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中小ITショチョーの秘密⑤/「再会」

2023.07.08(土)あと3話。

東京に転勤してきて、仕事はうまくいったのか?

そして、一度、離れたはずの上司は?



あらすじ

中小IT企業に勤務する私(40代後半)は、東京事業所の所長である。
5年前に前任の所長と突然の交代。
システムエンジニアから経営層に東京事業所を任されることになる。

私の呼称は「ショチョー」

どこかのフィリピンパブで呼ばれているみたいだ。

所長の私が大阪時代を経て東京に転勤してきた20年前からを振り返る。
大阪でのI部長の再開が大きな転機となる

半分以上実話で真実未満

5.東京での仕事

東京での仕事は、自分一人が試されるエキサイティングな仕事が多かった。

睡眠時間も少なく、20代後半から30代前半までかなり精力的に働いたと思う。

移動体通信の仕事

システムの概要を話すことはないが、3カ月に1回システムのバージョンが変わっていくような大阪4年間では見ることのなかった「きっちりしたシステム開発」。さすが東京だなぁ・・・とお手本のような開発で、要求される技術レベルは非常に高く、毎日夜遅くまで設計書やプログラミング、自分の抱えるチームの管理まで毎日へとへとになるまで働いていた。

この時は、徹夜に対する抵抗感があまりなかった。

むしろ独身だったこともあり、金曜日は夜が明けるまで仕事をして土曜の始発で帰って、土日は寝るだけという生活も多かった。

知らない土地に住んで働くというのは、休日どこかに出かけてという気持ちには到底なれなかった。そして、それは寂しいと感じる暇もないぐらいやりがいもあるシステム開発現場だった。

ときにはイスを並べてベットを作り、夜明けに地震がおきて椅子から落ちたり、WBCの話をしながら夜間に性能テスト、徹夜明けでWBCを見る。よく体やメンタルが持っていたなと思うことも多い。それ以上に当時の人間関係に助けられたこともある。

いまこの話を「会社にいる若い人たち」にするつもりはない。

「昔はこうだった」というおじさんの自慢話になりがちで、メンドクサイものである。

この仕事は、大掛かりで常にシステム開発がローリングするように行われ、気づくと4年もその現場にいた。同じ開発現場に4年いるというのは、長期にわたる開発案件に携わったことになる。

今はスマートフォンという文明の利器があるが、ひとつ前の世代のガラケーと言われる携帯電話のバックエンドシステムの開発。「国のインフラ」と言われるぐらいシビれる現場で、モチベーションが高かった。

夜遅く帰っても、早朝明け方に帰っても、電車で携帯電話を開いてメールの問い合わせしたり、着信があったり、移動通信サービスを利用したりしている人を見ると「自分が作っているんだ…」という誇らしい気持ちになったこともあった。

物流関係システム開発

移動体通信システムの後は、物流関係の会社の合併で起きるシステム統合だった。

非常に大きいシステム開発にかかわり、そのシステムでも2年半携わった。

ここでは、女性がリーダーになる怖さも感じた。

ほぼ年齢が同じ他社の女性の統括リーダーから指示を受け、システム開発を行う。

女性リーダーはシステム開発をプログラミングと言われる下流工程からの経験がないために、上流工程と言われるお客様からこんなシステムを作ってほしいと言われる要件定義で技術者への無理な注文も多かった。

統括リーダーは、女性だからということもあり周りから気遣った発言も、感じることが多い人ではあった。

そして、少し発言を間違えると感情論的なものが多くなる。

注目度の高い物流会社の合併で当時は、このシステム統合はうまくいかないシステムの代表格とウワサされ敬遠されていた。

上位他社のリーダーは女性こちらから進言することもできず、のちに大変なことになって行く。

システム開発を請け負った会社の関西部門から、私より10年上の40代男性のマネージャーが、プロジェクトを軌道に乗せるため、出張でこのプロジェクトに配属。非常に正論や持論を振りかざす人で、一緒に仕事しにくい人だった。

私の性格もあるのかもしれないが、組織やプロジェクトというのは正論だけでは動かない。かといって、すべてがゆるゆるでいいかと言えばそうでもない。その匙加減さじかげんが難しいのだが、この男性リーダーは次第に自分の正論が通らなくなるとイライラが募り、言っていることがおかしくなる。

そうなると、たいていの人は

いつしか勤務先に出てこなくなる

メンタルの病気になってしまう。

現場は混乱し開発もしながら、一開発者の立場だった私がチームの統率までこなす状態に。

このシステムの末路は、システムが世の中にリリースされたときに、障害として「新聞紙面に掲載される」という最悪の結果を生む。

毎日、システムトラブル続き。
なにも気にしないで寝れた日はないぐらい。

そんな日は1年は、続いた。

振り返ってみると、私自身もメンタルはおかしかったのかもしれない。

勤務先に来なくなった男性リーダーは、少しずつ職場への復帰を果たすが一度メンタルに傷を負うと普通に仕事できないというのは経験された方も、そいう方を知っている方もご存じかと思う。

勤務先に来た時には、薬の高架なのかもしれないが、頭髪が真っ白になっていた。それを見た現場が凍り付いたのは言うまでもない。

ただ、乗り切ったことは自信にもなったと思っている。しかし、システムの現場を何十年としていると人間のメンタルや過労で倒れる人というのは普通になってくる。

その時、思い出すのが過労死で部下をなくした父親のこと。

どんな人にでもそんな気持ちの思いがあり、どんな人にでも接し方があると思うのがその人の「秘密」である。

この壮絶な仕事が終わった時に「2011/3/11:東日本大震災」にやってくる。

「東日本大震災」が変えたもの

物流システムの開発が終わったのは、2011/2/28だった。

この日は、浜松町で雪が降っていた。(その記憶だけはある)

初代東京事業所の所長に携帯電話で連絡する。

ずっと大変なプロジェクトを数年経験し、疲れた。
「しばらく休みが欲しい」

と連絡した。

次の仕事が幸いなのか、見つかっていなかった。

次の仕事が見つかるまで、休んでみたかまわないが、次の仕事が見つかれば「面接には来てほしい」というものだった。

いままで通勤路と開発現場の往復ばかり。

本気で東京見物をしたことがなかった。ここぞとばかりにいろんな美術館や博物館に行った。国会図書館や株式セミナーや展示会など、平日中では経験できないものまでふらっと行ったものだ。

当時は、おそらくシステム開発ということに疲れて、半ば違う業界に転職したいとも考えていたのかもしれない。事実上の休職状態。

そんな中の自宅への帰り道で「東日本大震災」に。

当時、東京事業所の所長の判断は「実家に帰れるものは帰って関東を離れる」だった。

福島の原発や放射能を心配しての判断で、この震災で新たに関東でのシステム開発案件がなくなった。震災の影響が出ている東京ではなく、影響のない関西や名古屋に一時避難、一時開発現場も移転という指示が出ていた。

私も、3月なのに雪の降る実家の島根に一時避難しているときに携帯電話にある連絡が入る。

携帯電話の表示を見ると「I部長」!?

そう、大阪勤務の時にお世話になった「I部長」

避難している間でいいから大阪で働かへんか?

I部長からの携帯電話音声

実家で原子力発電所の映像を毎日眺めているよりマシ。

二つ返事で東京に賃貸を借りたまま、大阪にレオパレスを借りるという、いまでいうところの「東京と大阪の二拠点生活」が始まります。

これが7年ぶりの大阪生活が始まる。

大阪での仕事

大阪での仕事は、I部長肝いりの生命保険関連のシステムの仕事。

久々にするI部長との仕事は非常に楽しかった記憶がある。

新人から数えて11年目になった私とI部長は再び仕事をすることに。

大阪の部門では、社員が入っては辞めるというなかなか伸び悩んだ時期だった。東京に転勤した私が大阪に一時復帰したことで大阪の社員の一人は、私のことを「これからは大阪に転属になる」とまで想像した人もいた。

これは運命だったのかもしれないが、私だけでなく7年前に私が東京転勤をしたことを「一緒に仕事が出来なくなった」と悔やんでくれたI部長も非常に喜んでいた。

とはいえ、私も関東に賃貸を借りたまま、関西での生活を続けるわけにはいかず。

東京で私のことを待っている人物もいた。

震災の時に東京事業所には「2代目の所長」が就任していた

私が大阪にいる間、東京事業所では初代所長の定年退職が迫っていた。

当時マネージャーだった方が、2代目の所長となって引継ぎを数カ月にわたって行っていた。

この2代目所長になった方は、私のことを非常に買ってくれていた方でもあった。ただ、なんせ指示が細かく、仕事や指示が上から目線でドライ。

東京事業所で働くメンバーから煙たがられていた。

そんな折、震災時は大阪で働いている私にも、所属メンバー経由でその情報がやってきていた。

私は東京事業所のことも心配だったこともあり、大阪での仕事は半年で終了。大阪でのレオパレス生活を引き払い、東京事業所に赴いた。

2代目の所長と話し合いや打ち合わせが開かれるのかと思えば、

俺が所長になった。
東京事務所のことを手伝ってくれないか?

2代目所長の一言

ここで私は、うまく返事が出来なかった。

2代目の所長には「何かが足りない」。

所長になったこともない私が言うのもおかしいが、なぜかそんな気がした。

2011年12月忘年会がやってくる。

大阪にいるはずの「I部長」が東京にいる?

大阪のレオパレスを引き払い、東京での仕事も始まった2011年の冬。

東京事業所の忘年会に出席した。六本木だったと思う。普段はこんな場所で忘年会をしないのに少しオシャレな居酒屋で弊社メンバーは飲み会をしていた。

私は東京での仕事も始まったばかりで、慣れないことも多く、少し残業して忘年会に参加した。

遅れて参加した飲み会には聞きなれた人の声がしていた。

おー!遅いじゃないかー

I部長

この時、詳細は語らなかったが、I部長は「東京出張」とだけ言い、初代東京事業所所長と2代目所長も飲み会に同席していた。

楽しい時を過ごしていたのだが、「2代目所長の退職」が裏で決定。

何が理由かははっきり聞かされなかったが、「親の介護」という理由。

本当は違う職業についていたことが、数年後に判明。
なんとなくわかったりもしたが、そこを詰めたりするつもりはない。

この人に「何か足りない」と思っていたのは、2代目の所長への信頼というより、2代目所長の「覚悟」だと感じていた。

純粋に所長という管理職をやりたくなかっただけにも私には映っていた。

そのため2代目の所長の任期が、わずか9カ月という代が存在する。

初代所長は、I部長を東京事業所3代目所長として引継ぎを3か月行った。2012年4月から「I所長」として、また私と仕事を一緒にすることになる上司となる。

これもまた運命なのか?

I部長は、また「私の上司」になった。

I所長

もちろん、I部長改め「I所長」は大阪本社に勤務していた人である。この時、I所長は50代後半になっていた。

東京事務所の仕事をするには、

  • 月曜に大阪本社に出勤

  • 月曜午後には新幹線に乗り東京移動

  • 火曜にから金曜日の午前まで、東京事業所で仕事

  • 土日は大阪で過ごす

東京では一人暮らしの賃貸を借りて、毎週のように帰阪を繰り返す。

休日は大阪の暮らし、平日は東京での一人暮らし。これは、東京事業所のメンバーから見ると一見が大変そうに見える。

内部の事情を知る私からすると「悠々自適」である。

平日の夜は、寂しくて一人で飲みに行ったり、事務所に来客で来た人を巻き込み友人になって夜のまちに出かけたりして楽しんでいた。私たち所属メンバーを婚活居酒屋に連れて行ったり、一人暮らしの様子を自慢したいからか部屋に遊びに来てほしいと言われたことも!?

そういう風に明るく暮らしたり振舞っていないとやっていられないという気持ちもよく理解できた。

あとで知ることだが、この時のコストが弊社のコストとしてだいぶかさむことになる。

当時のことを知る私の中では所長ができる人間は、2代目の所長以降、東京事業所にも、大阪本社にも誰もいなかった。

そしてI所長は、大阪本社にいると別の経営者から小言を言われるのを隠れ蓑に東京事業所にいたということも、だんだんわかってくることになる。

伊東温泉旅行

2012年夏の終わり。

テルマエ・ロマエというアニメが盛り上がっていたころ。

東京事業所のメンバーは「I所長」が企画した伊東温泉旅行に行く。

東京事業所の配属メンバーと仲良くなることが目的の希望者だけが行く旅行だったが、参加者はめったにない1泊交流で非常に盛り上がった。

10名程度の所属メンバーの悩みは、女性社員がいないこと。

食べ放題、飲み放題の宴会場で東京事業所のメンバーが酔いつぶれて、その相談をひたすらされた思い出がある。

この当時既婚者はいなかったが、翌年に私が結婚する。

私の結婚式には結婚式の2次会には、会社のメンバーを呼んだり、今までになかった東京事業所の社員交流が少し生まれていた時期でもあった。

「楽しくなければ、仕事じゃないやん」

なんせI所長は、見ていて他人が退屈しないというか「面白い人(人気者)」になる要素の強い人だった。

10年前ぐらいに「私(所長)と新卒女性」のようなシステム開発現場に行く前の社内で学習勉強する時間長くあった女性社員がいた。

東京事業所で、IT基礎知識をその所長から説明を聞くのだが、少し情報が古かったり、講義的に教えると必ず脱線する教え方だった。

とある日、私が東京事業所に用事があり、I所長と女性社員が新人教育で在籍している時間に事務所に行って、扉を開けてみるとその先にあるホワイトボードに、共通の部首を持った漢字がずらりと書かれていた。

「どちらが多くの同じ部首の漢字が書けるか?」勝負していた。

「教育をしている」と聞いているのでとっさに出た言葉は

「なにやってるんですか!」

という、驚きとちょっと呆れた感じでいうと

「楽しくなければ、仕事じゃないやん」

I所長の返答

この言葉は、I所長を物語ることにおいて重要な一言で、まさにそういう人だった。「楽しくないならやめてしまえ」ということもよく言っていたし、こういうところは、自分にないところだとも思っていた。

I部長→I所長に事業部の長が変わり、東京支社は少しずつ盛り上がりを見せるが、I所長に突然の出来事が降りかかってくる。


ーーー第五話はここまで。

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