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【実話】ポートアーサー銃乱射事件を扱う映画『ニトラム』が示す、犯罪への傾倒に抗えない人生の不条理

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実際の銃乱射事件の犯人を描く映画『ニトラム/NITRAM』。予測不能な男の衝動と狂気が観る者を支配する

とんでもない世界観だった。「どう展開するのか想像できない」という物語は映画でも小説でもある。しかし『ニトラム/NITRAM』ほど、「いつ何が起こってしまってもおかしくない」という凄まじい不穏さが最初から最後までつきまとう物語はなかなかないだろう。「物語の展開が予想できない作品」とは違い、むしろ「頼むから何も起こらないでくれ」と願ってしまいたくなるような作品なのである。

映画を観る前の時点で、「オーストラリア史上最悪と言われる『ポートアーサー銃乱射事件』の犯人を描く映画」だということは知っていたので、「主人公が最終的に事件を起こす」という結末は分かっていた。しかし、もしその事実を知らずに観たとしたら、この映画が放つ「不穏さ」にどう向き合ったらいいか分からなかっただろう。「最終的に史上最悪の銃乱射事件を起こす」と分かっているからこそまだ許容できたんじゃないかと思う。それぐらい、観ている間のざわざわとした感覚に驚かされた。

作中最も衝撃を受けた「父親を殴り続けるシーン」

まず、映画『ニトラム/NITRAM』が発する「不穏さ」、「『何が起こってしまってもおかしくない』という雰囲気」を最も象徴する場面を紹介したいと思う。

主人公のニトラムは、「父親が会いたがっている」と言う母親に連れられるようにして家まで戻ってくる。父親は体調が悪いのが、ソファで横になっていた。そんな父親に彼は、心配するような気持ちで寄り添う。もちろん、ニトラムが何を考えていたかは分からない。ただ、一般的にその場面は、「体調の悪い父親を心配する息子」という状況に映るはずだ。しばらくの間、そのような穏やかな時間が流れていた。

しかしその後、ニトラムは唐突に父親を殴り始める。「父さん起きて、起きるんだよ」と心配そうな声を口にしながら、とても「叩く」なんて表現では足りないぐらいの強さでボコボコに殴るのだ。父親は耐えかね、「分かった、約束する、起きる、起きると約束するから殴るのを止めてくれ!」と叫ぶが、ニトラムの手は止まらない。父親はそのまま殴られ続けながらどうにか身体を起こし、「ドライブに行こう」とねだるニトラムに「分かった、ドライブに行こう」と返す。そしてその様子を母親は、最初から最後まで何をするでもなくただ眺めているのである。

このシーンはちょっと凄まじかった。物語の中で「狂気」が描かれることはよくあるが、物語である以上、「観客にもある程度理解の及ぶ『狂気』」に調整されていることも多いと思う。しかし『ニトラム/NITRAM』では、そんなことは一切ない。「理解不能な『狂気』」が、これでもかと放出されるのだ。

ニトラムと父親の関係に触れておこう。ニトラムは子どもの頃から問題児だったが、そんな息子を父親は深い愛情で受け止めてきた。ニトラムも、感情や行動を制御できない自分を、母親よりも父親の方が深く愛してくれていると理解しており、母親の言うことは聞かないが、父親の話には耳を傾ける。

観客は、そんな2人の関係を理解しているからこそ、なおさらニトラムが父親を殴り続ける場面に衝撃を受けるのだ。

そして、このシーンで最も驚くべきは、父親にとっても母親にとっても、この状況は「何十年も繰り返されてきた日常の1コマ」に過ぎないという事実である。父親も母親も、実際のところどう感じているのかは分からない。ただ観客からは、「仕方ない」と諦めているように見える。殴られ続けた父親からも、それをただ眺めていた母親からも、「諦念」という感情が滲み出ていた。「こんなことが、これまでどれだけ繰り返されてきたことか」という心の声が聞こえてきそうな程だ。

彼らのそんな「諦念」を目の当たりにしたことで、「3人の間に存在し続けてきた『絶望的な時間』の堆積」が押し寄せてくるようにも感じられた。映画においてはもちろん、ニトラム自身が発する「狂気」が最も異常で恐ろしいものに映るだろう。しかし実際には、「ニトラムの『狂気』が常態化したことで、父親も母親も、もはや心が動かない」という事実にこそ、最大の「恐怖」が隠れているのだと感じさせられた。

社会に順応できない人間を、社会はどう受け入れるべきだろうか

ニトラムに限る話ではないが、彼のような「社会に順応できない人間」の存在を知る度に、「私たちが生きる社会はどんな『正解』を提示できるだろうか」と考えてしまう。

大前提として、「事件を起こしたニトラムが、強制的に社会から退場させられること(逮捕され、刑を受けること)」は当然だ。別にこの点について問題提起しようなどとは思っていない。また当然のことながら、「事件を起こす前のニトラムが、強制的に社会から退場させられること(施設などに隔離されること)」は誤りであるとも考えている。どんな人間であれ、この世に生を享けた以上、生きる権利が守られるべきだからだ。

ただ、ニトラムは明らかに「社会」に馴染めないでいた。別にそのこと自体は決して「悪」ではない。「社会」というのは結局、「多数派のルールを結集させた世界」でしかなく、「多数派のルール」に馴染めない少数派は常に一定数存在するはずだ。私も、ニトラムほどではないが、「社会への馴染めなさ」を感じる人間である。だから、「社会に馴染めないからダメ」とか「社会に馴染めない方が悪い」などと主張するつもりはない。

しかし、善悪の判断はともかくとして、「社会に馴染めない」という事実は実際的な問題を引き起こす。ニトラムは、社会の「規律」とでも言うべきものに従えず、というか恐らくそれを的確に把握することも困難であり、それ故に結果として、「周囲に害を成す言動」を繰り返してしまう。人間が「社会」の中で生きる以上、「最低限のルール」は守らなければならないし、それが守れないのであれば「退場」もやむを得ない。しかし、「そもそも『最低限のルール』を理解できない、努力しても実行できない」みたいな人は必ず出てきてしまう。

このような場合、「法治国家」はどのような「正解」を用意しているのだろうか?

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