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【限界】「科学とは何か?」を知るためのおすすめ本。科学が苦手な人こそ読んでほしい易しい1冊:『哲学的な何か、あと科学とか』(飲茶)

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「科学とはどんな営みなのか?」という壮大なテーマを含んだ、初心者でも楽しめる理系本

本書のテーマと、「科学」への印象について

本書の著者である飲茶氏は、科学・数学・哲学について非常に分かりやすく説明してくれる作家として非常に高く評価されている。

普通に接したら難解でしかないジャンルに関する本で、その分野に関する知識をまったく持たない読者さえ知的に興奮させてくれる、非常に信頼している作家である。

本書は、「科学の奇妙な話」を詰め込んだような作品であり、主に扱われるのは「量子力学」と呼ばれる分野だ。このブログ「ルシルナ」でも、量子力学に関する記事は多数扱っているので読んでみてほしい。

さてしかしこの記事では、量子力学的な内容についてはほとんど触れない。本書で扱われる量子力学の話は、まったくの初心者には初めて聞くような驚きの話が満載だろうが、ある程度理系の本を読んでいる人間ならまず知っているだろう知識だからだ。私も、本書に載っている知識そのものは、本書読了以前にほとんど知っていた。それらに興味がある人は、上のタグから記事を探して読んでみてほしい。

しかしだからと言って本書がつまらないわけでは決してない。「科学の奇妙な話」を雑学本のように羅列するだけの本ではなく、「科学とはどんな営みなのか?」という壮大なテーマを組み込んでいる作品なのだ。

などなど、哲学的な視点で「科学的な正しさ」を問いかけていくと、実はそれがかなり危ういものだと気づかされるだろう。いままで確かだと思っていた景色がガラガラと崩れる瞬間は、怖いけども、ちょっぴり楽しかったりもする。

私は元々理系の人間で、特に物理系の話が好きだ。科学全般に対して関心を持っていて、もちろん科学を信頼している。科学者がどれだけ厳しい条件をクリアして「正しい」という主張をするのか、あるいは、科学では到達できない限界がどこにあるのかなど、「科学」というものの本質をそれなりに理解しながら「科学を信頼することがベストだ」という風に考えている。

しかし普通はなかなか「科学」について考える機会はないだろう。

例えば、「科学的に実証されたダイエット法」などという謳い文句を目にしたことはあると思う。では、これがどういう意味なのか考えたことがあるだろうか?

もちろん、「二重盲検法という評価法を使い、本当に科学的に『正しい』と主張できる形で実証された」という可能性もあるが、広告などで使われている「科学的」という言葉は、大体そういう意味ではないはずだ。恐らく、「ある医者(多数の医者ではない)がそう言っている」「そのように主張する論文が少数ある(多数ではない)」という状況であっても、「科学的に実証」という言葉を使っているのが現状だと思う。

科学について詳しくない人からすれば、「医者が言ってるなら、少しでも論文が存在するなら、それは正しいんじゃないの?」と感じるかもしれないが、そんなわけがない。これは「科学」という学問を捉え間違っていると言える。

ただ、このような種類の「誤解」であれば、理系と非理系の間のミスコミュニケーションとして理解すればいい。教育やコミュニケーションによって解消できる問題だと私は考えている。

しかし、本書で取り上げられる問題は、そのようなレベルのものではない。本書では、「科学というのは、本質的には『現実』を捉えることはできない」ということが明らかにされる。そして、そのような「限界」を理解した上で科学と接しなければならない、と示唆するのだ。

本書の指摘は、理系の人間でもあまり考えたことがないようなものではないかと思う。私も本書で初めて知った。

「科学というのは本質的にどんな営みなのか?」という、日常的になかなか考えることはないが、日常生活においても決して無視はできない事柄について、是非本書で触れてほしいと思う。

科学には「限界」がある

「科学」にあまり詳しくない人は、こんな風に考えることが多いのではないかと思う。

「科学」というブラックボックスの中に何か「問い」を入れれば、「白か黒か」を判定してくれる

「科学」が何なのかはよく知らないが(=ブラックボックス)、何か分からないことがあった時に「科学」に問いかければ明確な答えが返ってくるはず、みたいに捉えているのではないかというのが私の感触だ。

しかし「科学」というのは決してそういうものではない。

例えばニュースで「何かの安全性」が取り上げられることがある。「築地市場の移転問題」や「コロナウイルスのワクチン」など、「科学的に安全性が評価されるべき対象」は常に何かしら出てくるものだ。

そういう際に、記者などが科学者や医師に対して、「◯◯は100%安全ですか?」というような質問をする。まさにこれは、「科学というブラックボックスに問いかければ明確な答えが返ってくる」と期待していることを示しているだろう。

しかし科学者も医師も、この問いには答えられない。科学に「100%」は存在しないからだ。後で詳しく説明するが、「間違っている可能性を含むもの」でなければ「科学」とは呼べないのである。つまり、「科学」で扱うことができるすべてのものは「100%」に到達することはない。

そういう意味で、「◯◯は100%安全ですか?」という問いは、問いそのものが間違っているのである。

科学にはこのような「限界」もある。これは、理系の人間なら概ね理解している事柄だろう。だから「科学的な知識」について「絶対に間違いない」みたいな言い方をしている人がいたら、ニセモノだと判断するといいだろう。

さて、前置きが長くなったが、それではここからきちんと、本書で扱われる「科学の限界」について触れることにする。

まずは著者の結論を抜き出しておこう。

だから……。
この世界は、ホントウはどうなっているの!? 世界は、いったい、どのような仕組みで成り立っているの?
という、古くから科学が追い求めてきた「世界のホントウの姿を解き明かす」という探求の旅は、科学史のうえでは、すでに終わっているのである。
科学は、世界について、ホントウのことを知ることはできない。
「ホントウのことがわからない」のだから、科学は、「より便利なものを」という基準で理論を選ぶしかないのだ

非理系の人間だけではなく理系の人間も、「科学は『世界がどうなっているのか』を解き明かす学問」だと考えているだろう。しかし著者は、「科学におけるそのような役割は既に終わった」と書いている。そして、「『正しい科学理論』とは『便利な科学理論』だ」と主張しているのである。

なかなか驚きの結論ではないだろうか。

著者がこのような結論を導くにあたって取り上げているのが、量子力学の世界で衝撃の実験として知られている「二重スリット実験」である。

「二重スリット実験」については図を使わずに説明するのが難しいので、詳しく知りたいという方は以下のリンク先に飛んでほしい。

ここではざっくりと説明していこう。

この実験は、ヤングという科学者が最初に行ったため、「ヤングの二重スリット実験」と呼ばれることも多い。18世紀後半に活躍した人物だが、彼がこの実験を行ったのにはある背景があった。

それは、「光は波なのか粒子なのか論争」である。

偉大な科学者として知られるニュートンは「粒子派」だったのだが、ヤングが行った「二重スリット実験」によって、「光は波である」と確定してしまう。これでこの論争に終止符が打たれた……

とは決してならなかった。何故ならその後、ヤングが行った実験を改良した新たな「二重スリット実験」によって、「光は粒子である」ことが判明したからだ。

一体どうなっているのだろうか? 

ヤングが行った実験では「光は波」であり、その後の改良実験では「光は粒子」だという。科学者は大いに混乱した。というのも科学の常識では、「波でもあり、かつ粒子でもある状態」など理解不能だからだ。

しかし実験結果は明らかに、「光は波でもあり、かつ粒子でもある」ことを示している。

現在の科学ではとりあえず、「光はある時は波であり、ある時は粒子である」という性質を持つのだと理解されている。これは「光の二重性」と呼ばれており、さらにこの「波と粒子の二重性」は決して光だけの話はなく、原子など極小の物質すべてに当てはまることが分かってきたのだ。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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