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文学を語れるようになりたい〜村上春樹作「一人称単数」を読んで〜

家から歩いて5分の所に美味しいコーヒーやトーストやスイーツが出てくる素敵な雰囲気のカフェがある。家にいる時間が長くなって以来、丁度いい息抜きとして前より頻繁に通うようになった。

ここ最近は夏の限定メニューでもあるコーヒーゼリーを食べながら、村上春樹の新作短編集「一人称単数」を読みすすめていた。本を購入してから半月経ってやっと読み終わった記念にこの文章を書いている。

短編集は面白い話も難解で理解が追いつかない話もあったが、全体的に読みやすくて楽しむことができた。表題作でもある「一人称単数」は、いかにも村上春樹らしい不思議な雰囲気があったが、登場する女性の言動やラストの場面の意味が考えても考えても分からない。料理を口に入れたのに喉の奥で引っかかっていつまでもお腹が満たされないような違和感が、読み終わって数時間経っても私の胸をざわつかせている。

私は読書家と言えるほど熱心に本を読む方ではないし、定期試験やセンター試験を無難にパスする程度にしか現代文の勉強に真剣に取り組んでこなかった。大学で土木工学を専攻してからは文学にまつわるトレーニングとは全くの疎遠になったことは言わずもがなである。

久しぶりにいかにも文学らしい作品に触れ、私は才能はないにしろ文学をはじめとした芸術に触れて何かを感じる多少の感性はあるはずなのに、それを自分の中で解釈して理解するための言語は全く持ち合わせていないのではないかと改めて思った。消化器官は正常に発達しているのに消化液が枯渇しているようなイメージだ。

今はミケランジェロやレオナルドダヴィンチのような万能の天才がいた時代でもあるまいし、私の限りある人生の中で深く探求できる学問はごく狭い分野に限られてしまうことが多いだろう。そんな中で自分が土木工学の、特に都市計画の分野を自分の軸として選んだことに後悔はない。しかし優れた芸術作品に触れるたびに、高い感受性で作品を深く理解することで人生を謳歌してみたかったと思わずにはいられないのだ。隣の芝生はいつでも青く、無い物ねだりをせずには生きられないということなのだろう。

今の私の関心事は、次にどんな本を選んだらもっと文学に近づけるかということだ。もちろん、芸術の凡人である私が「文学とは何か?」や「文学をいかに語るべきか?」などといった問いに答えることは、逆立ちをしても無理だとわかってはいる。

それでも、答えがない問に迫ろうとすることは私の生きがいのひとつとなる行為であり、人生に面白みを与えてくれる貴重な時間だと思いたい。「一人称単数」を読み、苦労して言葉にしようとした感想はどこまでも陳腐なものだったかもしれないが、それを考えることを通して人生の意味を再考することができた。とても良い読書経験を積むことができたと思う。

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