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柳田國男の『海上の道』


詩的感受性

小林秀雄は「信ずることと知ること」(『考えるヒント3』)というエッセイのなかで、柳田國男の感受性に感動したと書いている。柳田國男がその著書『故郷七十年』でいうには、十四歳の頃、死んだおばあさんを祀った祠を開けたときに、中風だったおばあさんがいつも使っていた蝋石を見て発狂しそうになったという。
小林はこの石におばあさんの魂を見るような感受性がなかったら、柳田の学問はなかったと喝破した。柳田の最後の著作『海上の道』についても、同じようなことがいえる。それは学問であり、同時に文学でもある。
「海上の道」の三節に、風の名前を集めたという件がある。一度、筆者が七月に下北半島のつけ根を旅したときに、太平洋に吹き降ろすヤマセの冷たさと霧の深さに驚かされた。風を集めることは詩的表現にも聞こえるが、実際的な収集の作業でもあるのだ。

椰子の実と宝貝

「海上の道」の六節では、海に漂着する寄物について考えている。柳田は伊勢湾の突端に立ったときに、漂流物のなかに椰子の実を見つけたという。それを運んできた南からの海上の道を考えれば、日本人の起源がわかるのではないか、と透視するのだ。たしかに全国に寄りだまりのような浦々がある。土佐、紀州、西伊豆の浦にはアイヌ語的な地名を持つところも多い。西伊豆でいえば土肥、宇久須、安良里などである。イルカを食す風習もこの辺りには残っている。

それでは人々は何を求めて海へ出て行ったのか。互いの島が見えるほど近いわけではないのに、船出をすることができたのか。一つには宝貝の魅力があると柳田はいう。
秦の始皇帝の時代になり銅を貨幣に鋳るようになるまでは、中国の人々にとって宝貝は至宝であり、それを収集しに来たというのだ。
アフリカやベトナムでも貨幣として使われていたという調査もある。
もう一つは十九節でいうように「占いや夢の告げ、鳥や獣の導きによって、未来の安住の地を見立てた」と考えている。このようなイマジネーションの力がなかれば、たしかに柳田民俗学は成り立たないのである。


宮古島

「海上の道」の十七節で、柳田國男の話題は宮古島におよぶ。「始めて大陸から人の漂着したのは、この島ではなかったろうか」という仮説を述べている。その根拠は、宮古島の周辺には干瀬が広がり宝貝をはじめとする貝類の産地で、アヤゴのような語り物を採集すれば、この仮説も検討に値するものと認められるのではないかという。
柳田國男が九州から八重山までのフィールドワークを敢行したのは一九二〇年のことだが、二二年にはニコライ・ネフスキーというロシア出身の弟子が、その根拠を求めて宮古群島への旅に出たのだ。

ネフスキーは「根間の主がアヤゴ」という宮古で知られる歌を狩俣村などで採集した。それは根間(ニーマ)の主と呼ばれる土地の首長が船に乗って沖縄の那覇を訪ねるとき、妻が別れを惜しみ、無事を祈ってつくった恋歌だった。島人の海上の活躍は昔からあったのだ。
宮古島には狩俣と統合される前に根間という地名があり、現在でも根間の名字を持つ土地の人は少なくない(『宮古のフォークロア』)。
島に伝わる伝説によれば、根間の主は壇ノ浦で負けた平家の落武者で、一種の貴種流離譚になっている。

ニライカナイ

この根間の「根」は根国信仰の根と響きあう。「海神宮考」で柳田は南西諸島の常世信仰、ニライカナイについて考察する。「ニライ」は非常に遠いという意味の他に、根の国=死者の国のことであり、「カナイ」には彼方という意味がある。ニライカナイは遥か東の海にある異界で、人の魂はここから来てここへ帰る。
年に一回、神が渡ってくるのこもここからだ。これを柳田國男は本土の神話である根の国とつなげようとした。常世信仰があるのは、沖縄は互いの島が目視できるほど近くはないのだから、それらを繋ぐ何らかの線があったはずだと考えたのだ。

『海上の道』の末尾にある「知りたいと思う事二三」に、柳田の説を裏づけるために解明すべき事がメモしてある。それによれば、宝貝や子安貝、イルカの他に鼠をあげている。鼠が海上をわたって島から島へ移ったという「鼠の浄土」のモデルがどこにあるのか。
新井白石は「ねずみ」は「根の国」と縁のある言葉だというが、「根の国」は海を島伝いに本土へ伝承されてきたのか。あと、八重山諸島に弥勒の出現を海から迎える行事があるが、これらがニライカナイや遣唐使船とどんな関係をもつのか。現在では、稲の伝来は朝鮮半島という説が有力になってしまったが、それを抜きにしても「海上の道」は充分に考察に価するものとなっている。


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