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退屈とやらなければいけないこと


やらなければいけないこと

退屈をする前は、やらなければいけないことが今日もできなかったということしか存在していなかった。またできなかった。今日もできなかった。できても、翌日にはまたサボってしまっている。

退屈になると、この世界の行為は基本的には何もなくなる。スマホとかは箱になるし、パソコンもnoteを書いたりするくらいで、楽しいものは何もない。そうやって布団の上でただただずんでいると、いてもたってもいられなくなる。なんだこの時間はとなる。そうこうしているとカーテンを開けたりしている。ゴミ箱のゴミを捨てたりしている。積んであった本を開いたりしてみる。noteを書き始める。(正直僕の場合は、noteを書きすぎている。思いついたことがあると書き留めたくなる)

我慢とマルチタスクができてる???

そんなこんなをしていると1日が過ぎるかと思いきや、時間が余る。それでも余る。というか、やり過ぎるようなことが出てきたら、ちょっとブレーキをかけてみたりもする。noteとかはそうだ。本とかも、ちょうどいいところで辞める。退屈をやり出してから、そういうのができるようになった。我慢みたいなことが。本とかは読もうと思えばそのまま読み続けられるけど、ある程度読むと、目が滑るようになってくるし、読んでも内容を覚えてなかったりする。だからそうなったらやめる。でも昔はそういうことをしていたなと思う。疲れてきているのに、ただ動画を流し続けるとか、本もなんか無理して全部読もうとするとか。当時はシングルタスクをしないといけないんだと思っていたし、今もシングルタスクをしないといけないと思っているんだけど、今は同時に3冊本を読んでいたりする。気分じゃないからこの本じゃないなとか、寝る前だからこの本じゃないなとか、ちょっと今日は難しいことを考えたい気分だぞとか。そういうのがあるのだ。そして分けて読んでも別にどうってことはない。だって退屈だから読んでいるわけで、勉強しようと思って読んでいないからだ。でも気になったこととか勉強になったことがあったら、noteに書いたりとか、友達に話したりする。

我慢とか、マルチタスクとかができるようになった気がするのは、できるようになったわけではなくて、疲れたから読むのを辞めるようになったことを我慢できるようになったと言っていて、別に大した目的もないから気分によって本を取っ替え引っ替えするようになったことをマルチタスクができるようになったと言っているのだ。

やってやってもいいこと(ゲーム、読書)

そうして退屈を過ごしていると、こんなに時間があるのに、やらないといけないことをやらないという現象にも遭遇する。これは現実から逃げているわけだけど、この世界には、今の所退屈をしている限り、やってやってもいいこと(読書とか)と、やっちゃうこと(noteを書くとか)と、やれて嬉しいこと(ジャンプとか)と、やりたくないこと(タスクとか)がある気がしていて、基本的に、やってやってもいいこととか、やっちゃうこととか、やれて嬉しいことは、時間を制限する。特にジャンプとかは面白すぎて、一日20分しか読まない。でもこの20分が面白過ぎる。逃げ上手の若君を読んでいるけど、面白過ぎる。1日はこれのためにあると言ってもいいくらいだ。しかし、過去にはそんなことがなかった。過去なら、とっくに読み終わっている。というか我慢をできないから、読み終えるまで耐久みたいになっていて、読み終わる頃には疲れている。今は時間が限られているから、疲れないし、毎回毎回が楽しみ過ぎる。

ゲームはやりたいことではない。やってやってもいいことだ。俺にとっては。だけど、そんなに疲れず長時間できるから、多分制限をしなければ、ゲームだけで1日を終わらせることができる。でも退屈をしてみて、まさかそんなことを思うと思わなかったが、そんなことに時間を使うべきではないと思ってしまう。退屈ならばそれに使えばいいはずなのだけど、退屈だからこそ味の違いがわかるようになるのかもしれない。

ゲームをしようという時に、楽しみだからやろう!という心ではなくて、時間を潰そうとしてやろうとしているのを強く感じるのだ。だからやめるのだと思う。ジャンプは見たい!読みたい!だし、noteは書かずにはいられない!というかんじだけど、ゲームは、「一日45分できるのか、退屈だからとりあえずやっておくか」みたいな感じなのだ。読書は、時間潰すためにやろうとしている時もあるのだけど、勉強のために買っていた本とかもあって、時間を潰しても無意味にならなかったりする。一方で読書でも明らかにこれは時間を潰そうとしている!というのも感じたりするから、その時は読まない。ただ、読書は、寝る前とか起きる時とかに、目を覚ましたり寝たりするために使っているから、わざわざ起きて時間潰すために読んでやろうともあまり思わないのかもしれない。少なくとも、起きていながら読書をするのは、時間を潰している感覚がゲームと同じようにある。

やりたくないことが過去には存在しなかった

やってやってもいいことに時間潰しの匂いを感じると、ならただ退屈してやろうという気分になって、何もやらない時間が発生したり、その時に気づいたことをこうやってnoteに書いたりする。そうすると、自然とやらないといけないのに、やっていないことを意識せざるを得ない。

やりたくないからやっていないのだけど、それは怖いからだ。やるのが怖いからやりたくないのだ。
過去は色々と麻痺していて、やらないといけないことができたと喜んでいたけど、それはすごい偶然な気がしてきた。過去はカレンダーに書いてある内容を一旦こなすという形か、もしくはやる気が出るまで待つという感じか、強制的にそれをやらないといけなくなてそれをやるという感じになっていた。そこには、これって今みたいなやりたくないけどやらないとなって感覚はなかった。やらないといけないことができないんだけど、なんでだろうって思っていた。答えは簡単でやりたくなかったからだったのだ。

退屈の時間は、基本的に、今はそのやりたくないことと向き合う時間が最も長いし、それが一番大事な気がする。どんだけ逃げても、ゲームは時間潰しだとわかっているし、ジャンプは読めないのだし、このやりたくないことから逃げるために読むジャンプなど面白くもなんともないのだから、こいつと向き合うしかない。

このやりたくないということを受け入れて、事実を理解するというのが多分大事なんだろうなって思う。ただの直感だけど。
だからちょっとジャーナリングみたいな感じで、まずは受け入れるところからだ。こうやって物事が少しずつ進んでいくのも退屈の醍醐味だと感じている。


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