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中小ITショチョーの秘密③/「なりたかった職業」 と3人の男たち

2023.07.05(水)創作大賞小説「中小ITショチョーの秘密」

このあといろいろと話していない秘密が出てきます。

前回まだ読んでないよという方はこちら↓



あらすじ

中小IT企業に勤務する私(40代後半)は、東京事業所の所長である。
5年前に前任の所長と突然の交代。

システムエンジニアから経営層に東京事業所を任されることになる。

私の呼称は「ショチョー」

どこかのフィリピンパブで呼ばれているみたいだ。

所長の私がそもそも技術職(システムエンジニア)で今の会社に入社するまでの話にさかのぼる

半分以上実話で真実未満(全7話)

中小IT企業の所長ショチョーは、この会社に技術職で採用された人間である。

3.私がシステムエンジニアになったわけ

新卒女性の入社までのことが中心だったが。

今度は私がこのITという業界にいる理由を書いてみたいと思う。

影響は「叔父」

私の母親には3人姉妹(母は次女)+弟が一人(叔父)いる。

叔父さんから見ると私はおいっ子」

叔父は、工業高校の出身で母親の実家帰省の時に、私を連れてよくおもちゃ屋に連れて行ってファミリーコンピュータのカセットを買ってくれた。

子どもにとって、遊び道具を買い与えてくれる人は嫌いになるわけがない。

まだ結婚していない叔父の部屋へ忍び込んで、レコードや少し大人な漫画を小学生になる前よく見ていた。今思い返すと1980年代で水着のアイドルポスターなどが張ってあるような部屋を想像してほしい。

その部屋の中に1つだけ、異色なものがあった。

当時は珍しいコンピュータ(当時「マイコン」と呼ばれるもの)。パーソナルコンピュータという言葉はまだなかった。

カセットテープに入ったソフトウェア(プログラムコード)を読み込んで、ゲームができた。このマイコンの仕組みがすごく気になっていながらも、ゲームで遊んでいた。

私には小学三年生の息子がいるが、両手に持てるポータブル端末でゲームをする。見え方は違っていても1980年代で少年の私も当時、近い経験をしていた。

母が実家帰省するたび、その叔父の部屋でこのコンピュータでゲームをした。しかし、その部屋に叔父が帰ってこなくなる。

叔父は、関東に転勤し、結婚することになる。

コンピュータだけ叔父の部屋に取り残されていた。

これは絶対もったいないから、自分が欲しいと母に言った。母も困って叔父に電話し、私から直に譲ってもらえないか頼んだ。今、振り返ると何十万もしたはずの機械を譲ってほしいという無謀なお願い。

「いいよ。やるよ。」
これが人生の転機の一つになる。

この当時「マイコン」と呼ばれたコンピュータを小学2年生の私は、付属のマニュアルを見ながら、円を書くプログラムを書いてみた。ただ、プログラムを実行する方法がわからず、コンピュータを起動して動作を確認する毎日が続く。

1990年代近くになると、「ワープロ」という機械が出てきて、父親は友人からワープロを貸してもらい、私に見せるが「それはコンピュータじゃない」とすぐ興味を失ったことを思い出す。

コンピュータのことがわからない父は、がっかりした顔をしていた。

中学の進路相談

中学生になると「将来何になりたいか?」ということをひどく明確にさせようとする。学校の成績はそこそこよかった。

進路相談というより、先生たちからすると
「子どもが目指す進路に対してレールをひきたい作業」
にしか見てていなかった。

進路相談室に行き、当時の担任に
私が「言った言葉」担任に「言われた言葉」
が、今も鮮明に記憶に残っている。

「コンピュータ関連の仕事に就きたい」という私に対して

こんな田舎でそんな職業に就く人間はいない。
そしてお前にそんなことができるわけがない。

当時の担任の発言

振り返ると考えるとなんてところで、教育を受けていたんだろうと思う。

当時はそんなものだった。

とても悔しかった記憶と私の住むまちは5000人程度の小さな集落にある中学校で「周りの環境だけで職業を決めなければならないのか?」と泣いた記憶もある。

そこから爆発的に勉強をすることになる。
この担任教師が言うことを覆すために。

そんな状況を私の両親は知っていたんだろうとも思っている。

父の友人「一級建築士」

そして、2人目。私は、家から少し離れた進学校に通う。

叔父マイコンから少し遠ざかっていたある日のこと。
父親の同級生の一級建築士の事務所に連れて行かされる。

そこにあったのは、複数のコンピュータ。それは、建築=設計図を書く場所で正確に仕事をしなければならない場所でもあるがなによりコンピュータがあることに胸が躍った。

詳細は一切不明。父親の同級生らしく、お互いを愛称で呼んでいた。まちのいろんな建物を建てた人らしいが、私にとってはどうでもよかった。

1台パソコンを貸してもらえることになった。

Windows95前の時代でも、私が叔父から譲り受けた「マイコン」をはるかにしのぐ性能や表示をするもので、ここからコンピュータに関することを学びたいと思い、大学を目指す。

叔父から借り受けたマイコンで出来なかったプログラミングを追求するために。

通っていた高校が、人口5,000人規模の町から10倍ぐらいの市に行っていたため、帰り書店に寄り道するのが日課になる。ゲーム雑誌よりもコンピュータやプログラミングのことが書いてある雑誌を立ち読みして帰る毎日だった。

学校の授業よりも少し栄えた町の高校に行けることは寄り道が楽しみだったから。

組織で信頼されていた父

3人目は父親。これは小さいころの時の思い出。

チェーン展開するスーパーマーケットで働く父は、多くの後輩に愛される存在だったよう。

今の私と共通すると言えば「場所の長」を任される店長だったこと。

父親は仕事もあるのに休みの日には実家の田んぼの稲作を手伝ったりしていた。今でいう副業なのかもしれないが、「兼業農家」という形態は田舎ではあまり珍しくない。町内会からも名前を聞けばわかる有名な人ではあった。

それでも父親は真面目過ぎて働き過ぎで、私が小さい頃は、もっと自分と遊んでほしいとも思っていた。

キャッチボールをした記憶は一回だけだ。


早朝に何も映っていないテレビの前で父親が泣いていたことがある。

事情はよく分からないが「自分が育てた後輩が過労死した」という電話を受けた後をリビングで見てしまった。父が非常に面倒を見た人物で、違う店に転勤して数カ月後のことだったそうだ。

守ってやれなかった。

父の言葉

という言葉が聞こえた気がした。

これは私が父の背中を見て、一番つらかった思い出でもあり、自分の胸に刻んでいることでもある。

私の仕事感の中でも「働きすぎて命を落とすことがあってはならない」と思うことがある。所長の私は部下の残業量が人よりも異常に気になるのは、この出来事も関係がある。

部下に「自分がやらないとプロジェクトが回らない」という人物に対しても

「それは残業して終わらない仕事なら、もうすでにお前の責任ではない」

と言い切ってしまうことがある。

現在も「仕事が好きな父親」で65を超えた父は、今もスーパーで商品を陳列する仕事をしている。

パートのおばちゃんとケンカしながらモノを売る商売を楽しんでいる。


叔父、一級建築士の父の友人、父の3人の影響で大学に進学したと思う。

大学に入ると一気に世界が広がった

1996年関西にある私立大学に入学。

インターネットが世の中に広がりを見せたときである。

私は大学に入学する祝いにPC-98という当時30万円近くするパソコンを親から買ってもらい、コンピュータを勉強するために私立の理工学部に入学した。

親は、親たちの経済力では私立でお金を出し続けるのは難しく、国公立大学を受験して授業料の安い国公立大学を希望していた。

私の学力が足りなかった。

私立大学でもそこそこの大学の理工学部に合格できたのは、親も喜んでくれた。

親の希望を叶えるため、浪人して国公立大学を受験するという選択肢もあったが、浪人するのにもお金はかかる。親の資金的な面を少しでも軽減したいという気持ちで、入学後奨学金を受けることを条件に私立大学に入学。

バスケットボールサークルに入り、そこでたくさんの友達にも恵まれた。

近隣のスーパーでアルバイトをしているうちに、実家帰省するとスーパーマーケットで働く父親からレジの扱いや商品の陳列などを教えてもらい、小売業にも興味はあったが、そもそも大学に行った理由が「コンピュータ」だったため、その業界を選択することはなかった。

よく観察していると小売業の業務でもPOSシステム(店舗の商品管理から売上情報、消費者の購買行動などのデータを集計するシステム)やバーコードを読み取るレジというシステム的なものはあった。今は見ることもないフロッピーディスクなどもシステムの一時バックアップとして利用されたり、世の中はシステム化しつつある時代だった。

入社した会社を見つけたのは

ちなみに私はこの会社から8月(夏)に内定をもらった人間である。

「システムエンジニア」という職種の言葉は出始めたころ。

小さな5000人程度のまちから、コンピュータの勉強をしに大学に出てきていたが「コンピュータ関連の仕事」をするという中学校で話した進路の実現まであと少しのところに来て、就職活動期は長く苦戦した。

それこそITで名が知れた企業を大阪で60社近く採用試験、面談など並列で行い、やっとのことで入社した会社がこの会社だった。

それも、インターネットが出始めた2000年手前の話である。会社説明会はネットで予約できるようになり、特にIT企業はどんな人にも門戸が広がって行っていた。

圧迫する面接官おとなたち

20年以上前の就職活動は、
モラル意識の低かったのかもしれない

とある電機系メーカーのシステム会社に説明会に行き、SPI総合適性検査を受験後、合格。面談に進むと2名の面接官、2名の学生という面談で私のほかに呼ばれたのが帝国大の女性。

明らかに自分のほうがよく話せていても、次の面談には呼んでもらえない。

違う会社の面接で運よく呼ばれてもなぜか「彼女はいるか?」とかプライベートに踏み込んだ質問でもこたえられるか?というちょっと今では考えられない質問をされていた。

私は平成就職氷河期時代を経験した人間である。

この時の経験は、今でもいろいろと後になって思うことはある。

面接に呼ばれ会社を訪問すると、従業員フロアーだが昼休みで消灯するのか真っ暗な広いオフィス。ただブラウン管ディスプレイが各席で光り、煙が部屋中まん延していた。

当時は、オフィスフロアでも喫煙可能な会社は多かった。

昼休みになると大手IT企業ではこんな昼休みの光景を見ることもできた。
真っ暗なオフィスで疲れ切った社員をみて「この会社はヤダな」とも。

何回も面接をする企業では「現役技術者による面接」もあった。

いまでもこれが不思議な面接だったが、狭い会議室で現役技術者(30代前半ぐらい)と小一時間話すというもの。

普通ならあこがれの職業の方と話せるタイミングなのであれこれ聞けるのだが、当時20代の私が年が離れている面接先の社員と話して、「仕事大変そうだな…」というイメージが先行して、あまりワクワクしなかった。

そういうイメージを持つだけに、次の面接には呼ばれないのだが。

おもしろく感じれたのは外資系IT企業。

説明会からイベントのような人数の集め方でその場で試験が行われ、試験の内容もワークショップのようなアイデアを問うような試験だった。

例えば

過疎地でITが使われ、生活が豊かになるためにどんなシステムを開発できれば世の中に貢献できると思いますか?

その時受験した外資系IT企業の問題の一文
(うろ覚えの記憶でしかない)

大勢の中から自分が選ばれることはないだろうと思いながらも、アイデアだけは書いてその日を楽しんだ記憶もある。

一番、辛かったのは名前がわかるぐらいの大手IT企業の最終面接で重役を前に卒業研究のプレゼンをするというもの。


(当時の私を少しだけ書くと)

当時の私は、理工学部に入学はしたものの数学、物理、情報(コンピュータ)と幅のある学科で、コンピュータ系のゼミは人気で、数学系のゼミに所属していた。

コンピュータは、独学でも勉強できてホームページを作るHTMLというマークアップ言語も習得。

競馬のホームページを作り、「会員制で競馬予想を掲載する」という今では普通だが当時なかなか珍しいことをしていたという自負がある。

メールマガジンを作ったり、メーリングリストサーバを借りて、社会人とメーリングリストで会話するようなことをしていた。

競馬は学生がNGのため、インターネット上で予想をして楽しんでいたわけ。

当時のWeb技術は、独学でも趣味のためなら「習得できる」と考えて、夜更かしもしていたような学生時代を送っていた。


(話を戻すと)

卒業研究のプレゼンは「フラクタル理論をJavaというプログラミング言語で数値パラメータを変えて描画」する研究をしていた。

内容を聞いても、「海のものとも山のものとも言えない。それはなんだ?」という興味を持ってもらいにくい研究内容。

自分で研究内容の簡単な説明をA4用紙にプリンターで印刷して面接会場で重役たちに配ってみた。他の学生がしないインパクトを出したかったから。

といってもシステム開発の重役たちにその説明が刺さることもなく、自分の大学の就学理念を聞かれたりして、私に興味を持ってもらえるような質問は一切なかった。この会社へは多少入社したい意図もあったため、教授から推薦状も書いてもらったが、この教授は自分のゼミの大学院生にも同じ会社で推薦状を書いていて「同じゼミから学生は2名いらない」ということで不合格となったようだ。

そもそも最初からこの重役たちは興味がなかったのだろう。

こういう会社は数年後、新聞を読んで知ったが、不祥事や社内での問題が報道されるような会社だったりもした。

内定もらった会社は真逆だった

小さなITの会社で、80人もいないぐらいの社員数。
(でも、社員数じゃないというのを知るのは私が経営層になってから。)

当時と同じ採用の仕組みで最初の面接が最終面接。

出てきたのは、当時のシステム開発事業部長営業部長だった。

今の時間軸に戻すと

  • システム開発事業部長=現社長

  • 営業部長=初代東京事業部所長(10年前に定年退職)

という組み合わせ。

なぜかこの最終面接でも「卒業研究」に触れられることがあり、A4に印刷した資料がカバンの中にあったので、この二人に説明したら、驚きの反応。

会社に就職した後、二人に聞くと「卒業研究を資料出して説明するやつは、初めてだった」そうで、「面白い奴が来た」と感じてもらえたそうでほぼこれが決め手になったようだ。

「60社以上就職活動をして唯一私を拾ってくれた会社だったから。」

第一章の「仕事する理由って何ですか?」の答えの一つはここ

もし、就職活動をしている人がいるなら、そういう人たち(その会社で興味を持ってもらえる企業)を見つけてほしいと思うことがある。

まずは、「なりたいもの」のスタートラインまでやってきたところ。

中学の担任に否定されたことを10年で覆したことになる。


ーーー第三話はここまで。

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