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中小ITショチョーの秘密④/「涙の数だけ強くなれる」

2023.07.07(金)サブタイトルは上司の名言の一つ。

私の初めての仕事と東京への転勤の理由が明らかに。



あらすじ

中小IT企業に勤務する私(40代後半)は、東京事業所の所長である。
5年前に前任の所長と突然の交代。

システムエンジニアから経営層に東京事業所を任されることになる。

私の呼称は「ショチョー」

どこかのフィリピンパブで呼ばれているみたいだ。

所長の私がそもそも技術職(システムエンジニア)で今の会社に入社してからの話が続く

半分以上実話で真実未満(全7話)

ここで私が、今までで一番お世話になる上司に出会います。

この上司が私にとっての「秘密」になっていきます。

4.私の上司と23年前

私が東京事業所を3代目の所長から引き継ぐことになる上司と出会う大阪勤務時代の話をしたい。

話題の新人

私が入社した時、文系出身者や未経験者が多い職場ということもあり、理工学部で情報工学科系を卒業した見栄えだけエリートの新人が入社したと話題になっていた。なぜか先輩たちは私のことを知っていた。

新人歓迎会では、社内に競馬が好きな人が多く、学生の時に一人で作っていたホームページやWeb競馬予想システムに興味を持つ人が多かった。

当時はインターネット上にホームページなど「自分の空間を持つ」というのは、珍しいことだった。

新人研修

弊社以外の他社と合同で行われた。

情報工学卒ということもあり、大学と同等もしくは仕事寄りのITの基礎技術の研修で退屈していた。

Javaというプログラミング言語が研修で教育が行われた。

大学では、Javaは教えてもらうことはなかったが、卒業研究で使用したプログラミング言語でもうすでに基本的なことは知っていた。

PCのビープ音を繰り返し出すプログラミングから「三三七拍子をPCが出すプログラム」を実行して研修会場が大爆笑となり、講師に怒られたことが思い出である。

他社でも同期というのは大切で、その時のメンバーは名前はうろおぼででも顔触れは今でも思い出せるぐらい。

週末になると研修後に大阪梅田に飲みに行ったりした。

ただ、今になるとこういう付き合いは、まったくなくなるものだ。

所属配属は「ドラフト会議?」

この当時、弊社は部門が3つぐらいあり、人気のある「オープンシステム部」というシステム開発の中でも少し先進的な開発をしている部門に興味があった。

部門の説明会も開かれ、私自身もその部門に配属されることを希望した。

そして、マネージャー層の「ドラフト会議」と呼ばれる新人指名制の会議でその「オープンシステム部」に指名され、見事希望の部門に配属されることになった。

希望した理由は、年齢が近い人やなぜかできる女性が多く、活気があったため。

今、東京事業所の所長になって思うと「この決め方は本当にいいのか?」と思うこともある。適材適所という都合のいい言葉で、本人の意向に沿わないことだってある。

20年以上たった今でも部門の説明会がないだけでほぼ同じ決め方である。

何よりこの時、「オープンシステム部」の部長マネージャーが、私の上司となる人だった。

新人研修後すぐ「現場」

6月になると、現場に出るために専門的な研修やIT基礎知識をつけるため数カ月さらに研修するが、私はいきなり現場だった。

第一話で出てきた新人女性の「事務所でITの基礎知識をさらに勉強する」ということもなくいきなり実地仕様。いわば即戦力だった。

そこで、当時の営業担当にシステム開発する現場があるオフィスに同伴して連れて行ってもらうと、オープンシステム部の部長(I部長)が開発現場にはいた。

I部長は、みんなから愛されるオジサン的存在で40代後半。小太りで脂ぎった感じ。ヘビースモーカー(現在の私の年齢とほぼ同じ年齢)システム開発の現場は、他社の大手IT系企業のフロアだったが、この人を知らない人はいないぐらいの有名人だった。

このI部長に連れられ、システム開発先のえらい人たちと名刺交換をして、タバコ部屋にも付き添ったりする日々だった。

設計書などのドキュメントを作成するマイクロソフト製品は一通り、利用もしたことがあり、苦労はしなかった。

1カ月だけは。

しかし、いきなり大型の生命保険ATMプロジェクトが7月からスタート

大きな会議室でも、私は部屋のすみで話を聞くだけで、周りの人たちはなにを言っているかわからなかった。

設計書も書いたことがないのに、すでにある別プロジェクトの設計書から似たようなものを作り出し、I部長と口の悪い30代のリーダーと仕事をすることに。

口の悪いリーダーとI部長は、毎日のように口げんかした。

なにかを教えてもらえるというような雰囲気ではなく、ひたすらシステム開発の現場で、もうすでにあるドキュメントから技術的な要素を調べ、「盗む」という言い方がいいかはわからないが、真似た設計書を作り、I部長とレビュー※する日が続いた。
※レビュー:「設計書などの記述内容があっているか?」を確認する打ち合わせ作業。

新人1年目ながらにうまくいかない日々が続いていた。

20年以上経った東京事業所所長の目線になった私から見ると明らかに新人にやらせるにはキャパシティオーバーの仕事である。期待値も高かった。

ただ、I部長は必ず私には「能力以上の仕事」をチャレンジさせてくれていた。

そんなある日のこと。I部長に誘われて同じ会社のメンバー複数人とランチに行った。それも昼からは、少し重たいステーキランチ。I部長は肉しか食べないぐらい肉が好き。

一通りステーキが運ばれてきてランチの中盤にどんな話の流れでそうなったのかわからないがI部長がこんなことを言った。

システム開発の現場では「泣いた者」が強くなれる(成長する)

I部長名言集

みんな「そんなわけないだろ」と思いながら、もくもくとステーキやハンバーグを食べる。

「涙の数だけ強くなれるよ」って歌があったな、、、

I部長のつぶやき

I部長は半分おちゃらけた感じで言っていたが、それは経験に基づいた発言だったことを後で知ることになる。

やりたかった仕事から一時撤退

大型の生命保険ATMプロジェクトは、このプロジェクトに携わってから2年以上続くものとなる。

生命保険の会社に常駐し、システムを導入した後はATMでお金を引き出す動作テストなどをするのだがうまくいかない日もあった。

私たちの会社がシステム開発を直接請け負ったのではなく、取引先の大手IT企業が請け負ったシステム開発である。私は開発者の中でも「ビジネスパートナーからの開発者」という位置ではあったが、プログラムの開発もできる主要なプログラマーの一人でもあった。

このシステム開発や導入はかなり混迷を極め、夜遅くまでプログラムの改修を何十本もおこなった上でリリースしたり、エアコンがガンガンに効いたサーバールームで一日中、PHS電話をもって連絡待ちをする日もあった。近くにホテルを借り、システムのイベントに備える人や夜間にタクシーで駆けつけるということもあった。

どんなにシステム開発から導入まで混乱をきたすシステムでもすべての人をかかりきりにすることは「コスト(お金)」がかかる。

システム自体がそこそこ障害もなくなってくるとどんどん開発者は現場を離れ、次の開発案件に移動していく。それは私たちの会社にいた開発者も同じだった。

システム運用という工程フェーズに入ると多くの人はいらない。

ここでシステム運用というフェーズの要員になると2,3年はその会社に常駐となることが確実となる。そこでシステムのことを入社以来開発して知っている私が自分がメンバーから選ばれたのである。

それは私のやりたかった「システム開発」と数年は離れることを意味する。

システム運用をするということは、自分のやりたかったシステム開発の路線とは外れていくことだった。

システム開発ができないということは、退屈であまり気持ちは進んでいない。

その時、I部長に言われたことは

みんなのために残ってほしい。

システム運用を経験することは、
今後のお前にとって大きな意味があることだから。

I部長名言集

これは、今になって思い返すと「半分あっていて、半分間違っている」と思っている。(矛盾をいつも感じている言葉)

ここから1年半ほどシステム開発の現場からは遠ざかります。

ようやく戻れたシステム開発の現場

システム運用という仕事は、トラブルが起きなければそんなに忙しい仕事ではなくただ淡々と毎日が過ぎていました。

システム障害が起きると、システムを作った箇所でもなくても、プログラムの修正責任が自分にはのしかかる。システム運用にプログラマーを配置するということはそういうこと。

このころの私は、I部長の言葉から「沼に沈められた」と思っていて、ひたすらIT資格の勉強をしたり、システム開発の現場に戻れるように努力はしていました。

口惜しさがバネになる人物には、会社の都合で押し込めると反発力があるものだ。

この生命保険システムの運用の仕事を終えてすることになったのは、テレビ工場のシステム。

I部長は関わっていない。

遠い山奥の大型の向上にシステムを導入。

ホテル暮らしやシステムを導入する先への移動が小旅行なので、それなりに困難はありながらも仕事は楽しんでいた。

システム開発は仕事としてできていたが、開発に戻り、1年もしないうちの社会人4年目の冬に転機がやってくる。

東京への転勤

弊社は、東京への事業拡大のために、新卒採用時に営業部長だった方が初代東京事業所所長として東京の事業を立ち上げている真っ最中でした。

大阪から東京への事業展開は、まさに会社としては悲願であり、今後の事業を占う大事なパーツの一つ。


(いまとなっては笑い話)

小さな会社でも私には5人の同期がいました。

その中の同期の男性が結婚式を神戸・三宮ですることになり出席した時のこと。同期の結婚式なので、新郎側会社関係席には当時の「社長」も出席していた。

実はこの同期は、東京事業所に転勤して1年になることもあり、節目で結婚式を関西で挙げる。

その披露宴の席で私の隣に座った社長が私に行ったことが

東京で働いてみぃひん?

社長の一言

私は関西で働くのも親元を離れての就職だったため「大阪でも東京でもやることは変わらないのであれば」と回答。

東京に行くと自分にとってはチャレンジ。

大阪で働いている限りは、I部長の判断次第でまたシステム運用をさせられるような仕事も回ってくる可能性がある。

休日が明けて次の日。

転勤辞令が出るという早さでした。
(転勤するはこんなに簡単に決まってしまうのです。)


たまたま東京で移動体通信系システム開発の話があり、通信系システム開発が得意な私に声がかかり、日帰りで東京へ面接に行きます。

それが「2003年クリスマスイブの日」

面接後に開発に加わることが決定。

そして、年明けには東京で部屋探し。

2週間後には東京に引っ越すという環境の変化が起きます。

過去にお世話になったI部長は、部門内で私を軸に「今後の仕事」を組み立てていたらしく、大変がっかりした。

私の転勤後、泣いていたということを会社の人経由で聞くことになります。

それが私をシステム運用に出したことを後悔したのか、私が今後の仕事は一緒にできないと感じさせてしまったのかは、私は知る由はなかった。

27歳の冬の出来事だった。

ーーー第四話はここまで。

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