【有料老人ホームvol.7】いくつになっても母を想って...
今考えると有料老人ホームで働いてる時が1番色んなことにチャレンジできて楽しかったかもしれない。何より自分の好きな分野をレクリエーションを通して発揮できたことが嬉しかった。
私のレクリエーションは最初は図工関連のものが多かったけど最後の方は脳トレや簡単な体操、たまに黒板を使って絵を描いてデモンストレーション🖼をした。
ある時DAISOで買った無地の提灯に好きな絵を描くレクリエーションをした。その中でも覚えているのが玉木さんの提灯。大きな山が描かれていたのが印象的だった。
「これは筑波山、母の実家から見えたの」と玉木さんはほほえむ。
絵の具で一発描きをされた筑波山がそびえたっていた🗻
私は「お母さんの実家から見えるのが筑波山ってすごいですね!いつまでお元気だったんですか?」と質問した。
「母は身体が弱くてね、私も一人っ子で。小学校4年生のときに病気して亡くなった」
玉木さん、この頃80代入って間もないころ。
すでにお母さんとお別れして70年経ちます。
玉木さんは思い出したように話し始めました。
「私ね、近所の幼稚園に通わされてたんだけど、母に会いたくて逃げ出して勝手に帰っちゃうことが何度かあったのよ。庭の垣根からこっそり家に入ろうとすると母が見ててね」と笑った。
今の時代でそんな脱走を一度でもしたら幼稚園は大騒ぎになって大変だろうなー...と想像しながら玉木さんの話は続く。
「あの、その時怒られなかったんですか?」と聞くと
「うちの母、優しいし怒らない。また手を引いて一緒に幼稚園まで戻ってくれた」と嬉しそうに話した。
そんなに大好きで優しいお母さんと10歳でサヨナラするのだからどんなに辛かったのだろう。
その後、お父さんがすぐ再婚。一人っ子で育ってきた玉木さんは兄弟を期待して待つもなかなかその時は来なかった。
「生まれたと思ったらその瞬間死んだりね」
その頃から戦争🪖が悪化の一途をたどり、玉木さんの住んでいる東京もいつ空襲が来るかわからない状態が続いた。
「なんか嫌な予感がして、父に今から逃げよう!!と言ったらまだ大丈夫って言って気が進まない様子だったの。でも絶対このままいたら危ない気がして荷台を借りてきて説得してね、荷物を乗せて父と荷台を押して逃げたの。3日も歩いて埼玉へなんとか着いた...」
玉木さんの嫌な予感は見事的中。埼玉に着いた時には 東京に空襲が襲い玉木さんの住まいがあった地域は全て焼け野原になってしまった。
当時12歳の決断が間違っていなかったのだ。
先に逝った玉木さんのお母さんが教えてくれたのかもしれないと思ってしまう。
なんとか生きながらえ、埼玉に移り住み、大人になり結婚をして2人の息子を生んだ玉木さん。その後の70年余りを埼玉県で過ごした。
今は頼りになる中年の息子さんがお嫁さんとホームによく顔を見に来る。お嫁さんまで必ず面会にくる家庭なんてそうはいない。よほど玉木さんが良い人なのだと感心してしまう。
孫が大手の企業に就職し、結婚も決まったと情報が届いた👂池袋のホテルで開かれる結婚式に呼ばれ、おめかしをして命がけで出掛けて行きその姿を見送った。
筑波山を描いた提灯は有料老人ホームの夏祭りでぶら下げ、終わった後は部屋の天井に吊し飾ってもらって家族も喜んでいたと感想を言われたのが懐かしい。
見上げればいつも玉木さんのお母さんが生まれた育った筑波山が見える⛰
最後まで読んでいただきありがとうございました😊
※玉木さんは仮名です。
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