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講演会「性別違和と共に生きる」原文

 

2022年3月31日に、生まれて初めてドレスを着ました。

ご紹介にあずかりましたふたばと申します。トランスジェンダー女性、トランスウーマン、トランス女性、MtF、Male to Female。生まれた時割り当てられた性別が男性でしたが、自認する性、これが自分だとしっくりくる性、Gender Identityは女性というものです。性同一性障害(Gender Identity Disorder)、または性別違和(Gender Dysphoria)、国際的には今後「性別不合(Gender Incongruence)」とも呼ばれますが、こちらの診断や、染色体検査や血中ホルモン検査を受けており、いつでも治療を受けられる状態ではありますが、諸事情で身体治療は進んでおりません。

●月期


 私のこの性別違和、身体違和はいつ頃からあるものかというと、だいぶ遡ります。小さい頃、最初に抱いた将来の夢は「お母さん」でした。3歳の頃、弟が生まれた時、母か姉のような気持ちで病室に入ったのを覚えています。ですがほどなくして、それはできない相談だと思い知らされます。男の子はお父さんになるからお母さんにはなれないらしい。私は兄として、長男として、家を継ぐために、いい学校に進んでいい大学を出て、いい会社に就職して、お嫁さんをもらってお父さんにならなければならないらしい。親もおばあちゃんも親戚一同も、そんなことばかり言います。「末は博士か大臣か」みたいに。おでんつぁんといって、菅原神社(天神:菅原道真を祀る秋田市八橋の神社)のお祭りがあって、ひな祭りみたいにひな壇にお殿様やお武家さんの人形をお祀りする風習もありました。うちは母親が三姉妹で長女である母が婿養子を得た家だったのですが雛人形はなく、とにかく男児の弥栄を祈る家でした。
 私の家は佐竹の殿様についてきて秋田に入ったと伝わるような家で、代々染物屋をしていました。町内では「染屋」で通っていたらしいです。しかし明治以降は需要がなくなり祖父の代、戦後直後の頃に廃業しました。祖父は私が生まれる10年前に若くして亡くなっていますが、サラリーマンをしていたそうです。経済事情が悪化したせいで母は望んでも大学には行けませんでした。父も大学を卒業しないまま秋田に戻ることになったため、親は二人共大卒ではなく、学歴社会の中でかなり辛酸をなめたようなことを言っていました。だから私や弟には「大学だけは出ておけ」とずーっと言っていました。
 また祖父の代もその前も女性が多く生まれた家で、母の代では三姉妹でしたから、長男として私が生まれた時、一族は大いに盛り上がったようです。
 そんな空気を幼い私は感じ取ってしまいました。「みんなが望む生き方をしなければ」「みんなが笑って幸せそうにしていると私も幸せ」、子供ながらに、言葉にできずともそう思っていました。
 幼稚園に入ると、そこは男女分けの厳しい世界でした。お遊戯の時間は女の子は女の子同士、男の子は男の子同士で遊びなさい、という感じです。男の子ははしゃいだり走ったりして遊ぶことが多いのですが、私は喘息でしたし、その輪の中に入りたくない。だからといって女の子の輪に入りたくても入れてくれない。仕方なくあぶれた者同士、少数の友達とお絵かきをしたりして過ごしていたように思います。
 この頃から身体違和を覚えるようになりました。男性器が付いているのが嫌でしたし、男子扱いされるのがプレッシャーというかストレスでした。言葉には全然できませんでしたが、私は「引っ込み思案でやせはたぎ」みたいな、男らしくない男の子だと見られやすかったのです。だから逆に男子たろうとして、ブラウスやタイツに反発しようとしたり、一人称を僕から俺に変えようとしてみたりしてました。卒園アルバムに載せた将来の夢は「おまわりさん」でした。制服に憧れがあったんですが、もうすっかり優等生の回答ですよね。
 小学校に上がった頃は男子用小便器やプールの授業(あと走ること)がひたすら嫌でしたが、何とか慣れようと努力していたと思います。でもやっぱり男子のメインストリームには全然なれませんでした。学校って友達グループにランキングみたいなものがあって、クラスの中心になったりする子達と、馴染めなくて辺縁部にいつもいるような、身分の低い子達と、いるんですよね。私は勿論後者なわけでしたけど、明るいとか健康とかそういう子供らしさ、男の子らしさとは無縁の少年期でした。

●水星期


 ところでふたばという名前は、両親が私が生まれる時に女の子だったら名付けようと用意していた名前で、それを私が知ったのは小学校高学年の頃でした。何に影響を受けたかは覚えていませんが、「僕が女の子に生まれていたらどういう名前だったの?」と私が聞いたような気がします。
 この頃、私は生や死についてよく考えていました。おばあちゃんがよく「あなたの知らない世界」を見ていましたし、そもそも私が初めて触れた人の死は自殺でした。友達のおばあちゃんが、家に帰ったら首を吊っていたというものです。小学校2年生のことでした(正確には2歳下のいとこが1歳になる前に亡くなっていますが、幼過ぎました)。それから、死について考え、死が怖かったし、暗闇も怖くなりました。夜中におしっこで起きてもトイレまで行く途中に仏壇がある居間を通らねばなりませんでしたし、怖過ぎて動けず漏らしてしまったこともあります。死と暗闇、夜はやはり密接でしたし、「あなたの知らない世界」の影響はガッツリ受けていました。
 マンガとかにも大きく影響を受けました。親が持っていた手塚治虫さんの『火の鳥』ですとか、月刊ジャンプで連載していたえんどコイチさんの『死神くん』ですね。小学校高学年の頃です。『火の鳥』は『鳳凰編』のアニメが放映されたんですよね。永遠の命の象徴である火の鳥が、色んな時代の色んな人間の生き死にや、火の鳥の伝説…その生き血を飲めば永遠の命を得られるという伝説に触れた人間との関わりを見守るというか、偉大な作品なので一言では言い表せませんが、死生観を刺激する作品です。『死神くん』は何年か前にドラマ化されましたが、人間の命を霊界に届ける仕事をしている死神達が、やはり人の生き死にに触れて命や人生の尊さ、本当の幸せを見出していくというようなストーリーです。主に立ち読みしてたんですけど、店頭でボロ泣きしてしまう内容でした。もし機会がありましたら、お近くの増田まんが美術館などに足を運んでいただければと。
 この2作品で私は「生きる意味とは?」「私の存在価値とは?」みたいに考えるようになりました。アイデンティティクライシスですね。折からの「男としては役者不足」という実感もあいまって、「自分には生きる意味や存在意義、存在価値なんてない」と思うようになりました。学校では「個性を大事に」みたいな授業があり、私は全然理解できませんでした。分からない言葉は使うなと親から言われていたこともあり、個性という言葉は私にとって鬼門となりました。
 この頃、祖母の母、大ばあちゃんが亡くなりました。夜、普通に就寝して眠っている間に息を引き取ったそうです。初めてご遺体と対面しました。生前も普通にめんけがってもらっていたので、その異物感というか異世界感というか、死が絶対的なものだという実感を覚えて、涙が抑えられませんでした。
 小学生の私は、自分のifや人の生死、様々な死生観に触れ、自分は今すぐ死ぬべきだと希死念慮を募らせていったのです。

●金星期


 中学高校というのはいわゆる青春時代ですが、慢性的希死念慮を抱えた私にとっては、何か劇的に死ぬチャンスはないものかと、日常を生きながらもそう考え、そしてまた実際に行動に移してしまいそうな時期でした。いずれも未遂でしたが、親や先生が全力で止めてくれました。「生きていていいのか?」。その都度救われたような、でもやっぱり「私は存在価値がないのだから死ぬべき」ということへの答えにはなっていない、はぐらかされたような、私にちゃんと向き合ってはくれていないんだな、とも感じていました。だから希死念慮を相対化することはできませんでした。
 私は高校に入る前に一浪して予備校に通っていたんですが、ある日の帰りに友達と目撃してしまったんです、ビルの看板から飛び降り自殺してしまった人のご遺体を。一瞬で目をそらしてしまったんですけど、強烈なインパクトでしたし、綺麗な死に方なんてないんだと思い知らされました。
 それに高校時代に『完全自殺マニュアル』という本が出版されまして、内容を一生懸命読んだわけではないんですけど、何だか私の中で自殺というものがチープなものになっていったんです。『真・女神転生』とかもゲームの影響もあったのですが、もう死ぬことよりも生きることのほうが重い罰というか、そんなふうに考えるようになっていました。
 性別違和のほうはどうなったかというと、やはり思春期ですから男女の体への興味というのは強くなります。その中でアブノーマルのジャンルとしてニューハーフとか性転換、同性愛というコンテンツにも触れることがありました。私は何者なのか? どうすれば女性の体を得られるのか? やっぱり無理なのか?
 大学も地元でしたが、マンガやゲーム、本やテレビ番組、そして法社会学ゼミでの学問の中から色んな知識や考え方を学びました。LGBTという言葉を初めて知ったのもゼミでした。法社会学ゼミというのは、例えば脳死や安楽死、同性婚とかホスピスといった、法と何か別な秩序体系(宗教や倫理、道徳、科学や伝統、感情や習慣)の衝突をどう克服していくか、研究するというか議論するようなゼミでした。初めて一個の人間として意見を言えて、それを尊重された、拾い上げてくれたような体験ができました。LGBTについても、当時はLはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシュアル、Tはトランスセクシュアル、トランスジェンダー、トランスヴェスタイトのことというような、今よりはるかに解像度の低い情報でした。トランスセクシュアルは性転換する人。トランスジェンダーは当時は理解しづらく社会的に体の性でないほうで生活する人という意味かなと思っていました。トランスヴェスタイトは異性装者のこと。と大雑把に捉えていました。体の性をセックスというのは知っていましたが、それに対して社会的な性「ジェンダー」があるというのも、この時知りました。そして私はそのいずれにも属さないと思っていました。性転換をしてもベースとなる体、つまり染色体やDNAは女性のそれにはならないからです。
 学生アルバイトは夜のお店、パブで働き、暇な時間には色んな本を読んでいました。創業経営者が「俺は経営者だ」と何かあれば言うような強めの人で(これは就職先もほぼ同じ状況でしたが)、体育会系のノリが好きで憧れているようなタイプでした。私も次第に一人称を「自分」とするようになっていきました。
 私の地元では竿燈祭りというのがありまして、町内には竿燈会がありましたから男は参加させられるわけです。幼稚園の頃から参加していましたが、大人になるとそれもやはり男社会、縦社会になってきます。
 そういう縦社会、家父長制、父権社会というものの理不尽さってどこから来るのかなっていうことも考えました。日本には家を大切にする信仰があり、社会秩序の合理的要請もあって何千年も温存されているんです。それは血縁上の家だけでなく、技能集団、国家や藩、会社組織にも継承されています。集団の秩序が優先され、個人の基本的人権を尊重できない日本社会の根っこには、この家信仰があると、私は確信しています。
 学生時代の私は性別違和を埋葬し遺影だけ残したような状態になり、想像の中でだけでしか女性でいることができなくなっていました。その一方で色々なことを深く考える体質を強化していきました。

●太陽期


 さて何とかお情けとコネで就職はできました。そして今度は家を継ぐ者として、次の難関をクリアする必要がありました。結婚相手を見つけて子供を迎えることです。親が二人とも24歳になる年に結婚して私を産んでますから、就職した頃には私はその歳を超えてましたし、勝手に焦るわけです。
 しかも男としてモテたためしもなく、女性に積極的になれない私にはなかなか出会いもチャンスもありません。ただ、この頃にはインターネットが定着していましたから、いわゆる出会い系サイトや掲示板を利用し、時折誰かと会ってみることができました。女性だけでなく男性と出会う機会もありました。
 出会いをインターネットに求めると同時に、色々調べる機会もあり、「性転換手術」やホルモン剤の輸入などにアクセスすることも可能でした。
 しかしやはり手術はタイが先進国でとか、ホルモン剤はステロイド剤だから肝臓に負担が掛かるし、男性が女性ホルモンを投与すると筋肉が落ちるとか、生殖機能がなくなるとか、あと薬の個人輸入自体が危ない橋でしたし、まだインターネットの安全性も怪しい時代でした。
 色々なリスクがある。私は高校以降アトピー性皮膚炎もありましたから、治療でステロイド剤を経皮接種してましたし、会社の健康診断ではいつも経過観察でした。お酒も飲まないのに。筋肉が落ちれば取材や配本でのパフォーマンスも下がりますし、何より見た目が変わると周囲への説明が難しい。給料も多くはありません。こういう理由で「性転換」を諦めていました。
 性転換できないならせめて結婚を…。しかしある時読んだ本で肩の力が抜けました。ありのままの自分を認めれば、幸せは自ずと訪れる…みたいな内容だったかと思います。いわゆる引き寄せの法則みたいなことを書いていました。
 私は色々自分に課していました。会社で存在感を増すこと、なめられないこと、自己肯定の材料を探していました。でもそれはずっと手前にあったんです。ここまで生きてきたこと、認められなくても頑張ってきたこと、失敗や苦痛に耐えてきたこと。自己否定や自己矯正のためであっても、それは一個の人間として生きてきた証であり、誰に肯定されなくても自分がそれを肯定できることを、私は知ることができたのです。
 そんな折、後にパートナーになる女性に出逢いました。2年程のお付き合いを経て結婚する運びとなりました。セクシュアルマイノリティについての知識も豊富で理解もあり、そこは安心でした。しかし「一人称の『自分』はやめてほしい、『俺』で」と言われ、「ああ、やっぱり男性の役割は負わなきゃならないんだな…」とは思いました。
 それでもやはり、自分の気持ちを正直に伝えられる間柄、否定から始まらない関係性というのは初めての体験でしたし、現在も幸せに過ごさせて頂いております。
 20代の私は、色んな情報を得たり実社会で経験しながら、自分の在り方を模索し、「自分らしさ」や「男らしさ」というものへの執着を少しずつ手放していったのです。

●火星期


 結婚後2年程して、私は仙台支社への赴任を命じられました。前任者もそうでしたが、仙台支社は住居の一室を事務所にする、今で言うリモートワークです。ケータイとパソコンと車があれば成り立つ仕事でしたから、比較的自由に住む場所を決められ、新婚に近い時期でもあったので、妻との同居も認められました。
 しかし2011年(平成23年)、東日本大震災に襲われます。私達はたまたま2人で病院にいて離れ離れになることはありませんでした。しかしあの2日前にも大きめの地震があり、その時私は海に浮かんでいました。もしその時の津波が大きかったら、もし取材が2日ずれていたら…、私はどうなっていたか分かりません。震災後被災地に行く機会も多かったのですが、つくづく私は生かされているんだと思いました。
 私は胆嚢摘出手術と東日本大震災の心労で、半年で一気に15kg痩せるという時期があり、その頃からパートナーと服をシェアするようになっていたのですが、周囲からの反応も良かったのでレディース服をよく着るようになりました。パートナーの奨めでスキンケアもこの仙台赴任の時期からしていました。
 震災後は秋田に戻りましたが、そこから6~7年程の間、私や妻の家族が続々と鬼籍に入ってしまいました。加えて2014年(平成26年)、私の中学時代からの親友が亡くなってしまいました。彼の家とは家族ぐるみのようなお付き合いでしたから、彼の親から連絡を頂きましたが、最初「死因は分からない」と言われました。私は言葉を失いました。正確には失いかけました。ショックが大きくて、失語症か失声症になってしまうのではと思うほどだったんです。無理矢理嗚咽を出して声を保ちました。しかしどうやら自殺だったようで、私はしばらく呆然と生きていました。
 自分の存在とは何なのかというテーマは、小学校高学年のアイデンティティクライシスの頃からずっと考えてはいましたが、ここで再燃というか、また強く考えるようになっていました。宮城他被災地担当として頻繁に出張するようになりましたが、その中でちょっと事故を起こしてしまい、担当を秋田県内に変更されました。被災地のためというベクトルを、私は自分のために向けることにしました。なるべく趣味や妻との時間を大切にしようとしました。そんな折、自分を癒すことやスピリチュアルと再会し、亡くなった親友からのメッセージも、ハイヤーリーディングをして頂いて受け取ることができました。西洋占星術(いわゆる星占い)を学ぶことにしたんです。スピハラになると困るので詳しくは省きますが、西洋占星術ではその時その場に生まれたのはその人だけという発想をしますから、個性に懐疑的だった私にとっては目から鱗でした。そして気づいたのです、子供の頃に持っていた感覚は間違いではなかったことに。私が否定していた「やさしいという個性」は肯定していいものだったんだと。こういう学びを深めていきました。
 一方職場では、部署の異動に伴いショッキングな出来事があり、数年内に退職する運びとなりました。それまでの私は、男性としてこの会社で主要な役割を果たそうと考えていましたが、もうだいぶ肩の力が抜け始めていました。
 いよいよ退職間近という頃、あるイベントで知り合った男性が経営するバーにお邪魔する機会がありました。私はそこで自分はバイセクシュアルなのかもと吐露しました。マスターは「やっぱり!」と即答でしたね。「あの雰囲気で妻ぁ?と思ってたんだよね」と。
 私はそこからLGBTについての知識を大幅にアップデートしていきました。その時点で私は性別違和をはるか心の奥底に埋葬して遺影しか残ってなかったので、「私はXジェンダー(不定性)でパンセクシュアル」と再定義しました。Xジェンダーは性自認の表現方法の一つで概ね4種類に大別されます。男性と女性の軸上の中間になる中性、男性も女性も併存する両性、性別というものを感じない無性、色んな性自認をゆらぐ不定性。私は日によって性自認がゆらぐ不定性だと感じました。またパンセクシュアルは性的指向の表現方法の一つで、相手の性自認によらず性愛の対象にしうるというものです。これらをパートナーとも共有しました。職場での一人称は未だに「自分」でしたが、これも「私」に改めました。
 後日、このバーが閉店する間際にパートナーと伺った時に、大学生の皆さんと同席し、秋田プライドマーチのことを知ることになったのですが、感染症の問題で実際のパレードの開催が遅れてしまったことは、かえって私の自己解像度を上げるための時間を頂ける結果となりました。そして退職後は占星術を実践すると共に、スピリチュアルの学びを深めることにしました。その流れで催眠療法を受けたのですが、私の、埋葬したはずの性別違和とインナーチャイルドという形で再会し、性自認が女性であるということを確認できたのです。

●木星期


 性転換ではなく性別適合手術。日本精神神経学会が提唱している「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン」があり、「性同一性障害者の性別の取り扱いに係る特例法」があって、戸籍上の性別(正確には続柄)を変更するための条件が書かれている。性別移行のために手術が必要であり、それには性同一性障害の診断書やホルモン治療、実生活経験の向上等も求められる。色んな情報を得て色んな人とつながれて、秋田でもホルモン治療を受けられることを知って、今年の春、ついに性同一性障害、性別違和の診断書を入手できました。
 40代も半ばという今になって、やっとスタートラインに立てるような気になりました。自分が女性として生きられる! そう思うと、男性として生きよう、社会的存在感を増そうと考えていた頃には経験できなかった気持ちを抱くことができました。努力すれば報われるんじゃないかという気持ち。女性として生きるという未来は、私にとって大きなエンパワーメントとなったのです。
 さぁではホルモン治療を…という段になって、待ったが掛かりました。性同一性障害の診断というのは専門の精神科医によって慎重に行われます。他の精神疾患、とりわけ統合失調症である可能性もあったりしますし、他にも性自認が割り当てられた性と違うのではなく、異性装した自分に興奮するようなオートガイネフィリアだったりする可能性もあるからです。人によっては診断が下りるまで1年、2年ということもあるそうです。ところが、若い時分から違和感があり、性別違和を確信しているような場合には、逆に早く身体治療に移行したほうが本人のためになるということで、早めに診断が下りたりします。私の場合はやはり幼少期から違和感を抱いていたこともあり、早く診断が下りてしまったんです。私自身は嬉しかったのですが、家族はそうではありませんでした。パートナーは心の準備ができていない。他にも子供ですね、妊娠を諦めきれないというような事情もあり、私の治療は無期棚上げになりました。
 親には昨年、個人面談で性別違和を伝えていて、頭から否定はされませんでしたが、それぞれに自分を否定されないように防衛線を張っていました。そして私のパートナーの心配をされました。母親には後日、娘としても見てほしいと言ったら、それは拒否されました。手術まではいきたい旨も伝えたんですが、それは応援しないし、「孫の顔が見たい」とまで言われました。
 私は子供は授かり物だと思っています。私が腹を痛めるなら頑張りますが、そうではありません。絶対言ってほしくない言葉でした。私のアイデンティティは完全に否定されたわけです。
 今年私は、性別違和が認められ、治療に向けて動き出せるんだと思ったら、結局それは否定され、やっぱり男として性別違和を抱えたまま生きるしかないと思い知らされたのです。
 そして、高校以来封印できていた希死念慮が、強烈に襲ってきました。ひどい日は、朝起きてストレッチとかそういう習慣にしていることができなくて、ソファで横になって口開けてぼーっとしているだけしかできないとか。涙は出ないけど泣いているような気持ちになったりとか。動けない、生きていられる気がしない、そんな感覚なのです。「よし死のう!」とはなりません。

●理解できないこと


 性別違和や希死念慮は、それを抱いたことがない人にとっては、理解の範疇を超えるというか、想像の域にも入らないというか、一つもピンとこないものなのかもしれません。それどころか、未知の脅威のように感じるらしく、防衛、攻撃、回避…といった反撃を繰り出してくるわけです。
【攻撃】 私のようなMtF、トランス女性が、その悩みを誰かに吐露したり、ジェンダーアイデンティティをカミングアウトした時、「LGBTって流行っているもんね」といったアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)や「ああ、確かにオカマっぽいよね」のようなマイクロアグレッション(偏見に基く日常的でささやかな攻撃)等、すれ違いざまに擦傷を負わせるような反撃をされることが多々あります。
 トランス女性の場合はさらに、「お前は男だ! 女性スペースに入ってくるな!」などと、人権侵害を受けることがあります。個々の社会適応度に応じて馴染んで生活してきたトランス女性を、ミサンドリー(男性嫌悪)に基づいて「身体男性」などと揶揄、区別して排除しようとヘイトスピーチを募らせるんです。こういう人をトランスヘイターと呼んだりしますが、日々このトランスヘイターの脅威に私達は脅かされているわけです。今まで何万人というトランス女性が身近にいて、気付かずスルーして平穏に生活ができていたのに、web上の情報に触れて自分や自分の価値観、自分の世界観や人生の秩序が侵害されると感じた人が、何かしら都合のいい情報を切り貼りして理論武装し、無防備なトランス女性を探して攻撃しては溜飲を下げているんです。
 分からないことへの恐怖は誰にでもあります。寄り添って傾聴できればベストですが、それを逆に仮想敵として決めつけ攻撃することはヘイト行為であり、差別なんです。嘘つきが泥棒の始まりであるように、決めつけは差別の始まりなんです。こういう属性を持つ人はこうなんだという決めつけや、枠組みでものを考えたりする習慣を、少しずつやめていってほしいものです。
【防衛】 例えば私が両親から感じたのは防衛でした。ショックを隠そうとしてか、「何となく気付いていた」とか色んな、こちらの印象に残らないような言説を繰り出してくるんです。母と父、二人別々に話したのに口を揃えて私のパートナーの心配をしていました。優位な防衛ラインに立つためですね。
 またカミングアウトして多い反応の一つに「私はそんなの気にしないよ。あなたはあなただから」というのがあります。人によっては嬉しい反応でもあるわけですが、苦悩への共感や理解はやっぱりないのかな、というモヤモヤも抱きます。「誰にだって悩みはあるわ。私だって…」「もっと辛い人だっている」という安易な相対化、論点のすり替え(視点を変えているのではない)といったものも、防衛的反撃だと思います。
 死にたいと言うことに対して「生きていればいいことあるって」と返すのもなかなかの反撃です。いいことないから死にたいって言っているのに、まさかの完全否定ですから。生が善で死が悪なんて、断罪しないでほしいです。
【回避】 ところで否定しないでスルーしてもらえる、放っておいてもらえるというのは、特にシスジェンダーでレズビアンやゲイの方々にとっては、性的指向という個人情報をさえ隠せれば、問題なく日常を過ごせるので助かるケースもあるわけです、打ち明けられた人が何の気なしにアウティングしないことが前提ですが。勿論、同性婚が認められていないために起こる種々の問題がありますから、放っておかれるのは権利の侵害に相当するのは確かです。同性パートナーシップ制度も同性婚へ向けた足掛かりになるのでしょうけれど、埋没して生活している同性愛者にとっては「寝た子を起こすな」という感想を持たせるかもしれません。
 やっぱり、このSOGIの件で非当事者に理解を得るのは非常に難しい面があります。何しろ無関心だからです。私が今、スピリチュアルの話や西洋占星術の話をやたら詳しく話したところで眠たくなるでしょう。多くのシスジェンダー、ヘテロセクシュアルの方々にとって、我々のジェンダーアイデンティティや性的指向などどうでもいいのです。この「どうでもいい」、無関心は気付きにくいですけど反撃です。結局、防衛も攻撃も回避も、実は全部反撃なのです。
【共有】 本当に理解し、理解してもらうためには、ぶつかり稽古が必要です。時にけがをしてしまっても、相手の懐に入り、分からないことは聞いたり、分かるように話したり、本を読んで勉強したり、映画や漫画を見て感想を共有したり、時にはちょっと距離を置いてみたり、そういった地道な勉強とコミュニケーションだけが、真の理解に有効です。セクシュアルマイノリティでなくても、彼女らを理解し彼らに寄り添えるアライ(Ally=味方)にはなれます。理解できないならひとまずスルーしてもいいと思いますが、その際微塵でも攻撃しないように気を付けてほしいなと思います。この件に関して当事者でない人は本当はいないと考えています。

●アイデンティティ


 性別違和も希死念慮もアイデンティティの問題かなと思います。自己の尊厳を求めるから、それを侵害されるくらいなら死にたい。健康問題や経済的事情等、色々自死の理由はあるかもしれませんが、それはそこを理解してくれなさそうな周囲への、最後の自己通訳であって、自死の真の理由ではないような気がします。心身の健康を損なった時等にスピリチュアルペインに向き合うことで、アイデンティティの問題が浮き彫りになるのかもしれません。
 アイデンティティというのはおそらく、生来あるものなのでしょうけれど、それを言葉にしたり表現したり伝えたり…といったことができるようになるまで、時間が掛かってしまう。人生で得た情報量によってもそれは左右されてしまいます。死について考えるのが死に直面した時であるように、性のこととなると、やはり第二次性徴の頃に興味や情報量が一気に増えますから、そうした時期に違和感を覚えたり表現できるようになるケースは多いと思います。また近年(ここ10年、20年)はインターネットや交流サイトの発達もありますし、それに呼応してリアルでもセクシュアルマイノリティの情報量が多くなってきており、私のように40代あるいはそれ以上の世代から、10代まで同時多世代的に顕在化するようになってきているなと感じます。自分が持っていたモヤモヤとしていた想いの解像度を上げることで、「私のセクシュアリティはこれだったんだ」「僕の違和感は間違っていなかったんだ」というような発見や再会が増えています。これが遠巻きにあまり関心なく見ている方々にとって「LGBTが流行っている」と感じられることの正体だと思います。昔からいたし、何とか社会と折り合いをつけようとして生きてきたのですけど、今になってやっと「自分の感覚を信じていい」ということが受け入れられやすい環境になってきたのだと思います。
 性別違和のほうは、身体治療や法の適用等経て解消されることもあるようです。そのための性別適合手術でもありますからね。生活の中から性別違和に割いていた時間がなくなっていくというのは、ため息の回数が減るということでもあります。「ため息つけばそれで済む」とか「ため息つけば幸せが逃げる」とか色々言われますけど、ガイドラインでは当事者のQoL(quality of life. 生活の質)向上に主眼を置いており、治療や戸籍変更はその手段の一つと見なしていますから、どんな形に落ち着いてもその人が性別違和から解放されればそれでいいのです。手術するしないはその人次第です。私もやはり身体違和を何とかしたいので治療を望みますが、色んな事情があってそれを進められない。いつまでかは分かりませんが、しばらくはこの性別違和と同居しなければなりません。私の場合、パートナーにとっても同居という意味では同じかもしれません。
 一方、希死念慮は封じ込めることはできても、私のように封印が解けたら何度でも噴出することがあります。なぜなら死ぬ機会は一生で1回こっきりだからです。それに対して生きる機会は無限に近い。生きる失敗は無限にできます。上手くいかないことがあっても、何度でもチャレンジすればいいというのは、そういうことかなと思うんです。現代は「正解」「正しさ」ばかりが求められ、生き方そのものに不寛容になっています。生き方に正解なんてありはしません。占い師が言うのはちょっとおかしいかもしれませんが、運命なんてものはありません。そんなの、結果に対して言う言葉です。運命なんてないから、人間は大昔から失敗ばかりしてきたのです。これからもそうでしょう。生きる失敗を、毎日何百何千と繰り返しています。前向きだから言うのではなく、人は簡単に死なない、死ねないから言うのです。死ぬ失敗のほうがずっと重い。せっかく人生1回だけの死の機会、1回しか使えない死ぬ権利だったら、理想的な状態に持っていってみませんか? 勿論自死を促しているわけではありませんよ。死ぬというのは物凄くエネルギーがいる。そんな莫大なエネルギー、私は今まで使えていません。恐ろしいエネルギー量だと思います。「死にたいけど死ねない(本当は死にたくない)」という想いと、その絶大なエネルギーを生きる失敗に費やしたって、いいんじゃないかなと思うんです。どうせ簡単に死ねないなら、でもいつ死ぬか分からないなら、死にアイデンティティを求めてみてもいいんじゃないかという提案です。そうやって希死念慮をやり過ごしている内に、少しはおとなしくなってくれるかもしれません。
 私も今、性別移行が思うように進められず、アイデンティティクライシスに陥って、絶賛死にたい期が戻ってきています。10代の頃と同じ状態です。しかしやっぱり最後は女性として死にたい。男性として生まれて皆を喜ばせたんだから、後半生ぐらいは女性として生きて女性として死にたい。私として最高の死を迎えられるよう、私は性別違和も希死念慮も抱えて今後も生きていくことになるでしょう。
 私の想いが、誰かの助けになるのでしたらすごく嬉しいです。ご清聴ありがとうございました。


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