web マクロネシア
ブック、映画、アートなどの批評とエッセイ。書き下ろし多数。
下北半島、イサーン(東北タイ)、満州、シベリア、サハリン、天龍川。アジア各国における東北地方を比較するフォークロア研究の試み。
アジア太平洋の島々をめぐるショート・ムービーを集成
作家やアーティストへのインタビュー記事
アダンの林を浜辺へ抜ける小径に近づくだけで、磯の香りが漂ってくる。サンゴ砂のカーペットの上を裸足で歩き、草木のトンネルをくぐる。すると、目の前に砂浜が広がる。白く波立つ干瀬[ひし]の向こうは、もう大海原だ。波が引けば岩礁に水がたまり、微細な生き物たちが行きかう。岩の上を潮が流れる音に耳をすませても、すぐに波がきてそれらの営みをかき消してしまう。砂浜と水平線からなる白と青のコンポジションを見つめてみる。いにしえの人にとって干瀬は魚介や海草をもたらす日常空間だったが、海のむこう
記憶のかたち 以前、ちくま日本文学シリーズの『岡本かの子』を読んだことがあったが、今回は新潮文庫で『老妓抄』を読んだ。 表題作の主人公である「小その」という老妓は、若い発明家かぶれの柚木という男のパトロンになる。そんな老妓と柚木、若い芸妓たちが初夏に荒川放水路の景色を見てまわるシーンがある。むかしの鐘ヶ淵の名残が感じられ、名物のねむの木が少し残った風景を見て、その光景から過去の記憶が彷彿とされてくる。 向島の寮に囲われていた時分、若い頃の老妓は旦那の目を盗んで荒川の土
内田百閒の短編集 内田百閒の文学は以前から読んでいたが、今回は岩波文庫の『冥土・旅順入城式』というふたつの単行本を収録した文庫を、主に民俗学的なエッセンスがいかに使われているかという観点から読み直してみた。 冥途 『冥途』のなかに、人偏に牛と書いて「件(くだん)」という掌編があるが、文字どおり「からだが牛で顔丈人間の浅ましい化物」に、語り手がなってしまう話である。見事であるのは、冒頭で空に月が浮かぶ風景を描き、とんぼが飛ぶ描写をしてから、広い原の真んなかで語り手は、
欧米では、ここ20年ほど人新世や人類学の存在論的な転回ということがいわれて、脱人間中心主義的な視点から、モノや動物と人類の関係を考え直していこうという思想的な動向がつづいている。 佐多稲子の『私の東京地図』という本を読んでいると、「マルクス主義が」というよりは、戦前から戦後の時代において、日本列島でマルクス主義を受容した人びとのなかに、ある種の唯物主義的な志向があったと感じられ、そこに、ある種の脱人間中心主義的なものの見方があったのではないか、と思えてくる。 この連作