母親の罪悪感
子供が病気になった時に、「私が……」と自分を責めるお母さんは意外と多い気がする。
けどさ、病気であろうとなかろうと、人として大きく変わることはないようにも思う。
先日、このようなことを耳にした。「何故、自分以外の皆の人生がパーフェクトで、自分だけパーフェクトじゃないと思うのだろう?」と。
それも、ただただ勉強のために聞いていた教育系Podcastで、悩み解決や人生好転などとは一切関係のないコンテンツを聴いてる時に耳にしたのだ。
ヘ〜。
もしかしたら、自分も他人も「自分以外の人ばかりパーフェクトに見えるのかな?」と、ふと思った。
同時に、入院中のお子さんのお母さんから、罪悪感を感じるといった主旨のことを聞いたのは、一度や二度ではない。
しかし、子供は順応力が高い。
確かに、病気にまつわる様々な葛藤もあるだろうし、苦難もあるだろう。
健康だったら、「当たり前の普通の日常」について考えて、胸が痛むこともあるだろう。
それでも、結局のところ誰にだってハードルはあるのだから、病気の子供だけがハードルに直面して、それを乗り越えないといけないというわけではないようにも思う。
第一、「普通」ってなんだろう?
世間一般では「普通」とか「健康」と呼ばれる子供にも、虐められて大変な苦労をする子もいるし、不登校になる子もいる。
大きな出来事がなくとも、日常の何気ないことで実は悩んでいる人だって、凄く多い。
修学旅行や合宿に行きたいけど、風邪やインフルエンザでいけない子もいるし、途中で熱中症やら食中毒で帰宅する子もいる。
最初から、「行きたくない」と言い出す子もいる。
ただ、悩みや乗り越えないといけないことがマジョリティと違うという意味では、「病気の子供」は一見特殊に見えるだろう。
でもさ、蓋を開けてみたら、意外と何処の家庭の何処の子も大なり小なり似たような悩みがあるものなのかもしれない。
車椅子に座っている人だけが、高い所にある物を取る時に、誰かにお願いするの?
実はさ、背が小さければ、「平均身長向け」の設計では、困ることだらけの場合だってあるかもしれない。
台所が皿洗いの度にビチョビチョになるとか、せっかくの棚も、実は届かない所があるとか……
いっつも前に並んだり、誰かの頭で前が見えなくて車椅子に座っている人と同じようなことを経験するかもしれない。
足が遅いと、運動会が嫌かもしれない。
逆に、人気者で皆に可愛がられている子も、目立つことで苦労があるかもしれない。
誰でも、なんの苦労なく日常を送り、成長過程に同じことを経験し、なんの苦労もなく何もかもが普通に思えるかもしれない。
でも、実は「自分だけ」とか「自分の子供だけ」と思っていた何かが、健康状態や環境とはなんの関係もない皆が抱く悩みの延長なのかもしれない。
逆に、どんなに素晴らしくても、どんなに平穏でも「何か悩める問題」を見つけるのが人間なのかもしれない。
同時に、どんな状況でも「何か素晴らしいこと」を見つけて喜べるのも人間なのかもしれない。
そういう意味で、我が子が病気だと、罪悪感を感じたり、苦しんだりするお母さんも多いように思うけれども、そもそも罪悪感を感じなければいけないほど悲劇的な状況ではないのかもしれない。
当然、「あんたなんかに分かんないわよ!」とか、「知らないから、そんな綺麗事言えるのよ!」と言う方も多いのではないかと思う。
けど、自分は病気じゃない時も人並みに楽しいことも困ったこともあったんじゃないかな?
逆に、病気だから加わる制限も多々あるけれども、それが100%不幸や苦悩に繋がるとも限らないと思う。
病気じゃない方法で学べれば、ありがたい。
けど、病気だから学べて良かったこともあれば、気が付けた幸せもある。
そりゃあ、当然悲観する時も、頭に来る時もある。
その内容は闘病中の人独特の内容かもしれない。
でも、境遇が違えば、どの道違う何かが存在し、それに対して同じような感情を抱くのかもしれない。
すると、まぁ、別に今の状況が特別というわけでもなさそうだ。
同時に、全ての人の状況は個別の違いがあり、全ての人間や生物で個々が独特なのかもしれない。
だから、特別に悩む必要もなければ、罪悪感を感じる必要もないように思う。
皆、ただただ今に集中して、
今を大切に生きよう!
結局、それしかできないようにも思う。
それができれば、どんな状況でも、楽しみや幸せは見つかるし、編み出せるのではないかとも思う。
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