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自分を「知る」つもりで「決めつける」に陥った結果気付いたこと。

自分を知るつもりで始めたことが
いつしか自分を決めつけることになってて、

「自分を理解する」と「自分を制限する」は、

向けるベクトルを間違えると
紙一重なのかもしれない

と感じることがあったので、
自分なりに今思うことをアウトプット。



私は自分探し中、
"数秘術"というものに出会って、
自分のことをうまく説明できるツールだと感じた。

※数秘術とは、生年月日と名前から
持って生まれた資質などを読み解く占術の一つ。


もっと詳しくなれば、
自分のことがもっと深く解る!
 
そう思って本格的に学び始めた。

だけど、次第に、

自分はこの数字だからこうだ、
私はこの数字が無いからこういうのは向いてない、本来の自分からはずれている、

と、

いつのまにか、

これは私らしいけど、あれは私らしくない
これは向いてるけど、あれは向いてない

と、ジャッジするようになってた。


さらに、
心理学なんかも学ぶようになると、

自分らしさや可能性の追求は
ないものねだりの現状否定なのかな、、

なんて思うようになって、

いつしか
「変わりたい」と思うことにも後ろめたさ
を感じるようになった。

だって
「変わりたい」ってことは
「今の自分じゃダメ」だと思ってるからでしょ、
自己否定、無価値観からくる気持ちだよね、

って。

そんな理屈があるのを知ってしまったから。。

本当はもっとこうなりたいな〜
っていう望みがあっても

それは自分には"ナイ資質"
ナイものにこだわるのではなく、アルものに目を向けよう。
「私は私」なんだから。
他の誰かになんてならなくていいんだから。
今のままで十分じゃない~。

って、
自分を言いくるめよう、
現状に満足させよう、
変わりたい気持ちを認めないぞ、

っていう態度をとってみたり。






あれ、なんか、すごく息苦しいぞ。


自分で築いた枠を超えるために
可能性を広げるために
自己探求して
本当の自分を知りたかったはずなのに…


なんか、
逆じゃない…?
すごく縛られてない…?

って、ふと感じて。


自分を
「知って、可能性を広げる」つもりが、

「決めつけて、囲い込む」ことに

いつのまにか転じてた。


知ると決めつけるの違いって何だろう。




そもそも
自分らしいとか自分らしくないっていう概念こそ
全て、思い込みで出来てるような気がして。


自分らしさが分からない、
っていうのは、
「”自分らしさ”という”概念”」にはまる要素を、
自分の中に見つけようとするからこそ生まれる現象
であり、
その行為自体がそもそも、
ある種、自分を限定・制限する概念
である気がする。
   

なんていうか、
メインの要素のみを「自分らしさ認定」して、
それ以外は振り落としにあう、みたいな感覚。


そういう地味で目立たない隙間にある要素こそ、
私たちを唯一無二の存在たらしめているのに。

そういうの全部含めて自分が自分であることが、
既に自分らしさでしかないのに、

他とは違う何か、
際立ったものを見つけなければ!
とやりがちなのが私たち。

そうやって、
頭でっかちになり過ぎてるから
色々訳が分からなくなるんじゃなかろうか。

本当は、もっとシンプルで


自分を知るって、

本当は

「自分が、何を感じてるのかを感じ取ること」

なんじゃないかな。


自分が何を感じているか、
本当は何を感じてどう生きていたいか、

それを
他の何かに当てはめたりすることなく
ただ、耳を澄まして、
自分の中心で叫んでる小さな自分の声を聞き取ろうとする。

聞き取ったら、その声に従う。

そうやって生きること。

それだけでいいんじゃないか。

なのに、

自分をもっと知りたい、知らなきゃ、
と思えば思う程
外側に知識を求めて、
そこで得たガイドラインに自分を当てはめたり、
そのフィルターを通して自分を見たり。

外側の知識で説明がつかないことがあると、
知識が足りない、
まだ知らない情報があるからだ!
って、
自分に説明をつけるため、
辻褄のあう情報を探しに行ったり。


違うよ。


自分のことは、自分に聞かないと。


自分が感じてることに根拠なんていらないんだよ。

感じてることに従うことにも、根拠はいらない。


自分がそう感じた。

それが全て。
それが根拠。
自分という根拠。


その、「自分という根拠」の積み重ねが、
いわゆる「自分らしさ」になるんじゃないかな。


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