結論ありきの授業ほどつまらないものはない~TRPGから学ぶ教師の作法
「学習指導案」「授業案」は要らない
日本の公教育において無駄だと思わされたものは無数にある。
軍隊さながらの号令
無言清掃
教科書を使った通り一遍の道徳教育
音読の宿題
懲罰としての漢字の書き取り
班行動による連帯責任制
子ども(風紀委員、日直など)による相互監視
オアシス運動(校門前のあいさつ奨励)
教員の傀儡にすぎない児童会(生徒会)運営
卒業式の予行演習
会ったこともない来賓によるあいさつ
教員を目指して教育学部に入り、実際に5年間、小学校教員として勤務した経験を踏まえ、特に百害あって一利なしだと思っていたのが「学習指導案」「授業案」づくりである。
学習指導要領に則り、各単元の授業の進め方など、教科書に沿ったぶ厚い教則本のようなものもあり、新任教員にとっては虎の巻として重宝される。しかし、「学習指導案」「授業案」作成ほど教員にとって負担になる仕事はない(もちろん個人差はあるが)。要は、各授業のねらいや獲得目標、児童・生徒の反応などを想定しつつ、授業の落としどころまでをあらかじめ書類化しておくという作業である。
教員養成課程においては、もはや自明の理となってしまっているが、その必要性はいま一度考え直した方がいい。特に少しでも経験を積んだ教員にとって、書類の上で作成した「案」なるものがどれほど無駄かは、一度教壇に立った方なら共感していただけるのではないか。
百歩譲って有用だとしても、それに費やす時間と労力、気力があるなら、リアルに子どもたちとふれ合うことに注いだ方がはるかにマシである。ただでさえ現代の教員は忙しい。会議などの雑務も多い。不毛な仕事を増やして消耗する必要はない。
授業とはライブである。大まかなシナリオを頭の中で想定はできるが、それは毎時間、対面する子どもたちの反応によって自ずと変わってくる。まったく同じ単元の授業でも、クラスが異なればまったく異なる授業展開になることは、教科担任制を経験しなくても分かるだろう。
授業に限らず、結論が先に決まっていると知った時ほど、興ざめしてしまう瞬間はない。本来の学びは、その場に居合わせた教師と児童・生徒が、生のリアルなやり取りを繰り返しながら生成されていくものであってほしい。
「指導案」にガチガチに縛られた授業ほどつまらないものはない。教員の思い描いた授業展開以外を許さず、想定外の質問を暗に排除する。恣意的、誘導的に、望ましい答えを強引に導き出す。はじめからゴールが決まっているなら、授業を受ける子どもたちへの問いかけさえ不要になる。
いわゆるシンポジウムでも、あらかじめ登壇者の事前打ち合わせが綿密にされていて、想定通りの質疑が交わされ、予定調和的に終わってしまう例も少なくない。取材する側からすれば、はじめから結論も展開も決まっているなら、原稿だけいただければそれでいい。
短い教員生活だったが、はっきり言って「指導案」どおりの授業をした(できた)ことは、ただの一度もない。そうした経験があるので、講演なども大まかなメモ(パワポ資料)のみで極力、完全原稿は用意しない。その場の雰囲気や、聴衆の反応をふまえたライブ感を大事にしたいからだ。
TRPGで鍛えられた教師の力量
最も優れた授業は、大まかな獲得目標は教師側だけで想定しつつ、それに向かってさまざまな反応を巻き込みつつ、子どもたちにはそれと知られない形で方向性を示していく手法だろう。予想外の展開、子どもの発想も大事にしつつ、かつこちら側が用意した目標もいつの間にかクリアしているというのが理想なのだ。
実はこの手法、幼少期に長く親しんだテーブルトークRPG(TRPG)から学んだ。テーブルトークとは、「ドラクエ」「ファイナルファンタジー」などのいわゆるRPGという一ジャンルの祖となった、海外発祥の対話型ゲームで、「D&D」「T&T」などが知られている。80~90年代のブームを経て、和製TRPGも量産され人気を博するようになった。
このゲームには、たいがいゲームマスター(GM)と呼ばれる役割がある。ゲームのシナリオを作成し、プレイヤーたちの行動に対する結果を伝え、物語のストーリーテラーとして、冒険を「進行」していく。いわば俯瞰的な神視点をもった、ゲーム上のMCのような立ち位置。TRPGは、このGMとプレイヤーによる対話を繰り返すことによって展開される。
GMに求められる最も重要な技量は、用意したシナリオの枠内で、いかにプレイヤーが「自分たちの選択によって目的を達成し、楽しんだと錯覚させるか」にかかっている。これがうまく機能しないと、プレイヤーとしての選択肢が狭められ、あらかじめ用意されたレールの上をただ走らされたと不満を募らせるか、身勝手なプレイヤーによってGMが翻弄され、物語が破綻するかのいずれかに陥る。
プレイヤーには自分たちの手でつかみ取った成功譚と思い込ませつつ、実は手の平の上で踊っていただけというのが優れたTRPGのゲーム展開ということになる。そのためには、GMがあらかじめプレイヤーの行動を予測しながら、いくつかのパターンを想定し、必ずしも用意した通りの結末を押し付けなくても済むような余裕(幅)をもっていることが重要となる。
まさに、予想外の回答(反応)を念頭に置いた授業の組み立てを求められる教員の立場に近い。教師という職業は、どうしても他者を教え導き、コントロールしたいとの誘惑に駆られやすい。しかし、その欲求を抑え、相手に決定権を委譲し、判断をゆだねつつ、一緒にシナリオを楽しめるゆとりあるGMでありたい。
とはいえ、言うほどうまくGMができた試しもないし、偉そうに授業論を語れるほどうまく授業を回せていたわけでもない。試行錯誤を繰り返しながら、失敗の連続で、プレイヤーや子どもたちには嫌な思いをさせたに違いない。それでもやっぱり、「学習指導案」「授業案」に依存する学校教育のあり方が正しいと思えない。
自分の頭で考える
宿題、定期テスト、クラス担任制、数学の一斉授業などを廃止した工藤勇一さん(元麹町中学校校長)は、自分の頭で考えず自律できない、自己肯定感の低い子どもを育てる学校教育の問題点を指摘し続けている。
子どもだけではない。教員自身も自分の頭で考える訓練が圧倒的に足りていない。文科省の意向、管理職の命令に唯々諾々と従い、ブラックな労働環境に異を唱えることなく、自己犠牲の精神にあふれた「聖職」として与えられた職務を粛々とこなす。用意されたレールの上を、いかに速く、忠実に進めるかが出世の第一条件として求められる。
教育に唯一絶対の答えなどない。世の真理はたかが一教師で独占できるものではないし、結論は先に決められるべきではない。教育の最前線にいる教員から自由な発想と創造力を削いでしまうような業務は、今すぐにでも見直されなければならない。新任教員に「学習指導案」「授業案」の提出などを義務づける研修や公開授業などは、その最たるものではないか。
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