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【理解】小野田寛郎を描く映画。「戦争終結という現実を受け入れない(=認知的不協和)」は他人事じゃない:『ONODA 一万夜を越えて』

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「解釈し誤った現実」の中で生き続けることは間違いか?小野田寛郎の人生から「生き方」について考える

初めて「小野田寛郎」という人物について知ったのがいつだったのか覚えてはいない。しかしその存在を知った時からずっと、私は違和感を拭えないでいた。

「そんなことあり得るのか?」と感じてしまうのだ。

私が小野田寛郎について知っていた知識は、非常に初歩的なものだけだ。「戦争が終結したことを信じず、30年近くフィリピンの山中で生活を続け、その後日本へと帰還した」ぐらいのことしか知らない。そして、これらの事実だけから判断し、「本当にそんな人がいるのか?」「そんな生き方あり得るだろうか?」と感じてしまったのだ。

映画を観て、その印象は大分変わった。この映画で描かれる小野田寛郎は、「彼なりの現実を真っ当に生きている人」だったからだ。そして、小野田寛郎があまりに極端なだけで、彼と相似形を成すスタンスで生きている人は、現代日本にもいるだろうと感じた。

そんな風に考えてみると、この作品は単なる戦争映画ではないとも言えるだろう。

小野田寛郎は、どんな風に現実を解釈し、どんな世界観の中で生き続けたのか

私たちは、同じものを見て同じものを食べて同じように生きているように感じていても、まったく違う世界を生きている。分かりやすいように極端な例を挙げよう。「ジハード」と称して自爆テロを行うイスラム過激派は、「死ねば天国に行ける」という世界観の中で生きているそうだ。つまり、「戦闘によってこの世の自分は命を落とすが、死後は天国で素晴らしい生活を送ることができる」と信じているのである。あるいは、トランプ元大統領を支持する「Qアノン」と呼ばれる人たちは、「世界は秘密結社が支配しており、ドナルド・トランプはその組織と密かに戦っている人物だ」と信じているらしい。

別に悪い例ばかりではない。例えばライト兄弟は、「空を飛ぶなんて不可能」だと思われていた時代に、「自分たちは空を飛べる」と信じて偉業を成し遂げた。彼らも、「同じ世界にいながら、まったく違う現実を生きていた」と言っていいだろう。

もっと身近な例で言えば、「今日のラッキーカラーは『赤』だって占いで言っていたから赤い靴で出かけよう」なんて行動も、他人とは異なる世界で生きていることの実例だと思う。少なくとも私は、「占いになんと言われようが自分の人生には何の影響もない」と考えるが、「占いに従うことで自分の人生は上手くいく」と信じたい人もいる。そういう人もやはり、まったく違う現実を生きていると言っていいだろう。

「どんな現実を生きようが、他人に大きな迷惑を掛けなければ問題はない」と私は考えている。自爆テロやQアノンは他人に多大な迷惑を及ぼすから、彼らのような「現実の解釈」は許容できないが、ライト兄弟や占いを信じる人は、迷惑を掛けるとしても大したレベルではないから問題はない。

こんな風に私は、社会に生きるすべての人が「異なる現実」を生きていると考えている。

では、小野田寛郎はどんな現実を生きていたのか? そのことを分かりやすく示す場面を紹介しよう。

小野田寛郎は潜伏中、「父親と思しき人物」が拡声器を持ち、自分に対して呼びかけを行っている姿を山の上から目撃する。父親には彼の姿は見えていない。「この辺りにいるはずだ」という情報を基に、当てずっぽうで声を掛けているのだ。この場面の時点で、既に終戦から10年が経過している。父親の口から「戦争は終わった」と伝えることで日本へ連れ戻そうという作戦だ。

しかしこの場面で小野田寛郎はなんと、父親に向けて銃を構える。私は知らなかったのだが、そもそも小野田寛郎はたった1人でフィリピンの山中にいたのではなく、当初は4人で行動していた。そして、父親に銃を向けた場面では、仲間に取り押さえられ事なきを得る。

その後小野田寛郎は、先程の状況をどう解釈したのかを仲間に語っていた。なんと彼は、拡声器を持っていたのは父親ではなく、「父親に似た人物を探し、声帯模写の訓練をさせた」と受け取っていたのだ。そしてそう判断したことで彼は、「やはり戦争は続いている」と結論付けた。声帯模写の訓練には時間が掛かるからだ。相手は、そんな手間を掛けてまで自分を投降させることに価値を見出している。つまりそれは、この島が今後の戦略上非常に重要であることを示唆しているのではないか。

小野田寛郎はこのように考えるのである。

私はこの場面を観て、「なるほど」と感じた。確かに実際には、彼の解釈はまったくの間違いだった。しかし、彼は彼なりに”正しく”物事を判断しようとしている。自分がもしも小野田寛郎の立場にいたとしたら、同じ思考をしないとは断言できない。私の場合は、仮にそう考えたとしても、ジャングルでの生活が辛すぎて諦めてしまうと思うが、小野田寛郎には強靭な精神力があった。自分が「現実」だと信じる世界で生きるための能力が備わってしまっていたのだ。

だから彼は30年間もフィリピンの密林で生活し続けることができたのである。

「結果的に『多くの人が信じる現実』とあまりに乖離していた」というだけで、小野田寛郎の生き方は、結局のところ「占いを信じる人」と大差ないと言っていいだろう。もちろん、私も何らかの形で他人と違う現実を生きているだろうし、だから私自身も小野田寛郎と同じだと考えている。ちょっと極端だったというだけで、みんな同じベクトルの上に乗っているというわけだ。

映画を観てそう実感できたことが、一番の収穫だったと思う。

「その現実は間違っている」と指摘することに意味はあるか?

結果として小野田寛郎は、大勢が「現実」だと認める世界に戻ってきた。しかしそのことは、果たして小野田寛郎にとって幸せな決断だったのだろうか。

その話を深めていく前に、まず書いておくべきことがある。小野田寛郎がフィリピンの山中に潜み続けていたせいで、その周辺住民が多大な迷惑を被っていたという事実についてだ。小野田寛郎が誤った現実認識をしていたことにより悪影響が及ぼされていたのだから、その観点からは明らかに、「君が生きる現実は間違いだ」と認識させなければならないと言える。それは仕方ないことだ。

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