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「少女革命ウテナ/考察」人は蟲毒には耐えられない

面白い誤変換になったので、タイトルこのままいこうと思います。
確かに、人は蟲毒には耐えられないわ。
うん、深いね……(;´・ω・)

蟲毒とは、百の毒虫を壺の中に閉じ込めて共喰いさせ、生き残った一匹の毒を用いる古代中国の呪術だそうで……
中学生の頃、たまたま読んでいた漫画に蟲毒が出てきたのが初遭遇だったんですが、「百の毒虫」を、ぎゅうぎゅう詰めで、狭い「壺に閉じ込めて」あまつさえ、餌も与えず「共喰いをさせる」というエグイ行為が、絵面的にも恐ろしく、子供ながらに大変なショックを受けました。しばらく悪夢にうなされたかもしれません。
まあ、漫画や小説で使う呪術ネタとしてはポピュラーなので、その後もちょいちょい何かしらの作品の中で遭遇し、蟲毒のグロさにも慣れて感覚が麻痺し、今では普通に「ふぅん、蟲毒かぁ」くらいの感じで、作者が演出として意図しているであろう、その呪術が行われるシーンの邪悪さや禍々しさを若干読み取れなくなってきています。
擦れた読者ってイヤですねぇ(汗)

本当は、「人は孤独には耐えられない」というタイトルで、フレデリック大王の実験の話に触れてから、本命の話題に入ろうとしていました。
こちらもエグイ実験です。

ふれあいがなかったらどういうことになるか、それが「フレデリック大王の実験とネグレクト」です。産業革命後のヨーロッパは捨て子が多くて、それを修道院に入れて修道士が育てました。フレデリック大王はあるとき修道士にマスクをさせて、赤ちゃんが目を見ても一切目を見てはいけない、笑いかけても笑ってはいけない、語りかけてもいけないと、ふれあいを一切しないで赤ちゃんを育てる実験をしたのです。そうしたら、実験が終わらない間に子どもはみんな死んでしまったのです。

フレデリック大王の実験とネグレクト (glico.com)

資料を検索したんですが見つけられなかったハーロウの子猿の実験も酷いもので、一切の命あるものとの触れ合いの無い状態に置かれた子猿が、針金製だが乳の出る奇怪な母体モデルと、乳は出ないけれど柔らかくまだしも猿っぽさのあるぬいぐるみ、どちらを選ぶか観察する実験です。
子猿は常に不安げで、普段はぬいぐるみにしがみつき、乳を吸う時だけ針金のほうにしがみつきますが、すぐにぬいぐるみのほうへ戻ります。本能で親との触れ合いを求めて、より生き物らしい柔らかな肌触りのぬいぐるみを選んだのでしょう。
結局、この子猿は長く保たず衰弱して死んでしまったそうです。

以上二つの実験結果から、ふれあいやぬくもりや愛が無ければ、情動を持つ生き物の子供は、孤独に耐えられず、成長して大人になることなく死んでしまうであろう事が類推されます。
どちらの実験も非人道的で残酷でとても許せるものではないですね。
ふれあいを、ぬくもりを、そして愛を欲しがる心を、こんな実験で証明しなければいけなかったのでしょうか。
野生の動物の群でも、母親に死なれ孤児になった個体が無事に成長する事は皆無に近いです。群の他の雌が孤児に乳を与える例も稀にはありますが、偶然に子を亡くした孤独な母と母を亡くした孤独な子がマッチングした幸運な例か、極稀に存在する鷹揚な気質の雌が二匹目の子供として孤児を受け入れる奇跡的な例でしかなく、ミーアキャット等のように血縁のある群の雌全体で群の子供全てを纏めて世話をするという習性がある種でもなければ、通常は孤独になった個体は死に至ります。
孤独は死をもたらす猛毒です。
※ここでの「孤独」は愛情のあるふれあいが無い状態を指します。

野生動物の孤児が死ぬのは、外敵に襲われ容易に捕食されてしまうという事もありますが、そうでなければ餌が無い為の餓死/衰弱と孤独であるが為に体温を保てない低体温症が直接の死因のほとんどでしょう。
では、適温で餌だけあれば孤独でも成長できるのかといえば、単細胞生物から虫や魚類や両生類や爬虫類など子育てをしない種は成長しますが、子育てをする種は先の実験の結果から見てもそうとは言えません。
母親からはぐれてしまった鳥類や哺乳類の子供を人間が拾って餌だけ与えても飼育が上手くいかず死んでしまったという例も多いでしょう。精神的に不安定になり、与えられた餌を食べずに死んでしまう事が多いようです。飼育しようとする側がいくら愛情をかけても、孤児になった動物がその愛情を受け入れられずに孤独に怯えていたら、結局その個体は孤独によって衰弱して死んでしまうのです。
暗い死の話ばかりですみません。

なんにせよ、子供は孤独だと死んしんでしまうという事です。
子供は孤独には耐えられないのです。

愛されなければ大人になれない。
人類ほど高度に発達した社会を持つ生物ならば、孤児を養育するシステムを持っています。実の親でなくとも、愛されれば子供は育ちます。
しかし、愛されなかったら……?
死なないシステムは一応あるので、育ちはしますけど……
ちゃんとした「大人」にはなれないんです。
これが「人は(人も)孤独には耐えられない」という事です。
充分に愛されず、躾られず、正しく生きる術を与えられなかった孤独な子供は、死んでしまうまでいかなくとも、真っ当な大人に成長する事が出来ず、歪な「コドモオトナ」になります。(※「コドモオトナ」の問題は重要なので後で詳述します)
30代40代になっても幼稚でわがままで、自分の事しか考えられず、他人への思いやりや気遣いの無い人、いますよね。
誰かれ構わず甘えて負担をかける迷惑な人もいれば、それが悪化してストーカーになる人もいます。
誰にも心を開かず自分の殻に閉じこもってしまう人もいますし、それが高じてひきこもりになる人もいます。

気分障害や人格障害は遺伝的な要因もあるそうですが、発症のトリガーは外的要因との複合である場合が多いそうです。ストレスがメンタルを病ませます。ストレスのほとんどは孤独に集約されます。虐待、イジメ、モラハラ、パワハラ、セクハラ、その他の様々なハラスメント、差別、仲間からの締め出し、からかい、嫌味、否定、無視、無理解、無神経な態度、明らかな攻撃は受けていないけれど周囲になんとなく馴染めないという不安感まで……
それらに苦しみの根には「守ってくれる人がいない、頼れる人がいない」という孤独があります。
※ここからは、愛を与えられていない状態を「孤独」と定義します。

人は孤独には耐えられないのです。


 ※以下、ネタバレを含みます!!
「少女革命ウテナ」全話 未視聴の方はご遠慮ください!!


前振りはさておき、本題に入りましょう。
今回は、初視聴当時に思春期真っ最中だった多くのオタクが人生を狂わされた「新世紀エヴァンゲリオン」と並び「伝説の性癖改変アニメ」と称される「少女革命ウテナ」の個人的な感想と考察をしてみたいと思います。

「少女革命ウテナ」は1997年4月から放送された、全39話のテレビシリーズで、なんと完結している作品です。
テレビで放送した分だけで完結するって当たり前なんですけどね。
あのエヴァの後番組だったので「完結しているなんて凄い」と思っちゃうものなんですよ(;´∀`)
意見の分かれるところだと思うのですが、個人的には劇場版「アドゥレセンス黙示録」は無くても大丈夫だったと思っておりまして……
でも、これは私個人の感じ方なので、劇場版のほうが刺さる方もいらっしゃると思います。劇場版には劇場版ならではの見応えがあります。
とは言え、私はテレビシリーズのみで完結している状態のほうが刺さる側の人間なので、そちらを中心に考察をさせて貰おうと思います。



どうでもいい前振り

私は、ウテナがテレビ放送されていた当時、実家で親達から酷い虐待を受けており、包丁を持って「おまえたちを殺して私も死ぬ」と喚きながら追いかけてくる発狂した母親から逃げる事と、母親の愛人の「勉強するな。俺よりバカでいろ。人生に希望なんか持たせてなるものか。おまえらの将来なんか知った事か。水商売でもやって金を寄越せ」という理不尽な抑えつけと、少しでも逆らうと4~5時間も無実の罪で罵倒され、反論すれば動けなくなるほど殴られるという、筆舌に尽くしがたい暴力に日々耐えるだけの事で精いっぱいで、アニメを観る安全な場所も精神的な余裕も無く、虐待がどんどん酷くなり、黒薔薇編以降は視聴できておりませんでした。

その後の人生も、漫画家になってやっと実家から逃げ出せたのに、信頼していた旦那から作品すべてに無意味で底意地の悪いダメ出しをされ続けるモラハラを受け執筆が出来なくなり、後に異常なネットストーカーからの粘着被害も加わり、うつ病になりましたし、ステージⅢBの癌で、のた打ち回って吐くわ禿げるわの抗がん剤治療と、臓器ひとつ丸々全摘出と、足の付け根のリンパ腺の摘出手術や、病気と治療の後遺症や、可愛がっていたワンコがボケてしまって仕事が忙しい旦那に負担をかけないように自分だけが介護の負担を負い過酷な24時間ワンオペ老犬介護をして満足な睡眠が取れず酷いノイローゼ状態になり毎日「死にたい」と呟き続けるなど……それぞれひとつだけでも地獄だったというのに、それらが立て続けに襲ってくるという連続地獄で、趣味や創作を楽しむ余裕はありませんでした。

犬が認知症になる前(癌治療の後)、短かったですが、人生が静かに凪いでいた珍しい時期がありました。その時期に、酷い人生を運命として受け入れて飲み下し、やっと趣味を楽しもうと努力を始めたら、前述した常軌を逸した不気味なネットストーカーに六年半も取り憑かれ、ノイローゼに……
どれだけ運が悪いのか、自分でも呆れます。ウンザリです。
(異常ストーカーには、弁護士に依頼して発信者情報開示請求をし、8月初旬に裁判所から開示命令が出され、ネット回線の契約者情報が開示されました。まだ示談交渉や民事訴訟等が残っていますが少し楽になりました。ちなみに、4月半ばには相手方の情報が開示されるであろう旨の報せを弁護士から受けていました。ネット回線事情により判決まで長引きましたが、その件は別記事に纏めます)

そんなわけで、やっと落ち着いて「少女革命ウテナ」全話を視聴できたのは、つい最近、2023年7月半ばの事です。

泣きながら観ました。
真っ昼間の、誰もいない部屋で、号泣しました。

「少女革命ウテナ」は、救済の物語

なんでしょう、この世界……
薔薇の花嫁とエンゲージした者が世界を革命する力を得る──という不可思議な設定を根に、様々な物語が大樹が枝葉を広げるように複雑に生い茂り、それでも根から離れることなく、破綻なく、完結しているのです。
登場人物すべてが激しくぶつかり合い、決闘によって文字通り戦い、研鑽し合って、自らのトラウマに向き合い、それぞれがそれぞれなりに救われていく様は、さながら炎と豪雨による洗礼です。
砕かれなかった者はいない。
そして、再生されなかった者もいない。
なんという救済の物語。

意外かも知れませんが、鳳暁生でさえも、アンシーに捨てられる事によってこれまでのような超越的で放埓な生き方=「特別な存在であらねばならないという呪縛」から解き放たれ、凡庸な人生を歩み始める事が出来たはずなので、地味に救われているのです。
彼のような人間には、限界を知る事による挫折と、その後の退屈に安寧する事こそが救済です。

ウテナも「敗北した主人公、報われなかった主人公、救済されなかった主人公」等と見る向きが大勢ですが、私は救われていると信じます。

後で詳しく言及しますが、この物語の真の主人公は姫宮アンシーです。
では、ウテナは何者なのでしょうか。
実はウテナは「観測者/語り部」であり、視聴者の目=物語に感情移入する為の器として用意された「仮の主人公」に当たります。(※仮の主人公は、プロップの物語論における偽主人公とは役割が全く違い、完全なる別物なので混同しないよう気を付けてください)
「シャーロック・ホームズ」シリーズのワトソン医師や、「涼宮ハルヒ」シリーズのキョンが分かり易い「観測者/語り部」であり「仮の主人公」にあたりますね。
ウテナは「仮の主人公」としては派手で華やか過ぎるので、圧倒的主人公感があり、どう見ても「主人公」に見えますし、実際に主人公として設定されていますし、公式も主人公だと紹介しています。
しかし、物語の終幕で、最も変化し、最も成功した改革者(まさに世界を革命した者)として君臨するのはアンシーであり、物語の構造から見ると、ウテナは仮の主人公に留まるのです。
劇場版「アドゥレセンス黙示録」では、ウテナは途中からピンクの車になっちゃってるくらいなので、真の主人公はアンシーだったと製作者側も薄っすら気付いていたんじゃないでしょうか……
ウテナは、物語の構造を分解すると、視聴者が感情移入をする器として(製作者側の意図には反するかも知れませんが)機能している事が分かります。
「仮の主人公」であるウテナは、我々の根底に在る(大抵の人は生まれながら自然に持っている)偽らざる素朴な善意の顕現です。
ウテナが「仮の主人公」=「観測者/語り部」=「我々の視点」=「我々の分身」であるからこそ、ウテナの純粋な献身に我々は心打たれるのです。ウテナが善行を行うことよって我々が洗い清められるようで……

しかし、ウテナは主人公としては敗北します。(※ウテナは仮の主人公なので、ウテナの敗北は物語の敗北ではありません)

最終話、鳳学園では「ねえ、ウテナ様って誰だっけ?」とすげなく言われ、「大怪我をして入院した」とか「恋人だか友達だかに裏切られて転校した」とか「理事長と問題を起こして退学になった」等と噂され、挙句に「ま、どうでもいいけどね」と軽くあしらわれる程度の「忘れられた過去の存在」になっています。
暁生も「あれからまだ幾らも過ぎていないのに、みんな、彼女の事はすっかり忘れているようだね。やはり彼女には革命は起こせなかった。消えてしまった彼女はこの世界ではただの落ちこぼれだったんだな」とウテナを見下し否定します。
しかし、真の主人公アンシーは、外した眼鏡(心の壁の象徴、薔薇の花嫁として振舞う為の仮面)を置きながら、「あなたには何が起こったかも分からないんですね」と暁生を逆に見下し否定するのです。
「もういいんです。あなたはこの居心地の良い棺の中で、いつまでも王子様ごっこをしていてください。でも……」
アンシーは、ここで暁生に背を向けます。もう彼への拘りは無いのです。真の主人公が、物語の主として、その権能を振るう瞬間です。
「私は行かなきゃ」
視聴者にはアンシーが何処へ行こうとしているのか、ハッキリと分かっています。
「行く? どこへ?」
暁生は何を言われているのか理解できず戸惑いの表情を浮かべますが、アンシーは冷たく突き放します。
「あの人は消えてなんかいない。あなたの世界から居なくなっただけ」
追い縋る暁生の叫びに、アンシーは淡々と別れを告げます。
「さよなら」
ああ……この「さよなら」は圧巻ですね……

アンシーは、この時ついに暁生に反旗を翻したのでしょうか。
いいえ、反旗はとうの昔……アンシーがウテナを見出した時、控えめにではあっても、実は堂々と翻されており、暁生が気付きもしない内に戦いはとっくに終結していたのです。
暴虐の王には何が起こったのか分からないほど、密やかに、周到に、従順な薔薇の花嫁の仮面の下で、すでにアンシーは勝利していました。
後はただアンシーが暁生を捨て去るだけだったのです。
「今度は私が行くから。どこにいても必ず見つけ出すから」
アンシーは鳳学園の門から歩を踏み出し、彼女を閉じ込めていた監獄から自らの力によって抜け出し、力強く歩み始めます。
そう、人生は鳳学園だけがすべてではありません。
暁生の言う「この世界」は、アンシーが切り捨てたように「あなたの世界」(=暁生の世界)でしかないのです。狭くて、暗くて、寂しい、成長の可能性などとっくに失われた、こぢんまりと閉ざされた、卑小な世界です。
別の場所でアンシーはウテナに再会するでしょう。
ウテナは、その時こそ、自分の意思で選択する力を身に付け、自分だけの人生を歩み始めたアンシーによって、これまでの無私の慈悲に価値を与えられ、確実に救われるのです。
ウテナは我々です。
アンシーの最後の台詞は、我々への約束です。
なんという救済の物語でしょうか。
「待っててね、ウテナ」

「少女革命ウテナ」は、異界にして舞台

「気高き城の薔薇よ、私に眠るディオスの力よ、主に応えて、今こそ示せ」
「世界を革命する力を」
ちなみに「δῖος ディオス、ギリシャ語」は私の持っている希英辞典だと「shining, brilliant, excellent, noble, divine」で、こちらの検索だと(形容詞、中性 Διός), ゼウス由来の、神起源の、神、天、崇高、高貴、エシミオ、優秀、壮大、輝かしい」等だそうです。要は「」とか「貴いモノ」とか「凄いモノ」とか「奇跡」です。(今、そっと伏線ブッ込みました。ついでに言うと、「Άνθη アンシー」は私の持っている安い辞書には載っていませんでしたが「Άνθος アントス」は「flower, blossom」だそうです)
上の台詞、そしてアンシーの胸から現れる剣を抜く魔法のようなシーン……
ファンタジーですね。
しかし、「少女革命ウテナ」は単純にファンタジーには分類できないんですよね。物語のほとんどは学園物として展開していきますし……強いて言うなら学園ファンタジー?
でも、それだけではないんですよね。
唯一無二、他の誰にも創れない謎世界
何と呼べばいいのでしょう?
私は、幾原邦彦作品はウテナ以降しか知らないので(セーラームーンを観ていないのです)ウテナからしか分からないのですが、この独創的なセンス、シュールなギャグを交えながら、ドロドロの愛憎劇から、究極の救済まで描き切る、わけの分からない魅力、求心力、禍々しい催淫力……
「輪るピングドラム」にも、「ユリ熊嵐」にも、「さらざんまい」にも、同じテーマが繰り返し描かれています。舞台は現実のようでありながら非現実で、シュールなギャグで視聴者を煙に巻きながら、ドロドロの愛憎劇、悲惨な虐待や差別や階級社会や恐ろしい現実を見せ付け、観る者を絶望のどん底に突き落とし、そして、最後は見事に救済してみせる……凡庸なジャンル説明では形容しがたい、尊く稀有な世界です。
そりゃ、ラストにキャラが救われている物語はいくらでもあります。幾原邦彦の専売特許ではありません。それでも、幾原作品の救済は、他に類を見ない、ほとんど宗教じみた魂の救済なのです。
完全な救済──コレは他の誰にも描けないモノです。
謎世界とコレ故に、彼の作品はジャンル分けしようがなく、「イクニワールド」としか呼びようがありません。幾原邦彦ほど、きちんと完結させて視聴者を救っている監督は他にはあまりいないのです。
完全なる救済に至るまでの特異な構成と演出の独自性も、幾原邦彦の稀有な特徴の一つです。
「なんで第一話がそんなにシュールなのよ」と思ったことありませんか?
私は毎回思ってます。
「少女革命ウテナ」は王子様に救われたウテナが王子様を目指してしまったところから素っ頓狂で、やたら豪華な全寮制っぽい私立学園という舞台設定や、古い少女漫画を意識した過剰な演出なども「えっ? この作品、何をやるつもり?」って感じで、生徒会、薔薇の花嫁、デュエリスト、世界を革命する力、ディオスの剣、等々……何を描くつもりなのか、テーマも、ジャンルも、サッパリ分かりませんでした。
幾原邦彦作品、ジャンル分けできます?
私はできません。
その後の「輪るピングドラム」も、「ユリ熊嵐」も、「さらざんまい」も、あらゆる意味で予測不能の第一話で「なんじゃそらあぁぁぁぁっ!」と度肝を抜かれました。
まったく意味が分からなかった。
「何を描こうとしているのか何も見えんっ!」
そんな第一話、在り得ます?
幾原邦彦は舞台演出に強い影響を受けている、という前提で、強固な意識の城壁を造らなければ、凡人の我々の理解力では、彼の作品の世界は意味不明のカオスになり、我々の思考は破綻してしまいます。
「少女革命ウテナ」はアニメでありながら、実は舞台芸術であり、登場するすべてのモノは、直視するには毒が強過ぎる恐ろしい現実の悲劇/真実から、夢想的で口当たりの優しい別の何かに置き換えられた「舞台的メタファー」の集合体なのです。
描きたいテーマ、描きたい物語の、舞台を、アニメ化している。
幾原監督はそう思っていないかもしれませんが、凡人である我々が、幾原作品を分析し理解しようとする時、その前提が一助となるかと思います。
もちろん、感覚的/直感的に幾原作品に身を委ね、その世界の一部となって遮二無二味わおうとする場合には、何も考える必要はありません。幾原邦彦の炎と豪雨に素直に焼かれ打たれれば良いのです。
「イクニワールド」という異界。
そこには、めくるめく陶酔と快感があります。

トラウマの表象としての登場人物

ここでは、「少女革命ウテナ」が救済の物語である以上、主要な登場人物は救われるべき対象であるという事に着目し、各キャラが象徴しているトラウマや精神疾患等、癒されるべきモノを挙げていこうと思います。
※私は専門家ではありませんので、あくまでも「そう見える気がする」という程度の与太話として流してください。
※治療の必要な疾患等をお持ちの方は、こんな記事ではなく、専門家の意見に従い、お体を大切に、きちんとした治療を受けてください。少しでも楽になりますようお祈りいたします。

天上ウテナ

ウテナは健全です。大前提として、そうでないとアカンので、まあ色々拗れているところは見て見ぬふりをしましょう。
幼い頃、両親の死によって死恐怖症=タナトフォビアになって希死念慮に囚われ重度の抑うつ状態でしたが、ディオス(周囲の期待に応え続ける清廉潔白で優しい天才的リーダーとしての暁生のペルソナ)によって救われ「潔く格好良く生き、お姫様を救う王子様になりたい」という、王子様コンプレックスとでもいうべき状態になっています。王子様コンプレックスは本人も周りも困っていないので病気とは言えません。
敢えて言うなら、ウテナが象徴するのは、幼稚な万能感、空気を読めない未熟さ、純粋に正義を信じているが故のデリカシーの無さと押し付けがましさ、くらいでしょうか。
幾原さんがさいとうちほさんに反対されていなければアンシーと恋仲になる予定だったそうなので、無自覚のレズビアンかトランスジェンダーだった可能性もあります。しかし、それは描かれなかった構想なので、結果的にウテナは、我欲でアンシーを求めることなく、無私の慈悲で、アンシーに無条件の愛を与え、世界を救済する「」にまで昇華しました。
結果、すげえな……

姫宮アンシー

闇が凝縮した、まさに魔女……というのは嘘です。そんなんじゃありません。彼女を魔女にした世間こそが(強者に立ち向かう事を恐れて、弱者に罪を着せ、「おまえが悪い」と言って場を収めて自分の身の安全を守っている嘘、詭弁、権威論法)人間の汚さを凝縮した闇です。
アンシーは徹底的に破壊された究極の被害者です。
典型的な、幼少期から長期に渡る性虐待の被害者で、あまりにも被害が酷過ぎて、気の毒で、可哀想で、正視するのに胆力が要ります。
「薔薇の花嫁」は、アンシーが自分の心を守る為に作り出した「感情も自我も持たないが故に傷付かないもう一人の自分、棺の中にいる本物のアンシーの代わりに苦しみを引き受ける代理人格、ペルソナ」です。
「薔薇の花嫁」を「近親相姦レイプの被害者」と置き換えると、なんと、アンシーの台詞の意味が通ってしまいます。
「どうしてそんな事をされて我慢してるんだ?」
「私は薔薇の花嫁(近親相姦レイプの被害者)ですから(自分に価値を感じられず、自分を大切にできないんです、自暴自棄なんです)」と。
解離性障害、離人感。
無気力、無関心、無感情、生きながらの死。抑うつ、希死念慮。

桐生冬芽

彼も(公式設定で)幼少期に義理の父親から性虐待を受けた被害者なのですが、成長し養父の好みのタイプではなくなり、興味を失われて、すでに性虐待から解放されている為、アンシーとは違う歪み方をしています。
彼は不特定多数の女生徒たちと無責任に奔放な関係を結ぶ事で、性被害の再生産をしています。かつての被害者が加害者になっているのです。女生徒たちは望んで彼と関係を結んでいると思っているでしょうが……
冬芽が決闘によってウテナからアンシーを奪い、王子様であるウテナにお姫様である事を強いて救おうとする心理は、ある意味、レイプに近いかもしれません。冬芽も王子様コンプレックスなので、ライバルの王子様を女にする事で蹴落とそうとしていたのではないでしょうか。
最後はウテナを応援し見守る側に回るので、それが彼の成長であり、大人になった証だと思います。
傲慢、サイコパス的な合理主義と共感性の欠如、冷酷、隠された加虐性。

西園寺莢一

分かり易いモラハラDV野郎ですね。専門家のカウンセリングを受け、加害者の会にも参加して、頑張って厚生して欲しいところですが、物語の終盤では冬芽との友情の復活により精神的に安定してきたのか、だいぶマシになっていましたし、特に言う事はありません。
傲慢、危険なストーカー、粘着質、衝動的、暴力性、他責、依存、未熟。
劣等感と固執が強く、パラノイア的。

有栖川樹璃

立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。そう、百合です。
樹璃の弱点は、ただ一つ、女の子である枝織を愛している事のみです。しかし、そのたった一つが彼女の完璧な人生を完全に破壊してしまう恐ろしい爆弾になってしまうのです。容姿端麗、清廉潔白、フェンシング部の部長兼エースであり、文武両道に秀でた才色兼備のスーパーモデルだというのに、ただ片思いの相手が枝織であるばかりに、人生最悪の致命傷になってしまったんですよ。「なんで、よりにもよって枝織なんだよ」とみんなが思っているのではないでしょうか。私も思っています(笑)
樹璃は、描かれなかったウテナとアンシーが恋に落ちるアイデアを成仏させる役目を担ったキャラのような気がします。もし、さいとうちほさんに反対されず、幾原監督が百合設定を生かしていたら、樹璃が味わった枝織を愛するが故の苦悩は、ウテナのものだったかもしれませんね。その可能性を考えると、とんでもない業を押し付けられた樹璃が気の毒過ぎる……
同性愛者であり、アウティング被害者ですね。
パニック障害。潔癖症。完璧主義。行き過ぎた自己犠牲。強迫神経症。

薫幹+薫梢

これ、ちょっと捻くれた解釈になってしまうのですが、この双子キャラ、実は本体は梢だと思います。
梢は神童の成れの果てで、二十歳過ぎればただの人どころか、13歳ですでに才能の限界を感じ、実体験から自分が凡人であると思い知り挫折し、空虚なプライドだけが残った抜け殻なのです。彼女は「うちの兄貴は凄いんだから」と自慢する事でしか自分を保てません。周りに「特別な子」とチヤホヤされる快感は味わってしまったけれど、それが永続しない事を誰よりも自分自身が分かっているのです。それで幹を「自分が特別である理由=盾」として利用するのです……が、我々には幹がいません。
はい、もうお気付きですね。梢は極めて普通の子です。じいじ、ばあば、パパ、ママに「可愛い、可愛い、凄い、凄い」と育てられ、普通に成長して、ふと周囲を見回し気付くのです。自分は決して可愛くも無いし凄くもない平凡な「その他大勢」だと。現実を受け入れ大人になれれば良いですが、梢は現実を受け入れられなかったケースです。嘘をついて周囲の気を引こうとし始めます。それが奔放に見える性的逸脱であったり、非行であっりします。梢は、幹という虚像を奉じて、自分は特別だという夢想に逃げ込みます。いわゆる虚言癖ですね。ウリやODをしやすいタイプです。
誇大妄想、理想が高過ぎるが故の強烈な自己否定、現実逃避。

桐生七実

ブラコンで梢と良く似ているのですが、似て非なるのが七実の強みです。彼女は健全です。とてもそうは見えないのですが、健全なのです。
一見、いじめっこなのですが、七実は実力で戦って勝った結果、ボスとして君臨しているのであり、競争社会に適応しています。七実は社会に出ても充分にやっていける大人です。まあ、人徳者ではないですし、会社でもパワハラお局みたいになるとは思うのですが、でも、本人のメンタルは健康に保たれるだろうと予想されるので、ただの陽キャの嫌な奴でしかありません。
結婚できないだろうなぁとは思うのですが、それで七実が死ぬほど辛いとか自我を保てないとかは絶対に無いので、まあ、DQNですよね。オタクには理解できないメンタリティですし、我々にはほとんど関りの無い異次元の生物です。一生、幸せに生きていくでしょう。
強いて言うなら、病的なブラコン。家族への頑固な依存。守られる主体としての自分への拘り。金持ちのわがままお嬢様。※健全です。

堕天使にして魔王、鳳暁生

薔薇物語

暁生は、教育虐待の被害者だと思います。
ディオスが暁生の少年時代のペルソナであるならば、才能豊かで、成績優秀で、品行方正で、何でも出来て、みんなに優しく、みんなの期待に応える万能の王子様のような少年が思い浮かびます。
しかし、暁生こそが、冒頭で言及した、歪な「コドモオトナ」です。
優秀な王子様でいる為に、無理に無理を重ねて受験ノイローゼ(あるいはそれに類似する状態)になり精神を病んでしまったのではないでしょうか。
エピソード34「薔薇の刻印」の劇中劇として上演される「薔薇物語」は、暁生から見た、暁生に都合良く解釈された歪んだ世界です。アンシーが薔薇の王子様を求めて、他のお姫様達に嫉妬して魔女となり、自分を誘惑して懊悩の檻に閉じ込めて、完全な王子様でいられなくした、と。
とんでもない他責思考ですね。自分が汚らわしい欲望を抱いて加害したのではなく、自分は被害者から誘惑されただけだと思い込んでいるのです。
心理学用語の防衛機制で言うところの投影です。自分を守る為に、自分の汚い欲望を認められず「相手が悪いのだ、相手がその欲望を持っていて自分を誘惑したのだ」と責任転嫁する。
コレ、完全にレイプ魔や痴漢の心理と同じです。
「女は嫌がっていない、俺の目の前に立っていたのだから、俺を誘っていた。俺に触られたがっていた。犯されたがっていた」
信じがたい事ですが、こう主張する犯人が多いのです。認知の歪みなのですが、犯人の近くに居ただけで「誘惑した、喜んでいた」と犯人から見做されるのです。被害者としては堪ったもんじゃないですね。
しかも、性的虐待やレイプの被害者が「おまえが誘惑したんだろ」と責められるのは珍しい事ではありません。警察官にさえ二次加害をされたという訴えも多いですよね。被害者非難は大昔から行われてきており、特にレイプは被害者に落ち度があったと責められる事が多いのです。ほとんどの人は公正世界仮説という「自分に落ち度がなければ不幸は避けられる」という無意識によって心の平安を保っています。自分が注意していれば運命を制御できると思えなければ、未来は途端に不安定で恐ろしいものになってしまうので、この心理は病的なものではありません。しかし、だからといって被害者に落ち度があったと思い込み、被害者を責めるのは罪深く残酷な行為です。公正世界仮説という認知バイアスに気付ける人は多くありません。加害者よりも却って被害者の方が責められやすいのはそのせいです。
おそらく、暁生がアンシーにそういう事をしていると知った周囲の大人達は、アンシーに向かって「おまえが誘惑したんだろ。おまえが悪い」と責めたのではないでしょうか。
それが、アンシーが「魔女」と呼ばれる事の真相だと思います。お芝居に見立てて語られる悲劇の真実です。

薔薇の物語

エピソード34後半では、一転、逆にアンシーこそが犠牲者であるという真実の世界が語られます。時間は遡り、まだウテナが幼い時分であり、語り手もディオスである事から、暁生に残ったディオスの残滓が良心として現れたものと私は解釈します。
「もうやめて、これ以上戦わないで。あなたが死んじゃう」というアンシーの台詞は、素直に「もう無理しないで」という意味でしょう。
暁生は常軌を逸した受験勉強や習い事等をさせられていたんじゃないでしょうか。生まれ持った才能のお陰で、やれば何でも結果を出せてしまった天才児だったのでしょう。そのせいで、親や教師や習い事教室の指導者など、栄誉に目の眩んだ周囲の期待から逃れられず、ストレスから体調を崩す事や、もしかしたら自傷行為を繰り返していたのではないかと疑います。
ディオスに救いを求めて押し寄せる民衆と、彼を庇い立ちふさがるアンシーのシーン……
「ディオスはもういないわ。彼は私だけのものだから、二度とあなた方の手の届かないところに封印しました」
そう言い放つアンシーに、群衆は、「魔女め」と罵声を浴びせます。
そして幾百幾千の剣が彼女の体を貫くのです。
優秀な子供を通して栄誉を得ようとしていた大人達からすれば、もう兄に無理はさせないと言う幼い妹なんて目障りでしかないでしょう。
薔薇の花嫁になったのが何時なのか、エピソード35「冬のころ芽生えた愛」の冒頭で明らかにされています。不吉な赤色の背景に浮かび上がる真っ黒な影、串刺しにされ苦しみ悶えるアンシーを遠目に、「誰?」と問う幼いウテナに、ディオスは「魔女、薔薇の花嫁」と答えています。
この時点ですでにアンシーが薔薇の花嫁=近親相姦レイプ被害者だったという事です。ウテナとアンシーは同じ年です。ウテナが両親に死なれた時の事を「幼くてよく覚えていないんだ」と言うほどの年齢です。アンシーも幼くて、何をされているのか、これから何が起きるのか、自分を待っている未来がどんな悲惨なものになるのか、何ひとつ分からなかったでしょう。
なんという酷い事を、なんというおぞましい事を……
しかも心無い人々は、アンシーに「薔薇の王子様を誘惑して堕落させた」という無実の罪を着せ、被害の責任を加害者から被害者に転嫁し、虐めやすい弱者のほうを「おまえが悪い」「おまえが諸悪の根源の魔女だ」と罵って、問題を解決する苦しみから逃げたという事です。
そういう事は、現実でも、往々にして起こりがちです。
ディオスは独白します。
「愛する王子様を守る為に自分が犠牲になったんだ。本当に王子様を愛していたのは彼女だけなのに……しかも、彼女を愛した王子はもはや彼女の知る王子ではなく、結局、世界の果てになってしまった……」
暁生は自分の罪を心の底では理解していたのかもしれません。

「コドモオトナ」という怪物

充分に愛されず、躾られず、正しく生きる術を与えられず、成長する事が出来なかった孤独な子供は、30代40代になっても幼稚でわがままで、自分の事しか考えられず、他人への思いやりや気遣いが無い「コドモオトナ」になります。コドモオトナは世界に害を齎す怪物です。
彼らは人間として成熟できず、卵の殻を破らずに、殻の中で腐って鬼畜の所業をする加害者(反社会性パーソナリティ障害)になっています。
彼ら(反社会性パーソナリティ障害)には本当の意味での人を愛する心が無く、異常なまでの他責性を持っており、共感性皆無で、他者の痛みを全く理解できませんし、認知は歪み切っていて、普通の人間とは違う世界を見て、違う論理で生きています。罪の証拠を突き付けられても詭弁を弄して「自分は悪くない」と主張し、逆に被害者を非難するので、彼らとの話し合いは不可能です。宅間守松永太が反社会性パーソナリティ障害の例として分かり易いと思いますが、非常に恐ろしい事件なので記事を読むとトラウマを負う方もおられると思います……なので、漫画やドラマに出てくる典型的なモラハラ夫をイメージして頂けると分かり易いです。彼らは犯罪を犯しても反省する事はありません。どこまでも歪んだ怪物です。
暁生は、様々なストレスと欲望の捌け口としてアンシーを利用し、あまつさえレイプしたのだろうと考えます。
レイプのみに限らず、痴漢、セクハラ、性的な動機によるネットストーキングまで広く含むストーカー等々……性犯罪を犯すに至る心理の根っこにあるモノは、卑劣で自分勝手な「甘え」です。
コドモオトナは、「自分は辛い目に遭ったから、自分は加害していいのだ」という歪んだ認知を持っていて、何の罪も無い被害者を欲望の捌け口にしたり、ストレス解消の為のサンドバックにしたりします。
性加害について、非常に分かり易く、良い事を言ってくれているVTuberさんがいらっしゃったのでリンクを貼ります。ぜひ観てください。私が説明するより圧倒的に分かり易いですし、的確です。

【ジャニーズ問題】グルーミングとトラウマの怖さを徹底解説

【かなえ先生切り抜き】 - YouTube

暁生は「コドモオトナ」という怪物です。
暁生のようなコドモオトナは、リアルの社会にも、大量に紛れ込んでいます。いいえ、暁生のような、能力だけは秀でたコドモオトナによって社会が運営されていると言っても過言ではないかもしれません。
それほど、大人に成り切れなかった未熟な人間は多いのです。
コドモオトナが厄介なのは、大人に擬態して、物陰でひっそりと罪を犯すところです。性虐待に限らず、あらゆる暴力/虐待/虐めは人の目を避けて密室でひっそりと行われます。気付いた人が居ても、その人が口を噤めば、その人は密室の壁に同化し、密室が大きくなっていくだけで、被害者は密室から逃げ出せません。
「どうして嫌だと言わなかったんだ?」と被害者を非難する人もいますが、言えなかったのです。密室が、有形無形の支配の圧力が、被害者の口を塞ぎ悲鳴を上げさせないのです。
虐待を受けている子供が、自分を虐待している親を庇うなんて、よくある事ではありませんか。虐められている子が、虐められている事を隠すのもよくある事でしょう。いい大人でさえもパワハラ/モラハラを受けても言い出せずに黙って耐えていたりします。
ネットでも、厭らしいストーカーに粘着されて酷い誹謗中傷をされても「自分が我慢しているしかないと思っていた」と言った人がいました。(自分の話で恐縮ですが、私が不気味なネットストーカーに開示請求をしたのは半分はその人の為です)
人は「被害に遭っている」とは、なかなか言えないのです。痴漢に遭っても咄嗟に声が出ない、その状態が長く続くと考えて頂ければ……
コドモオトナという怪物は、被害者のそういう当たり前の弱い部分に付け込んで卑しく醜くおぞましい加害を行います。
稀に、被害者が勇気を出して声をあげても信じて貰えず、逆に「おまえが悪い」「嘘をついているんじゃないのか」等と責められる事もあります。
アンシーが魔女と罵られたのと同じパターンです。
それほど「コドモオトナ」は「大人」に擬態するのが上手いのです。
まあ、中には擬態ができず、コドモオトナである事を露わに「異常者」と世間から誹られ嫌われ避けられて生きている怪物もいますが……
「多くのコドモオトナは大人に擬態し、巧妙に人を騙す。そして、犠牲者は哀れな薔薇の花嫁になって感情を殺しての沈黙を強いられる」
そう意識し、警戒しておいた方が良いと思います。
もしかしたら、あなたの側にも薔薇の花嫁が居るかも知れません。(※年齢も性別も被害の内容も問わず、すべての不当な扱いの犠牲者を薔薇の花嫁と呼ばせてください)
あなた自身が薔薇の花嫁かもしれません。
どうか、「コドモオトナ」という怪物を見過ごさないでください。
一人でも多くの薔薇の花嫁が救われますように……

アンシーと若葉は、コインの裏と表

若葉は、アンシーのあるべき姿

一話からなんとなく思っていた事なのですが、アンシーと若葉は、コインの裏と表のような関係にある気がします。
ウテナが最初の決闘をしたのは、アンシーではなく、若葉の為です。
学園の掲示板に張り出した西園寺宛のラブレター。それは若葉が書いたものでした。若葉の涙を見て事情を察したウテナは西園寺と決闘する事になります。それが、結果的にアンシーの為の決闘になり、なし崩し的にウテナはアンシーの王子様に収まります。
「ウテナは若葉の為に決闘し、アンシーの王子様になる」
奇妙ではありませんか?
全編を通して、ウテナが若葉の為にした事は、大抵はアンシーの為にする事にすり替わってしまうのです。
しかし、若葉はウテナとアンシーの関係には全く嫉妬しませんし、この二人、どちらも「私はウテナ様のもの」と言っているのに、なぜかウテナを巡っては対立しません。
ウテナは「普通の女の子が分からない」と言うアンシーに「若葉のようになれ」と言い、若葉に対しては「やっぱり若葉って普通の女の子なんだね」とホッとした表情で言います。
ウテナはアンシーを「若葉のような普通の女の子」にしてあげたいのです。若葉がアンシーの本来あるべき姿だからです。
この二人は、切り離しがたく、影と光であり、現実と理想であり、ある意味で同一人物なのです。
かつて玉葱王国の王女だった若葉は、性虐待により傷付けられなければ有り得たはずの=薔薇の花嫁にならなかったアンシーです。
アンシーと若葉は表裏一体、一人の人物の「傷付いた影」と「有り得たはずの光」であり、この二人は、事ある毎に相反する立場に配置され、ひとつの現象の光と影の部分として描かれます。
アンシーと若葉は、西園寺を間に挟んだ時も、暁生を間に挟んだ時も、対照的で真逆の反応をしています。光の面を見れば西園寺も暁生も素敵な男性なのですよね。でも、アンシーは二人の闇の面を見ています。影と光であるアンシーと若葉が、他の人間の影と光を分担して観測している。
なんとなくゾッとする演出です。
酷い目に遭ってさえいなければ、アンシーも、若葉のように「西園寺様」「暁生お兄様」とキャッキャッしていられたかもしれない……暁生の犯した罪の恐ろしさに息が詰まります。女の子の無邪気な楽しみ、明るい笑顔、恋を夢想する喜び、すべてを破壊してしまっているのですから。
また、若葉はストーリーを進行させる為、アンシーに便宜を図り、時にアンシーの本音や言うべき事を言い、時にアンシーの本音と真逆の言葉を代弁しているかのように見えます。

エピソード20『若葉、繁れる』

この回だけは、若葉はアンシーと切り離されて、独立して存在していると感じました。
この話の中で、ウテナは「ボクはただ、若葉がずっと幸せでいてくれればそれでいいんだ」と言います。それはアンシーに対する気持ちと全く同じであり、影と光それぞれに向けられた同源の言葉なのですが、若葉はこの回でのみ、アンシーの半身=光でいる事を拒絶します。
若葉自身の闇を滲み出させ、ハッキリとアンシーに敵対するのです。
「その女は自分だけ特別という顔をして何もかもを私から奪い取っていくんです」等々、若葉はアンシーに奪われているモノを自覚し、その他大勢として世界の端に追いやられている苦悩を語ります。
「私は姫宮アンシーとは別の人間だ」と言わんばかりです。
虐げられ、奪われ、壊されて、不幸な影であるはずのアンシーに、光である若葉が「私のほうが不幸だ」と八つ当たりするのです。
ウテナがアンシーなって欲しい「普通の女の子」は、特別ではない生身の人間で、苦悩もあれば劣等感もあり嫉妬もある、砂糖菓子のような甘い理想の結晶ではないわけです。
「普通の女の子」になれば救われるわけではない──それが、このエピソードが教えてくれる真理なのかも知れません。
それはともかく、アンシーはなんでこの話で、西園寺が彫ったあのしょうもない木彫りの葉っぱを頭に着けてたのか、いや、もう、その辺の素っ頓狂な吹っ切りがイクニ作品のシュールギャグですね(;´∀`)
この回では、ウテナはアンシーの剣を抜かず、若葉の剣で(西園寺から抜いた剣なので、厳密にはアンシーの剣と対比させて若葉の剣とは呼べないかもしれませんが)若葉の胸の黒薔薇を散らして、若葉を救っています。
アンシーの光としてではなく、若葉をひとりの人間として独立して存在させる為に、ウテナはたった一度だけ、アンシーを関与させずに、若葉のみと語らったのでしょう。

閑話休題(2023年7月12日のつぶやき)

ここで、ちょっと無駄な与太話をしておこうかと存じます。
オホホホホ……(;´∀`)
後で入れると雰囲気を損なってしまうので、まだ余裕のあるうちに突っ込みます。ウテナを視聴した際にリアルタイムで呟いていたツイートです。

YouTube流してたら少女革命ウテナのラスト三話のサムネが流れて来て、軽い気持ちで(ラスト三話だけ)観たらエグかった。全話ちゃんと観たこと無いのでアンシーの衝撃的な地盤を知ってショックを受けた。これ、むしろアンシーの物語じゃない? ウテナは徹頭徹尾アンシーの理想の王子様だった。王子様ごっこじゃないよ。

(※まだラスト三話しか観ていない
アンシーが鳳学園の門から一歩外に踏み出すシーンは鳥肌が立った。虐待で殻に閉じこもっていたアンシーが殻を破った瞬間じゃん。 ところで、アンシーと兄は苗字が違うから相続した遺産は別々なんだろうね。アンシーは姫宮の遺産をおそらく一人で相続してるから、兄を無視して相応の金を動かせるはず。

全話観てないから分からんけど、兄は継子のいない鳳家の養子になってるのかな、縛られ具合からして。鳳家の資産のほうが莫大なんだろうけど、姫宮家の資産も相当だと思う。
ウテナもあんだけ自由なんだから遺産をかなり相続してるな。ラストの感じからマトモな後見人が居そう。弁護士か裕福な親戚?

(※ラスト三話を観てから、第一話から改めて観始めた
少女革命ウテナ、アンシー視点で深読みして観ると、アンシーがウテナに一目惚れして可能な限りの裏工作をしてウテナに執着してる話じゃね?
ウテナがどんどんアンシーに支配されていく。
恐い。なかなかのガクブル展開っ。

アンシーはウテナを徐々に絡め取って心を吸い上げて自分のものにしていく。究極の弱者でいる事で、思い通りに周囲を動かしている感じ。「可哀想だから助けてあげなきゃ=同情」という強力な武器を使って世界を支配している。影の脅迫者だよ。リストカットで搾取するメンヘラ彼女と同じ原理。

アンシーのモチーフはボルジア家のルクレツィアではないかな。ボルジア家、昔の少女漫画界ではとても流行っていたし。ルクレツィアも実兄(チェーザレ)から解放された後は政略に利用されなくなって意外と幸せな晩年を過ごした……と当時のオタク界の流言では言われておりました。

アンシー、堪らんっ。 身震いするほど好きなタイプ。
なんという色気。狂ってる姫っていいね。
アンシーが無意味にビンタされ過ぎてて笑ってしまう。そこもおまえがぶたれるんかいっていう。

樹璃……30歳は過ぎてそうな煩悶の深さ……お手紙の内容が10代じゃない。火曜サスペンスに出てくる感じ(;´∀`)

ウテナ、うっかり観始めてしまったんだけど、観ている最中か、観終わって余韻を味わっている時に、開示請求裁判の最悪の結果とか出たら、もう一生ウテナ観られないと気付いて血の気が引いた。
あまりにもショックな思い出が結びついちゃうと、二度と観られないから、途中だけど、観るのやめよう……と言いつつ、結局、深夜に全話観てしまいました(;^_^A

絶賛視聴中は、こんな感想を抱いていたのですね。
はい、では考察の続きを……

デュエルとは、蟲毒である

さあ、いよいよ、誤変換が活きる時がやってまいりました。
最初は「孤独って打とうとしたのに蟲毒って何だよ」と思いましたが、いえいえ、蟲毒……合ってますね。蟲毒だよ、うん。
デュエリストは一人残らず救われるべき病人なのですが、狭い学園の生徒会という鳥籠=呪いの壺に閉じ込められて、毒虫が相喰むように、薔薇の花嫁とエンゲージするという「唯ひとつの座」を巡って争うよう仕向けられています。まさに蟲毒です。
決闘に勝ち抜き、生き残った一人だけが、薔薇の花嫁と世界を革命する力を得て救われる、そう信じ込まされているのです。
実際は、薔薇の刻印を捨て、デュエリストを辞める事で、狭い学園の生徒会という鳥籠=呪いの壺から解き放たれ、自分自身と向き合い、自分だけの「大人になる道」を見出し救われるのですが……
そもそも、薔薇の花嫁とエンゲージして得られる「世界を革命する力」とは、アンシーの精神世界を革命し、アンシーを救う力なので、自らが救われなければならないデュエリスト達には何ら資するところがありません。
みんな、暁生に良いように騙され、踊らされています。やはり十代、まだまだ子供なのです。
未熟な子供達を呪いの壺に閉じ込めておいて、最大の犠牲者であるアンシーに、暁生は善人面で、
「お前にも早く王子様が見つかるといいね」
と言い放ち、アンシーは意思の無い薔薇の花嫁としての虚無の笑顔で「はい」と屈託なく答えます。
ゾッとしますね……
アンシーをレイプし、完璧な王子ディオスではなくなった暁生は、決闘という蟲毒によって最も優秀な者を選別し、近親相姦レイプ被害者=薔薇の花嫁になったアンシーに、かつての自分の身代わりになる王子をあてがおうとしているのかもしれません。
罪悪感なのか、欠損した世界を補完しようとしているのか……
もしかしたら「自分以上の王子さまは現れない。おまえは救われない。ずっと俺の支配下に居て、ずっと俺の慰み者でいろ」と底意地の悪い嫌味を言っているのかもしれません。
薔薇の花嫁を巡る決闘は、暁生によって仕掛けられた偽りの救済ゲームです。薔薇の花嫁とエンゲージする事によって得られる「世界を革命する力」とは「アンシーの精神世界を革命する力」でしかありません。薔薇の花嫁の力では、アンシーしか救えないのは当然です。誰しも、自分の世界以外は革命する事が出来ないのですから。
自分の世界を革命する力は、自分の中にしか在り得ないのです。

暁生が王子様ごっこをしていた理由は、よく分かりません。
私には、トラウマを持つ未熟な青少年を集めて、自分と同じ苦しみを味わわせようとしていたようにも見えます。結果に結びつかない果ての無い努力は地獄です。世界の果てという空漠とした虚しい名前は、暁生が果ての無い努力地獄を彷徨ううちに、自らが世界の果てに成ってしまった=心が壊れてしまった事の暗喩でしょう。
心が壊れてしまったから、そのトラウマ故に、親にされた事を、自分より年下の生徒会メンバーにしていたのかもしれません。
「虐待の連鎖」という言葉が思い浮かびます。
暁生は、薔薇の花嫁を利用して決闘ゲームという蟲毒を行い、その勝者(結果的にはウテナでした)を利用し、生徒会メンバーにもアンシーにも更なる呪いを掛けようとしていたのでしょう。
みんなを更に傷付け打ちのめし、アンシーを更に絶望させ、誰も自分の手元から離れて行かせないように。
子供が相手である場合のみならず、被保護者や配偶者や恋人や部下や立場が下の友人知人等……自分より弱い者の成長を阻み、自立させない事、それは支配の最も醜悪な形でしょう。
呪詛であり、罪悪です。
人は蟲毒には耐えられません。
だから、ウテナやアンシーだけでなく、生徒会メンバーや、モブの生徒達も、我々も、すべて、卵の殻を破り、呪いの壺から逃れて、幼年期の檻から解き放たれ、自由に、大人になるべきなのです。

薔薇の花嫁は世界を革命しない

狭義の、薔薇の花嫁

薔薇の花嫁とは何か、すでに様々に語ってしまいましたが、改めて、姫宮アンシー唯一人に限定して掘り下げてみようと思います。
薔薇の花嫁とは、近親相姦レイプの被害者である事の暗喩です。
「薔薇の花嫁になった」「魔女になった」それらも、実の兄にレイプされたという事をオブラートに包んで表現している言葉です。
薔薇の花嫁とエンゲージするという事は(全話視聴し終わってしばらく経ち感動の激情から少し離れ、冷静に立ち戻ってから)アンシーのカウンセリング担当になるという事ではないか……と思いました。
「少女革命ウテナ」は救済の物語であるが故に、それぞれの登場人物が拗れたトラウマを抱えていて、思春期の青少年達のカウンセリングルームのようにも思えてしまうのです。
ウテナのテレビ放送当時、部活の先輩が「鳳学園は精神病院だ」との解釈を口にした時、強い不快感と反発を覚えたのですが、時を経て、改めて先輩のその言葉を思い返してみると、不思議としっくりきます。あの頃はまだ精神疾患に偏見があり、精神病院という言葉は差別的な揶揄だと思っていました。しかし、自分が(常軌を逸したキモい粘着ストーカー等のせいで)うつ病を発症し、月に一度メンタルクリニックに通うようになり、他の患者さん達と一緒に過ごす待合室の雰囲気が一人客の多いカフェとさほど変わらない事を知り、「鳳学園の生徒会はカウンセリングルームである」と考える事も悪くないなと思いました。
精神科は人が癒される場所ですから、好い場所なのです。(入院してないので私の感じ方は甘いかもしれません)
そんなこんなで(すいません、ここ細かい論理を詰めるのが面倒で横着してます、見逃してください)薔薇の花嫁とエンゲージして(アンシーのカウンセリングをして or 専門家以外の方はアンシーの悩みを真摯に聞いて)得られる「世界を革命する力」とは、薔薇の花嫁であるアンシーの内的世界を革命する力でしかありません。ウテナが手にした「世界を革命する力」こそ、まさにコレで、長い時間をかけてゆっくりと辛抱強く何度も何度もアンシーに語り掛け、アンシーの本当の気持ちをアンシーに気付かせ、アンシー自身が行動を起こせるようにした力です。ウテナには世界を革命出来なかったと暁生は言っていますが、そうではない事を我々は知っています。
その結果を見たからこそ、我々はもう分かっています。
薔薇の花嫁の持つ世界を革命する力は、あくまでも薔薇の花嫁の世界にだけ干渉し得る力なので、例え、我々が物語の世界に招き入れられ、決闘に勝利し、薔薇の花嫁とエンゲージしても、(薔薇の花嫁との心の触れ合いによって、我々の中の世界を革命する力が呼び覚まされる事は有り得ますが)薔薇の花嫁に付属する世界を革命する力では、我々の内的世界は革命されませんし、もちろん現実世界も革命されません。
薔薇の花嫁は世界を革命してはくれないのです。
あなた自身が、あなた自身の力によって、あなた自身の世界を革命しなければなりません。

魔物に喰われたお姫様

それにしても、アンシーは本当に気の毒ですね。
彼女は自分が虐待されている事に、何時、気付いたのでしょうか?
多くの虐待被害者が「最初はそれが虐待だと分からなかった」と証言しています。加害者を庇う被害者は世に溢れています。
あなたは叩かれていませんか?
「お金を貸して」と言われていませんか?(一緒に暮らす家族が話し合って決めた生活費と小遣い以外で、お金を要求するのは搾取です)
好きな事をするのを、正当な理由も無く、邪魔されたり、バカにされたり、叱られたりしていませんか?(命の危険があるレベルでなければ正当な理由ではありません)
意見を、正当な理由も無く、否定/訂正されたりしていませんか?(法律や学問や、知らなければあなたが恥をかくマナーの話でなければ正当な理由ではありません)
子供の頃の失敗を謝罪させられたりしていませんか?(子供の失敗は謝罪するような事ではありません。「大丈夫?」と大人が気遣ってあげて、次は失敗せずに出来るよう手助けすべき事です)
不機嫌な態度をされたり、無視されたりしていませんか?
意地悪や嫌味を言われたりしていませんか?
嫌なのに触られたりしていませんか?
恋愛で結ばれたパートナー以外に(あるいは正当な報酬を得られる合法のお仕事以外で)性的な行為をされていませんか?
それらの行為を正当化する言い訳を考えてあげていませんか?
何か思い当たることがあれば、あなたは虐待されています。あるいは虐待されていました。専門家に相談してください。
話が虐待の件に逸れてしまいましたので、本筋の考察に戻します。

エピソード36「そして夜の扉が開く」で、アンシーはわざと自分が凌辱されている姿をウテナに見せたのではないかと思います。
ウテナは純粋で善人で物事を見えるようにしか見ません。
だから、見せるしかなかったのでしょう。
そこに至る前、生徒会メンバーとの最後の決闘の最中、冬芽に気を取られたウテナに、アンシーが珍しく自分の意思で呼びかけます。
こっちを見てという意思表示です。
「ウテナ様……ウテナ様」
「姫宮、姫宮っ!」
「ウテナ様っ!」
このシーン、二人はお互いの名前を呼び合い、強くお互いを求めあっています。そして、ここに重なる、決闘直前の遣り取り……このカットバックは素晴らしいですね。
「ねえ、姫宮、信じてよ。君は必ずボクが守ってみせるから」
そう誓うウテナに、アンシーは「本当に?」と尋ねます。
「ボクが信じられない?」
ウテナは自分を信じています。ですが、アンシーは、まだウテナが自分を救ってくれるとは信じられないのです。それが、決闘のさなか、アンシーは能動的にウテナを求めた……つまり、このシーンでのアンシーはウテナに心を開いているのです。
それなのに、ウテナは失敗してしまいます。
生徒会のメンバーだけがアンシーを狙う奴だと信じていて、うっかり、アンシーの本当の悲鳴を聞き取り損ねてしまうのです。
冬芽との決闘が最後の決闘だと思っており、疲れをねぎらうアンシーに、素直に「良かったね、姫宮。もう君を狙う奴は誰もいないよ」と言い、そのままウトウトしてしまいます。しかも最悪な事に、寝言で「暁生さん」と呟いてしまう。(音声を拡大してもよく聞き取れないので、聞き間違いかもしれません。うう、聞き間違いであって欲しい)アンシーを狙う奴は、ラスボスである暁生=コドモオトナの怪物がまだ居るというのに、ウテナは鈍感で気付いていないのです。
もしかしたら、これまで何度も同じような事が繰り返されてきたのかも知れません。アンシーは「今度こそは気付いて貰える、今度こそは救って貰える」と誰かに期待しては失望する事を重ねてきたのでは……
そう言えば七実も、エピソード31 「彼女の悲劇」で、アンシーが性虐待に遭っているシーンを目撃しています。にも拘わらず、七実はアンシーを「気持ち悪い」と責める被害者非難をしてしまいます。「魔女」と罵った人々と同じ過ちを犯しているのです。
冬芽も、エピソード36「そして夜の扉が開く」で、「世界の果てにも、薔薇の花嫁にも、心を許してはいけない」という台詞をウテナに向け、暁生とアンシーの事情を知っている事を匂わせていますね。彼も七実と同じです。
もしかしたらアンシーは、これまでも何人かの人にランダムに(それは信頼の証とは言えません)わざと自分が凌辱される姿を見せてきたかも知れません……「今度こそは助けて」と縋る思いで……
アンシーの期待は、今度も裏切られた事になります。
ウテナもまた、アンシーの真実のSOSに気付かなかったのですから。
アンシーは、もう耐えられなかったのだと思います。ウテナにだけは、アンシーが「この人に真実を知って欲しい」と求めて見せたと思います。ウテナを信頼していたから、ウテナに助けて欲しかったからです。
その為に、見せるしかなかった。
ウテナに自分がされている事、性虐待の実態、ウテナが素敵な大人だと信じている暁生のコドモオトナとしての醜く汚い本性を、そのままに見せる事が、彼女なりの精いっぱいの世界への反逆だったのでしょう。
そして……

「少女革命ウテナ」は、姫宮アンシーの物語

革命されたのは誰だったのか

エピソード37「世界を革命する者」で、お互いの口にする者に毒を入れたと言い合うシーン……観る者すべての心を抉る凄まじい緊張感、緊迫感。ウテナのテレビシリーズ、最終回に向けてどんどん神懸っていきますね。
「ねえ、ウテナ様。カンタレラってご存知ですか?」
「カンタレラ? 何それ?」
「昔、イタリアのボルジア家が使っていた猛毒の名前です」
はい、出ました。1997年の放送当初からアンシーのモデルは「実兄チェーザレ・ボルジアとの近親相姦があったとまことしやかに囁かれるルクレツィア・ボルジア」ではないかと、一部のファンの間で考察されていたのですが、それが37話で製作者サイドからも示されていたのですね。
26年越しにその事を知り感動しました。
「いかがですか、そのクッキー? それ私が焼いたんです(遠回しにカンタレラを入れましたと言っている)」
アンシーの意外なほど攻撃的な言葉に、ウテナは一瞬だけ動きを止めますが、食べかけだったクッキーを平然と咀嚼し飲み込みます。
この瞬間、ウテナはアンシーの毒=真実を受け入れたのでしょう。
「偶然だね。その紅茶も毒入りなんだ(アンシーから遠回しにカンタレラを入れましたと言われた事を理解している)」
これは軽々には解釈しかねる台詞です。ウテナは何を思って、こんな言葉を口にしたのか、本当の意図は私には分かりません。
でも、二人が化けの皮を剥ぎ合う前兆だと思いました。
カウンセラーは患者が遂にトラウマの核をさらけ出す兆候が見えたら、次回のカウンセリングでは患者と一緒に泣く為に(共感による治療)ペットボトルの水を用意しておくそうですが、「それだ」と思ったんです。
アンシーが明確に悪意/害意をウテナに向け、ウテナも同じ方法で悪意/害意をアンシーに返す……
これは、「」です。
アンシーは初めて自分の姿=現実を直視したのではないでしょうか。
紅茶も毒入りだ(明確に悪意/害意を返す)と言われたアンシーは、何事も無かったかのように、薔薇の花嫁の笑顔で紅茶を飲んで見せます。
「そうですか。とっても美味しいですよ、この紅茶」
ウテナは負けずに言い返します。
「このクッキーもね」
なかなかの意地の張り合いです。よほどの鋼メンタルでなければ出来ない芸当です。ただし、本物の鋼メンタルはウテナだけであり、アンシーは豆腐メンタルである事がこの一連の遣り取りで露呈します。
この対決で先に折れたのは、つまり敗北したのは、アンシーでした。
ウテナ、メンタル強過ぎだろ。
「ウテナ様の十年後は?」
「ボクも分かんないな。でも……」
「でも?」
「十年後に、ボク達は、また こうして、一緒にお茶を飲んだり出来れば良いよね」
さすがに声には出しませんでしたが、『おまえ、よくソレ言えんなーっ』と本気でツッコミを入れてしまいました。暁生はウテナに取って初体験の相手で、その暁生と近親相姦関係にあるアンシーに「十年後に再会しよう」と言い放ったのですから。
「十年後も一緒に居よう」と言ったという解釈も可能かと思いますが、「また」という一語がある為に、一度は「こうして」いる状態が解消されてしまう意味を含んでしまいます。聡いアンシーは、その言葉が指し示す意味を即座に理解したのでしょう。
「ええ、本当にそう思います」
アンシーは、この時、本当に心からそう思ったのでしょう。
そして、心の底から打ち砕かれたのだと思います。
十年後に再会しようという事は、一度は別れる/離れるという事です。
「十年後であっても、また会ってくれるなら、それで満足するしかない。もう、この人に助けて貰う事は期待できない」
アンシーは再び心を閉ざしてしまいます。しかし、もう今までとは違うのです。アンシーは助けて貰えると信じる事を知ってしまっているのです。それで突き放されたら、誰だって耐えられません。
だからアンシーは身を投げて、この世界から逃亡を図ろうとしたのです。
それでも、まだウテナに未練が残っている事は、ウテナに発見され手を掴まれてしまった事から伺えます。本当に死にたいだけなら邪魔されずに死ぬ事も出来たはずです。
実は、この期に及んで、遂にアンシーが、剥き出しの心でウテナに甘えているのです。
「逃げるのか!」
「もうダメです。ごめんなさい、もう、いいですから」
「逃げるのか。十年後に笑って一緒にお茶を飲むんじゃなかったのか」
「ごめんなさい、ウテナ様。ごめんなさい」
これは、言って欲しい言葉を相手に言わせる為の受動的攻撃なのですが、ウテナはそれを許しません。エピソード38「世界の果て」で、エピソード37のこの後の遣り取りが明らかにされます。
「私は薔薇の花嫁(近親相姦レイプの被害者)だから、心の無い人形だから(解離によって現実に向き合う事を避けていたから)体はどんなに苛まれても心なんて痛くならないと思っていたのに……」
「ごめんなさい、ウテナ様……私の苦しみは、薔薇の花嫁としての当然の罰です(※アンシーは暁生に罪を着せられ周囲からも罵倒され、自分が暁生を誘惑したと勘違いさせられています)」
「でも、ウテナ様まで苦しめて……」
ここで私は「ああ!」と思いました。アンシーは暁生にウテナを差し出すような真似をしていました。それは、大好きなウテナを自分と同じ立場(性被害に遭い穢される)に落として、同一化を図ろうとしていたのではないかと薄っすら思っていたのです。それが言語化され、納得させられました。
「あなたはただ(私の苦しみに)巻き込まれただけなのに、私はそれを知っていたのに、あなたの無邪気さを利用していた。あなたの優しさに私は付け込んでいた。ごめんなさい、ウテナ様。私は卑怯なんです。狡い女なんです。ずっとあなたを裏切っていました。私は……」
凄い懺悔ですね。ここまで自分をさらけ出して、自分が何をしたのか、その罪を認められる人は多くないでしょう。アンシーは、この時、剥き出しの魂でウテナの裁きを待っています。
ウテナは「違う」と遮ります。ここからはウテナの懺悔です。
「ボクは君の痛みに気付かなかった。君の苦しみに気付かなかった。それなのに、ボクはずっと、君を守る王子様気取りで居たんだ。本当は君を守ってやっているつもりで良い気になっていたんだ。そして、君と暁生さんとの事を知った時には……ボクは、君に裏切られたとさえ思った」
凄い……そこに立ち入り、ハッキリと言及できるとは……ウテナは常軌を逸した胆力の持ち主です。なかなか、相手が言葉に出来ないような事をしている時に、そこに言及するのは難しいものです。それをサラリとやってのけたのですから、ウテナは超人です。
そして、この時こそ、遂にウテナは、アンシーに対して負債を背負ってくれるのです。
「君がこんなに苦しんでいたのに、何でも助け合おうってボクは言ったくせに、卑怯なのはボクだ。狡いのはボクだ。裏切ってたのはボクのほうだ」
アンシーがウテナに対して犯した罪を、卑怯なのも、狡いのも、裏切っていたのも、ぜんぶ、ぜんぶ、背負ってくれました。
この時のアンシーの涙は、ようやく自分の苦しみをありのままに受け入れて貰えた成就と浄めの涙です。ここまでで、もうアンシーは充分に満足しています。だからウテナに告げるのです。
「もういいですから……この学園から離れてください。すべて忘れてください……」
「そんな事……出来るわけないじゃないか」
ウテナはあくまでも戦う事を主張します。潔く格好良く、虐待加害者と真っ向勝負をすると言ったわけです。

翌日……
「ウテナ様、まだ、引き返せますよ」
薔薇の花嫁の顔に戻り(トラウマを乗り越え世界を革命する為に、アンシーは薔薇の花嫁として暁生に対峙しなければなりません。ですから、この時からしばらくの決闘の間、アンシーがバラの花嫁に戻るのは自然な事です)ウテナの真意を測ります。
アンシーは、本当に自分の為にウテナが、初体験の相手で特別な存在である暁生と対決してくれるのか、最後の最後に念を押しているのです。
ウテナは薔薇の刻印を指に嵌めてみせ、短く「行こう」と言い切ります。ウテナに迷いは無いのです。
これで、アンシーも逃げられなくなりました。
でも、虐待加害者との対決は現実でも、とても難しく困難です。
この後も、ウテナと共に暁生と戦う事を決意したはずなのに、アンシーは幾度となく暁生に寝返りウテナを裏切ります。
(これは虐待児を保護する過程で絶対と言っていいほど頻繁に起きる現象です。被害者は加害者による強い洗脳下に置かれているので、加害者との話し合いの場などで、自分を助けようとしてくれる人を、しばしば裏切り、攻撃します。児相の職員の方やボランティアの方などが直面する障壁ではないでしょうか……よくこんなテーマを描き切ったなと信じられない思いです)
それでもウテナは挫けません。あくまでもアンシーを救おうとします。ですが、それはアンシーを自分の支配下に置く事ではないのです。アンシーが自分の意思で、自分の力で、自分の棺から出るまで、卵の殻を破るまで、頑固に諦めないのです。
恐ろしく厳しいメンターです。(※メンターである時点で、ウテナは主人公ではありません)
加害者の支配から抜け出し、虐待から立ち直るには、自分自身が戦わなければならないので、これは決して避けては通れない道です。
もしも、その苦しみをウテナが肩代わりしたならば、アンシーはただ暁生の支配下からウテナの支配下に移っただけで、本当の意味で「自分の世界を革命する事」は出来なかったでしょう。
自分の世界を革命する事は、自分にしか出来ないのです。
薔薇の花嫁はアンシーですから、薔薇の花嫁が持つ力によって革命されたのは、アンシーだけです。

「傾聴」=唯一の癒し

結論に向かう前に、一度、物語の冒頭に戻ってみましょう。
アンシーはいつからウテナを選んでいたのでしょうか?
おそらく、初めて出会ったその日から、です。
凄いですね、一目惚れですよ。
第一話でアンシーはウテナに「頑張ってくださいね」と伝えます。西園寺と決闘する直前、白薔薇をウテナの胸に挿すシーンです。
薔薇の花嫁であるアンシーはエンゲージしている相手の思うがままであるはずで、この時エンゲージしていたのは西園寺ですから、西園寺を差し置いてウテナに「頑張ってくださいね」と言うのはルール違反です。本来であればアンシーは薔薇の花嫁のペルソナから離れる言動はしないはずなのです。それがアンシーを性虐待の恐ろしさから守っている「解離」なのですから。
なのに、この時は、薔薇の花嫁としての言動よりも、ウテナに「頑張って」と言う事を優先してしまった……アンシーは本能で、ウテナこそが自分を解放に導く者だと直感していたのかもしれません。「頑張って」という一言が自然と零れたこのシーンは、ほんの一瞬、アンシーの本音=願望が垣間見えた貴重な瞬間なのです。
ですから、私は「この時からアンシーはウテナを選んでいた」と思っています。一目惚れと言っても過言ではないでしょう?
決闘に勝利したウテナの前に、アンシーは何気ない顔で現れます。
「お待ちしておりました、ウテナ様。今日から私はあなたの花です」
これを、「ウテナ様。今日から私はあなたの担当する患者です」と置き換えても違和感がない、と私は思います。
アンシーが、自分を癒す者として、ウテナを選んだのです。
常日頃は薔薇の花嫁のペルソナを強固に被っているアンシーですが、時折、ぽつりと本音を漏らします。それは普段の取り繕った敬語ではなく、年相応の飾らない言葉です。
エピソード34「薔薇の刻印」のラストで、「貴女の寝顔を見てたの。あなたは……誰……?」などと呟く恐いシーンもありますが……
エピソード11「優雅に冷酷・その花を摘む者」で、若葉と友達になるよう勧めたウテナに対して、アンシーは素朴な口語でぽつりと言います。
「私も(若葉、それともウテナと?)友達になれたらいいな」
「なれる、なれるよ。君から心を開いて話しかければ、きっと誰でも(ウテナ自身も? だとしたら、この時点でウテナは、自分はまだアンシーの友達になれていないと思っているという事です)受け入れてくれるよ」
「心を開く?」
アンシーに取ってソレ=心を開く事は理解できない不可思議な事です。虐待のせいで心が死んでいて、まともな感性が無いのです。
「そうだよ、大丈夫。ボクも手伝ってあげるから」
この遣り取り、まるでカウンセリングのようではありませんか?
物語を通してウテナがした事は、実は、アンシーとなるべく長く一緒に居て、あれこれと語り掛けながら、アンシーの話を辛抱強く聞いてあげただけなのです。でも、コレが物凄く大事なんですよ。
さあ、最後の纏めに入りましょう。

意外かも知れませんが、ウテナは趣味は持っていません。ウテナのプロフィールにある趣味(スポーツならなんでも、バラのティーカップ集め、男装)は、いつでも切り上げられる浅い楽しみです。スポーツ全般を好んではいても特定の部には所属していません。何かを熱心に学んだり、習い事をしたりもしていないようです。
つまり、アンシーの為に使える時間がたっぷりあるという事です。
ガッツリ系の趣味を持っている人は、残念ながら、他人を救う資質に欠けていると自覚してください。それは悪い事ではありません。ただ、現実問題として、向いていないのです。そこを無視して、無軌道かつ無計画に誰かを救おうとすると、どうしても無理が生じて、仕事や生活のみならず趣味でも忙しいのに、不安定な被害者に対応しなければならず(※被害者は24時間常に危険に曝されているので、いつ爆発してもおかしくありませんし、爆発したら即対応が必須です)ストレスが溜まり被害者にきつく当たってしまうという悲劇が起きます。趣味を持っている人は、自分の趣味の世界を大切にしてください。向き不向きの問題で、これが出来ないから人間として劣っているとかは絶対に無いので、しつこく言いますが、趣味を大切にして、メンタルに問題を抱えている人とは一定の距離を取ってください。
それが、結果的に、命を救う事に繋がります。
え~……では、本題に戻ります。

ウテナは、一時期は暁生に心奪われて、デートにかまけてアンシーを放置し孤独にしているように描かれていますが、よく考えてみてください。暁生は一応は社会人です。理事長代理の仕事がありますし、婚約者もいますし、さらには婚約者の母親とまで愛人関係なのです。その他にも、何等かの一般的な業務もあるでしょうし、仕事をする上で必要な様々な人付き合いがあって滅茶苦茶忙しいはずです。
暁生がウテナに割ける時間はたかが知れています。
ウテナと暁生との逢瀬はせいぜい小一時間ほどだと推測します。お泊りデートの回もありましたが、婚約者もいて真っ当な仕事もしている大人が相手では、ああいうのは滅多に出来ない「特別なデート」ですよね。
願望ですが、作中で描かれていた二回きりか、多くても三~四回なのではないでしょうか。むしろ、アンシーが暁生に呼び出されてウテナを待たせている時間のほうが多かったんじゃないかな、と……
作中ではハッキリと描かれていませんでしたが、様々な事情と状況から判断すると、ウテナは朝から晩まで、ずっとアンシーと一緒に居ました。
寮も同室、クラスも同じ、理事長の邸宅に引っ越してからも同室、登下校も、勉強する時も、食事も、ティータイムも、就寝も一緒。風呂とトイレと、ウテナが暁生とデートしている時と、アンシーが暁生に呼び出されていた時以外の時間は、四六時中ずっと一緒だったんじゃないでしょうか。
考えてみると異常な状態です。
そんなに一緒に居るなんて、赤ちゃんと母親しか考えられません。
ところが、コレ人を救う唯一の方法なのです。
ずっと一緒に居て、いつでも傍に居て、いつでも話を聞いてあげる。
24時間待機です。
コレ以外には人を救う方法はありません。
コレは、乳幼児に対して母親のする事です。
そうです。つまり、ウテナは、アンシーを育て直したのです。

偉大な行いです。
あまりにも偉大な行いです。
神の如き慈悲、寛容、施し、癒し、無私にして無欲の愛。
こんな救済が有り得ますでしょうか。

ウテナは完璧無比の王子様に成りました。
王子様は、お姫様を、立派に自立させたのです。

普通の女の子は成長し、自分の意思を持ち、自分の人生を自分で決めるようになります。大人になる彼女たちには、一方的に守ってくれる王子様=最終話までのウテナは要らないのです。
アンシーは精神的に成長する事を許されていません。暁生の性虐待によって魂が凍り、心の時間が止まっています。薔薇の花嫁は王子様に守られる完全なるお姫様ですよね。普通の女の子のように大人になる事が出来ず、自我もありません。無力なお姫様だから、王子様=最終話までのウテナが必要だったのです。
「世界を革命する力なんていらない。姫宮には、ボクが必要なんだ!」
そう言ってくれるウテナだけが、アンシーの世界を、間接的に、革命する者たり得たのです。

あなたが大人であるならば、もうあなたのウテナは現れないかも知れません。ですが、ウテナはあなたの心の中に存在し得ます。あなたが大人であるならば、その力によって、あなたが、あなたのウテナになれるのです。
もしも必要ならば、あなたも、自分の世界を革命しませんか?

「気高き城の薔薇よ、あなたに眠るディオス(奇跡)の力よ、あなたに応えて、今こそ示せ……」
「世界を革命する力を──!」

   END


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