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生きてると傷が増えてくよね

先頃の自粛期間中に良かったことはふたつ、料理を始めたことと、フィルム写真のデータ化に着手したことだと書いたが、もうひとつあった。

それは、気になっていた動画を見れたことだ。

NETFLIX、Amazonプライム・ビデオ、Huluを駆使してかなり見た。

アニメでは「僕のヒーローアカデミア」「炎炎ノ消防隊」「ワンパンマン」「鬼滅の刃」。すべて面白い。定額制動画配信サービスだと一気見できるから尚更。

このような動画配信サービスを利用し出すと益々テレビを見なくなるね。ここでいうテレビとは地上波の番組という意味。動画配信サービスも繋げば普通のテレビでも見れるけど、なんだかリビングなどの家族と共有した空間ではなく、ミニ映画館とでもいうべき、閉ざされた自分の世界でじっくり見たいのか、PCで見ちゃう。

いちばん利用した動画配信サービスはNETFLIX。

印象に残っているのは「全裸監督」。振り切った世界観とクオリティー。評判通りの出来だった。続編が楽しみだ。太陽光を浴びたら死ぬという、ある種奇天烈ともいえる設定のベルギー制作作品「イントゥ・ザ・ナイト」も面白かった。どちらもNETFLIXオリジナル作品。映画を見るようにお金を払って、独自のオリジナル作品を見る。益々この傾向は強まっていくことだろう。

ドキュメンタリー映画もかなり見た。アメリカテキサス州の田舎町にある短大チアチームの活動を追った「チアの女王」、アイルランド出身の格闘家で、UFC史上初の2階級同時王者という偉業を成し遂げたコナー・マクレガー、彼の無名時代から王者を獲得して富と名声を得るまでの軌跡を描いた「ノートリアス」、どちらも最高だった。真実は小説より奇なり。魅力あるキャラクター達の生き様はいつの世もドラマチックでエキサイティングだ。

そして、アメリカの女子柔道史上初のオリンピックメダリスト(北京オリンピック柔道70kg級銅メダル)にして、初代UFC世界女子バンタム級王者ロンダ・ラウジーの物語「父の信じたもの」。彼女の人となりが関係者の証言からよく描かれていて、じわりと響く。

...と、見ていて驚いた。知ってるやつが出てる!俺の肋骨を折ったやつだ。

1998年、一年間のニューヨーク滞在も終わりに近づき、最後にロサンゼルスに行こうと決めた。どうせ行くなら見聞のない南部や西部、ニューオリンズやテキサスを経由して列車で行こうと。

その当時でも、ニューヨークとは違って、カリフォルニアには道場やジムが数多くあった。せっかくだからそういうところに顔を出して写真を撮ろう。練習もできるし一石二鳥だ。

ロサンゼルスはとても大きな街で、ニューヨークのように歩いて散策できる街ではない。車社会アメリカを地でいくようなところだ。宿泊したモーテルに置いてあったイエローページ(電話帳)で格闘技ジムや柔術道場を調べてみると、大概が郊外にあって、車のないビジターが訪れるには不便だった。そんな中ひとつだけ比較的街にあって行けそうな道場があった。それがアルメニア人のサンビスト、ゴーコー・シヴィシアンがやっていたHAYASTAN MMA ACADEMYだった。(アルメニアとは旧ソ連の構成国で、アジアとヨーロッパの間にある国である。)

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ゴーコー・シヴィシアン。30代とは思えぬ貫禄。まるで勝てる気がしなかった。

道場に一番近い安モーテルに宿泊し、そこから歩いて何日か通った。道場周辺はアルメニア人コミュニティともいえるようなところで、案の定、治安は良くなかった。「どこに泊まってるんだ?」と道場生に聞かれ、「この通りをまっすぐ行ったモーテルさ」と答えると、「歩いて帰るのかい!?」と驚かれ、「くれぐれも気をつけて帰れよ」と言われるようなところだった。そもそもロサンゼルスのストリートを歩いてるやつはほとんどいないし、まして観光客が訪れるような場所ではない。

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宿泊したモーテル。40ドルぐらいだった気がする。

通い出して、2日目か3日目に、如何にもな感じのティーンネイジャーの強そうなやつがふたりいた。顔はまだ少年の面影があったが、体はもう立派な大人、いや格闘家だった。

まずは兄貴分の体の小さい方とスパーリング。ちなみに格好はノーギ、英語表記だとNO-GI。“ないー衣”、つまり衣がいらない、衣を着ていないという意味である。衣とは柔道衣などのことを表す。要するに上半身が裸やTシャツ姿などで戦うということである。

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この時代の柔術(寝技)クラスは、ギありとノーギに明確な住み分けはなかった。

マウントを容易に取られて、そこからくるっと背中を向けられたかと思うと、いきなり躊躇なく足首をグキッと捻られた。アンクルホールドだ。いやいや足関節技なんて習ってないよ!柔術始めて数ヶ月の白帯、半分素人みたいなもんなんだからさ、こちとら!

道場というのは、他道場から出稽古が来ると、時に道場破りのような扱いを受ける。道場の門番に、その道場が舐められないようにと厳し目にこられるのだ。

まだ20代と若く金髪だった私はどうやらそんな対象となったようだった。

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さすがロシアの格闘技「サンボ」がベースの道場、足関節技への入りと動きのスムーズさは見事だった。マウントポジションからのアンクルホールドなんて、あの時点の白帯の俺には対処の仕様もなかった。今だったら違うと思うが。

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おそらくマニー・ガンブリャンだと思う。後にプロ格闘家。17歳。若いながらも格闘家然とした良い表情をしている。

次に、大きい方が相手、明らかに私より身長、体重ともにひと回り大きい。やはりあっさりとパスされて、腕ひしぎ十字固めを食らった。格闘技においてもっともポピュラーな関節技のひとつ。取られている右腕を伸ばされないよう、左手でクラッチして防ぐ。左手の指と右手の指を絡めて耐えるということである。20代の頃は力を使う肉体労働をしてお金を稼いでいたこともあり、腕力には少々優れていた。いくら骨太アルメニア人の馬鹿力といえども容易にはクラッチは切らせない。そうしてしばらく耐えていると、体全体の力を使って、もう一段階強烈にクラッチを切りにきた際に、バキッと音がして、右肋骨が折れた。あまりの圧力に私の体が耐えきず予想外の箇所が破壊された形。力と力のぶつかり合いで、逃げ場をなくしたエネルギーが、出口を求めて、本来とは違う出口から放出されてしまったのだろう。意地になって手のクラッチを切らなかったが故に起こった悲劇である。もっとあっさり諦めて早々にタップ(ギブアップ)しておけば良かったよ(笑)

アルメニア人の馬鹿力にクラッチを切らせなかった俺の腕力もなかなかだとは思うが、クラッチを切らずとも、結局相手の肋骨を折ってしまう攻撃力、モンスターである。日本人だとああはいかない。その後、現在まで20数年間、格闘技をやり続けているが、あんなことは後にも先にもあの時一度だけである。

折れた肋骨は変形してくっついたので、歪にとんがったままである。未だに裸になって鏡を見る度に思い出す、忘れることのない傷(記憶)。

アメリカは医療費が高いから、当然医者に行くこともなく、一週間分ぐらいまとめて出稽古料を払ったので、勿体ないからと翌日も痛いながらに練習に行った。

帰国して、別件で病院に行った際、「この尖った肋骨なんとかなりませんかね?前はこんなんじゃなかったんですよ。腹筋運動とかやりづらいんですよねー」と医者に尋ねたら、「あーこれは折れてそのまま放置した結果、変にくっ付いてしまった形だね。どうにもなりませんね」と言われ、やはり折れてたのかと納得し、諦めた話である。まあ少々体幹運動の可動域は狂ってしまったが、日常生活にはとりたてて問題はない。格闘技ってやっぱり体を壊し合う競技なのである。続けていると体はボロボロになっていく。

話が少々長くなったが、その私の肋骨を折ったのが、後にUFC出場、WEC世界ウェルター級王者にまでなった若き日のカロ・パリジャン。その人である。

友人として、ロンダ・ラウジーのドキュメンタリー映画「父の信じたもの」に出演している。良い映画なので、NETFLIXに加入している方はぜひ見てみてください。

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カロ・パリジャン。16歳。この時点ですでにサンボと柔道がベースの強い男だった。

もうすぐ50歳。私は心身ともに傷だらけの男である。老人になった時が怖い(笑)


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