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【諦め】母親の存在にモヤモヤを抱えた人生から、「生きてさえいればいい」への違和感を考える:『晴天の迷いクジラ』(窪美澄)

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生きることのしんどさ

哺乳類なのに海で泳ぐクジラ

窪美澄の作品を読むと、溺れないように必死だった頃の自分を思い出します。

子どもの頃、割と不思議でした。あれ? クラスメートたちは、私が今こうやって感じている「息苦しさ」みたいなものに気づいていないんだろうか、と。これって、自分だけなんだろうか、と。

もちろん、外からそう見えなかったというだけで、当時私の周りにも、苦しかった人はいたでしょう。私にしたって恐らく、外から見ていれば、普通に楽しそうに生きているように見えたはずです。

ただ当時は、自分だけが大変なように感じられていました。

大人になって当時のことを思い出すと、自分だけ、哺乳類なのに海で生活しているクジラのようなものだったかもしれない、と感じます。

私も海の中にいて、他の魚と一緒に泳いでいる。でもなぜか自分だけ、時々息苦しくなって、海面に顔を出さなければいけない。そうしなければ生きていけない。

そんな風に考えると、イメージとして凄くしっくりくるなぁ、と思います。

大人になった今でも、自分がクジラであることには変わりません。ただ、「私は哺乳類だから、呼吸のために水面に顔を出さなければならない」と理解できていることは大きいなと感じます。子どもの頃は、その理由が分からなかったのでキツかったですが、今は、少なくとも理由だけは分かるので、その分楽になっていると思います。

家族に対するしんどさ

子どもの頃、「家族ってしんどい」とずっと感じていました。ただ、大人になって、少し考え方が変わります。息苦しさの理由が分からなかったから、その原因を、自分のすぐ近くにいる「家族」のせいにしていたのだろうと考えるようになりました。

「家族」のせいで自分はこんなにも苦しいんだ、と思い込むことによって、自分の生きづらさの本質的な部分に目を向けないようにしていたんだろうな、と。

大学進学と同時に、物理的に家族と距離が離れたことによって、「家族と離れたって結局しんどい」「物理的に距離が離れれば、家族に対する感覚は緩む」と理解しました。そこから少しずつ時間を掛けて、「これは自分の問題なんだなぁ」と考えるようになっていった、というわけです。

今ではなるべく、「家族との葛藤を抱えていた」という形で過去の自分を捉えないようにしています。

だから、この作品の登場人物たちに「共感する」と書いてしまうと、ちょっと嘘になるのかもしれません。私は、彼らほどしんどい「家族関係」の中にはいなかったからです。

「母親」という厄介な存在

本書の主人公である由人・野乃花・正子の3人はみな、特に「母親」との関係に難しさを抱えています。

由人は、母親にあまりかまってもらえない子どもでした。母親の愛情はまず兄に強く向かいます。その後、愛情を注ぐ対象はコロコロと変わるのですが、結局それが由人に向くことはありません。この事実は、由人の人生に大きな影響を与えました。

野乃花は、自分が母親になることで、母親という存在の困難さを否が応でも自覚することになります。子どもを産むなんて想像もしていなかったタイミングで子どもを授かりますが、野乃花はとても孤独な環境での子育てを強いられることになります。周りにどれだけ人がいても、野乃花の助けにはなってくれません。自分という存在と、母親という役割の間で、野乃花は大きな困難に直面します。

正子にとって母親というのは、立ちはだかる大きな壁でした。最初からそう理解できていたわけではありませんが、次第に、正子が「向こう側」に行くことを大きく阻む壁だと感じるようになります。その圧迫感に気づいてしまえば、母親を飛び越してその反対側になど行き着けないように思えるのです。正子にとって母親は、ありとあらゆることを諦めさせる負の装置として働きました。

私は男なので、生物学的にどうやっても「母親」にはなれませんし、「母親」側からの難しさを実感することもできません。その上で敢えて書きますが、「ハズレの母親」に当たってしまうと子どもは本当に辛いだろうな、と感じます。

もちろんそれは父親も同じなのですが、母親と父親というのはやはり違うと感じます。父親も育児をする時代になっているとはいえ、まだ日本の社会においては、「子育てにおいて父親は”存在ゼロ”になりうる」でしょう。男が「父親」として機能しなくても、子育てにおいては致命傷にはならないのではないか、という意味です。

しかし母親の場合は違うと感じます。女性が「母親」として機能しないと、子育てに大きな支障をきたすでしょう。そして「母親」というのはそういう存在だからこそ”存在ゼロ”にはなれず、結果的にその針はプラスかマイナスのどちらかに大きく振れることになる、と私は考えています。

だから、「ハズレの母親」だとかなりしんどい、というのが私の結論です。

人生に「可塑性」はあるのか?

この作品を読んで、人生の「可塑性」について考えてしまいました。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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