかりやすい「部分」が必要なことはあります。しかし、それは段階に応じて過負荷にならないように配慮したり、比較的重要ではない部分をスキップしたりする結果そうなるのであって、全体を通じてわかりやすくあってはいけません(難解な語や歴史背景を、身近な例で説明するなどの「わかりやすさ」は必要)。

僕は、「難しいが、少し頑張ればクリアできそう」な授業こそ、最も価値の高い授業だと思います。「難しすぎる」「意味不明」のレベルまでいってしまうと、「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」ですが、それでも「わかりやすい」よりはマシです。
しかし、お察しの通り、これは生徒には嫌われます。なぜか。当然、辛いからです。

筋トレは苦しみです。痛みを伴います。それなのに、まるでドMのように肉体を痛めつけてでも、筋肉を鍛えようとする人はたくさんいます。
それは、成果がわかりやすいからです。自己の評価にも直接的に繋がります。
しかし、こと学校の授業において自らの脳を痛めつけようとする生徒は稀です。成果がわかりにくいからです。考える力がついたかどうかは、外からは見えにくい。そして当然、痛いことや面倒なことは皆嫌いです。

つまり、生徒にとって「いい」授業とは、痛みのない、思考停止で享受できる、アニメや漫画、ドラマのような、面白くてわかりやすい授業です。そして、それを提供してくれる先生こそ、「いい先生」なのです。

わかりやすいことの弊害はほかにもあります。それは、生徒が「わかった」気になってしまうことです。
生徒はその場ではわかったつもりになっていたが、実際には何も理解していなかったーー。
教員であれば、誰しもテストの採点中にこの現実に直面し、肩を落とした経験があるかと思います。
わかりやすい授業とは、生徒からダンベルを取り上げ、空のペットボトルを渡すことです。
味付きのお粥を延々と食べさせ、顎を細らせることです。
生徒たちの卒業後のことを考えれば、それがどれほど酷いことかは容易に想像がつくでしょう。

ぶっちゃけ、高校までの学習内容で、「わかりやすく噛み砕いてまで教え込み、覚えさせるべき内容」なんてほとんどありません。ほとんど誰も、大人になってから数学の公式や英文法、古文単語を中心に生活してなどいません。
重要なのは、その中で得た理解力や読解力、共感力といった種々様々な能力の方です。

こうした考え方は、教員の世界では広く共感を得るものだと思いますが、いまだにわかりやすい授業を目指す先生がいる理由は、大きく分けて三つだと思います。

一つ目は、わかりやすく教えることが自分の使命だと勘違いしていること。
二つ目は、わかりやすく解説している動画や、理解を補助するツールが世の中に溢れていることを知らない、もしくは使えないこと。
そして三つ目は、ジレンマを抱えていること。

ジレンマについて。
生徒に支持されることは、円滑に仕事をする上で非常に重要なアドバンテージです。また、負荷を与えることで、授業そのものに拒否反応を示されてしまっては、力をつけるも何もありません。
このジレンマ、バランスの難しさから、授業がわかりやすくなってしまうことは、現実には多々あります。

近年、「何もしない授業」「ファシリテーション」といった言葉をよく耳にします。僕は、こうしたやり方が実は「少し頑張ればクリアできそう」なレベル設定をしやすいのではないかと考えています。課題設定が肝ですが、生徒の力をつけるという意味では、有力な手段の一つかもしれません。

そもそも集団でやる必要があるのかとか、映像でいいのではないかとか、授業に関する話はまだまだあるので、また別の機会に詳述したいと思います。
ここでは「いい」「悪い」条件の一つとして取り上げましたが、それもまた要素の一つでしかありません。生徒から見た「いい先生」の正体は、後述します。

保護者にとって「いい先生」

生徒の話に熱が入ってしまったので、以下はちょっと適当にいきます。
例を挙げます。

・子どもに好かれている
・明るい
・挨拶をしてくれる
・聞き上手
・経験豊富
・言葉遣いや服装がしっかりしている
・学級通信を作るなど熱心さが見える
・必要な連絡を迅速かつ確実にしてくれる

数人の保護者から聞いた話

高校の場合、保護者が学校に関わる機会がかなり限られているので、先生の「いい」「悪い」判断までいかないことも多いかもしれません。
ただ、よく聞くのは、「うちのクラスの先生は何もしてくれない」とか「あっちの先生はこんなこともやってますよ」という、相対的な評判です。
保護者も独自のネットワークを持っていて、そこで得た情報をもとに比較判断することが多いようです。
とはいえ、たいていの情報源は生徒。
結局、自分の子が先生をどう感じているか、が強い気がします。

教員にとって「いい先生」

例を挙げます。

・提出物や仕事の期限を守る
・時間を守る
・聞き上手
・熱心、生徒思い
・率先して仕事をしてくれる、手伝ってくれる
・他人を否定しない
・相手が誰であれ態度を変えない、敬意を示す
・気を遣える
・満遍なく仕事がうまくいっている
・弱点がある

周りの先生たちとの会話の中で得た感覚

これは、おそらく教員であることの特異性はほとんどなく、社会人であればだいたい共通する感覚な気がします。

ただ、やはり学校ならではの虚しさもあります。
それは、教員側の評判と生徒側の評判が乖離している先生がいること。
もう、綺麗に真逆の先生が、たまにいます。
その多くは、生徒に好かれ、教員に嫌われているパターンです。

上記の通り、生徒にとっての「いい先生」と教員にとっての「いい先生」の条件は、必ずしも一致しているわけではありませんから、必然なのかもしれません。
もちろん逆のパターン、つまり、教員に好かれ、生徒に嫌われているパターンというのもありますが、その場合、生徒側にも味方が大勢いることが多いです。

とりあえず、社会人としてしっかりしてさえいれば、同僚からは好かれます。

世間にとって「いい先生」

一般論の代わりに、文科省が示す「優れた教師の資質」を引用します。

・教職に対する強い情熱
  教師の仕事に対する使命感や誇り、子どもに対する愛情や責任感など
・教育の専門家としての確かな力量
  子ども理解力、児童・生徒指導力、集団指導の力、学級づくりの力、学習指導・授業づくりの力、教材解釈の力など
・総合的な人間力
  豊かな人間性や社会性、常識と教養、礼儀作法をはじめ対人関係能力、コミュニケーション能力などの人格的資質、教職員全体と同僚として協力していくこと

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/attach/1346376.htm

ここで求められている「力量」の中身にまでは触れませんが、政府は教員に「情熱・教育力・人間性」を高い水準で求めているようです。
また、最近のニュースや討論番組などを見ていると、教員には「常識」とか「健康」、さらには「先端技術への適応」などが強く求められているような気がします。
度重なる不祥事や休職、もはや周知の事実となったブラックで時代遅れな労働環境のイメージから希求されているのでしょう。

「いい先生」の正体と理想の先生

結論です。「いい先生」条件は、立場によって変わります。「いい先生」とは、見る人にとって「都合のいい先生」のことです。

生徒の多くは、
・いい大学に入る
・部活で結果を残す
・恋人を作る
・楽しく生活する
というような願望を持っています。
自らの願望を実現させるために「役に立つ」人は、都合の「いい」人、妨げになる人は「悪い」人です。
たとえば日々を楽しく生活することが第一の生徒にとって、授業が難しいことは都合が悪い。
いい大学に入りたい生徒にとって、授業がわからないこと、もしくは「受験に関係ない授業」は都合が悪い。

そして、生徒に限らず多くの人に通底する感覚が、「苦労したくない」「迷惑をかけられたくない」「面倒ごとを避けたい」「楽をして成功したい」という欲求。
生徒にとっても、保護者にとっても、教員にとっても、この欲求が「いい先生」の判断基準になります。

では、普遍的な「いい先生」はいないのか。

少し視点を変えて、「理想の先生」について考えてみます。
僕が考える理想の先生とは、

・生徒を成長させる授業ができる
・誰からも信頼される
・誰とでも協働できる
・行動力がある
・柔軟性があり自らも変化できる
・仕事とプライベートの切り替えができる

単なる思いつき

……こんなことを挙げても仕方ないかもしれません。
なぜなら、理想像は人によって異なるうえ、これもまた「自分にとって都合のいい姿」でしかないからです。

しかし、意味はあります。

理想とは、単純な欲求からは少し離れたところにあります。
そして、これは「世間にとって『いい先生』」と重なる部分が多い。
というのも、世間の欲求というものが、そもそも「よりよい社会にするための教育の在り方」を求めるものであり、個人の欲求から離れているためです。

大事なのは、いかにその理想を追求できるかということと、その内容の具体性だと思います。

情熱とは。
子どもへの愛情とは。
教育力とは。
豊かな人間性とは。
コミュニケーション力とは。

月200時間残業することは情熱か。
生徒の言いなりになることは愛情か。
授業がわかりやすいことは教育力が高いか。
悪事も寛容することは人間性が豊かか。
誰とでも話せればコミュニケーション力があるか。

終わりに

教員だろうが何だろうが、万人に好かれることは不可能です。
それを踏まえた上で、どんな先生が「いい」のか。
仕事だからこそ、ありのままの自分を超え、理想を目指すというのが「いい」んじゃないかと僕は思います。

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