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なんでこんなに文章書けないんだろう?:「書きたいのに書けない!」を克服するための「後で直せばいいや」的文章術

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はじめに

ブログ「ルシルナ」を運営している犀川後藤です。本書では、「文章を書くこと」も深掘りしつつ、「文章が書けない本質的な理由」と「書けるようになるためのアドバイス」について触れていきます。

先に本書の結論に触れておきましょう。それは「『文章を書く』のに必要なのは、『書く力』ではなく『読む力』である」です。「読む力」が必要な理由についてはこれから詳しく触れていきますが、まずは、「『書く力』が無いから文章が書けない」という思い込みを払拭しておきましょう。

まず、「書くべきことが思いつかない」という場合、それは「インプット」や「思考力」の問題です。凄腕のシェフでも、冷蔵庫が空っぽだったら料理が出来なくて当然でしょう。同じように、「頭の中に『書くための素材』が何も無い」のであれば、文章が書けるはずもありません。

また、「頭の中に『素材』はあるが、取り出せない」ということなら、それは「言語化力」の問題でしょう。「頭の中にある『書きたいこと』を言葉に落とし込めない」のが問題の本質というわけです。

では、「言語化はできるが、それでも文章が書けない」としたら、それは一体どういう状況でしょうか? この場合私は、「一発で『上手い文章』を書こうとしている」みたいな可能性しか思い付けません。しかし、「試験」など特殊な状況を除けば、書き終えた後で「文章を直す時間」を確保できると思います。つまり、「まず頭の中から、ほぼ『素材』のままの文章を取り出す。そして後でそれを『上手い文章』に直す」というステップを踏めばいいのです。この場合、より重要なのは「推敲力」だと理解してもらえると思います。

もちろん、「『思考力』『言語化力』『推敲力』を総合して『書く力』なんじゃないのか」と感じる人もいるでしょう。ただ、「文章を書くこと」をこのように分解して考えてみることで、「『書く』という行為そのもの」の重要度が思いのほか低いことが理解してもらえるのではないかと思います。

さらに本書では、「思考力」「言語化力」「推敲力」を伸ばすために「読む力」が欠かせないと主張していくつもりです。今は何を言っているのかよく分からないかもしれませんが、本書を読めばきっと納得してもらえるでしょう。

さて、もう1つ先に書いておくべきことがあります。それは、「本書では『書きたいのに書けない!』の克服を目指す」ということです。

仕事など様々な場面において、「書きたくはないが書かなければならない」という状況は多々あると思います。例えば、報告書・企画書・メールなどがそれに当たるでしょうか。本書では、そのようないわゆる「ビジネス文書」は、あまり対象とは考えていません。もちろん、本書で触れている「直し方」の話は、どんな文章を書く際にも有効だと思いますが、それ以外の話はあまり参考にならないでしょう。

本書ではむしろ、「書きたいのに上手く書けない」をどう克服するかに焦点を当てています。「美味しいものを食べた感動を伝えたい」「新たな知識を得たので誰かと共有したい」「周囲に賛同してくれる人がいないこの感覚の理解者がほしい」など、「文章を書く動機」は様々に想定できますが、いずれにしても今挙げたものはどれも「書き手が『書きたい』と思っている」と言っていいでしょう。そして、「そのような文章をどう書くか」が本書の中心にある問いだというわけです。

だから本書では、【考える】という章も用意しました。「頭の中にあるものを取り出す」ためには、当たり前ですが、頭の中に取り出すべき「何か」がなければなりません。当然、その「何か」は「思考」によって生み出すしかないわけです。

「書きたくはないが書かなければならない」のであれば、小手先のテクニックをインストールして体裁を整えるのもアリだと思います。しかし「書きたいのに書けない」のなら、そんな小手先のテクニックに頼っても意味はないでしょう。やはり、「『文章を書く』とはどういうことなのか?」という本質を理解した上で、少しずつ努力を重ねていくことが必要になります。本書では、私なりにその道筋を示したつもりです。

そのため本書では、後半に行けば行くほど「抽象的な話」が増えていきます。「文章の直し方」については「具体例」をかなり盛り込みましたが、全体的には「具体的な話」は少ないと言えるでしょう。そのような内容だと理解した上で読んでみて下さい。

本書では、よくある「文章術」の本とは異なり、「直す」「読む」「書く」「考える」の順に話を進めていきます。「直す」の話から始めるのは、「書いた文章を直すこと」が最も重要だと考えているからです。なのでまず、「何故『直す力』が最も重要なのか」についての話から始めていきたいと思います。

第1章 「直す力」が何よりも重要

一般的な「文章術」の本が”不十分”である理由

「文章術について書かれた本」は世の中に色々あるでしょうが、それらは概ね、「執筆(推敲)の際には、このような点に注意しましょう」という「チェック項目」みたいなものが羅列され、それらについて個別に説明がなされるような構成が多いと思います。「一文を短くする」「同じ文末が連続しないようにする」「不要な接続詞は削る」みたいな細かな項目がいくつも紹介されるという内容です。

もちろん、そのような本に書かれている内容はどれも、「なるほど確かにその通りだ」と感じるものだし、知識として知っておいて損はないと思います。しかし、「そういう知識を頭に入れれば文章が書ける(直せる)ようになるのか」と言えば、そんなことはないはずです。

その理由を説明するために、少し変な話にお付き合いいただければと思います。まず、今から2つの文字列を提示しますので、それぞれ”声に出して”読んでみて下さい。

1.寿司
2.田中寿司

声に出して読んでいただけたでしょうか? そして、何を言いたいのかなんとなく想像が付いたでしょうか? 全然分からないという方は、もう1度だけ声に出して読んでみて下さい。

さて、本書を読んでくれている「日本語ネイティブ」の方は恐らく、「寿司」を「すし」と、そして「田中寿司」のことを「たなかずし」と読んだはずです。「田中寿司」を「たなかすし」と濁らずに読んだ人はたぶんいないでしょう。

では質問です。何故「寿司」の場合は濁らないのに、「田中寿司」になると「ずし」と発音が濁るのでしょうか? 先に書いておきますが、私はその答えを知りません。外国人に日本語を教える教師でもない限り、恐らく「日本語ネイティブ」のほとんどが、この理由を説明できないはずです。

これはつまり、「理屈やルールが分からなくても、『間違いなくこれが正解』だと断言できる」ことを意味するでしょう。

私たち「日本語ネイティブ」は、濁らない「たなかすし」を”発音しにくい”と感じるはずです。だから自然と「たなかずし」と濁ることになります。しかし、「発音しにくい」という理由は、外国人には伝わりません。だから、外国人にも理解してもらえるように文法上のルールが存在するのだと思います。ただ、私たち「日本語ネイティブ」はもちろん、そんなルールを知らなくても「たなかずし」と発音するというわけです。

では、「文章術」についても同じように考えてみましょう。

「文章術の本」にはたくさんのルールが載っています。しかし先程と同じように考えれば、本来は「読みにくい」という感覚の方が先にあるはずです。そして、「何故『読みにくい』と感じるのか」を言語化したものが「『文章術の本』に書かれたリスト」だと考えるのが自然でしょう。

だとすれば、細々したルールを覚えなくても、私たちは「読みにくい」という感覚を起点に文章を書いたり直したり出来るはずです。そしてどう考えてもその方が効率がいいと私は思います。「『田中寿司』が『たなかずし』と濁るのは○○というルールがあるから」なんてことを常に意識しながら正しく発音するのはまず無理でしょう。同じように、「読みやすい文章には△△のようなルールがある」みたいな情報をどれだけ頭に入れたところで、文章を読みやすく書いたり直したりするのは難しいだろうと思います。

大事なことは、「読みやすい/読みにくい」という感覚を自分の中にインストールすることです。そしてその場合、「『読む力』が重要になる」と理解してもらえると思います。このような理由から私は、「一般的な『文章術の本』は、実用的な意味ではあまり役に立たない」と考えているのです。本書ではとにかく、「何よりも『読む力』が重要だ」という主張を押し出していこうと思います。

もう1つ、心理学の世界で非常に有名な「ブーバキキ効果」についても触れておきましょう。

被験者に、

A:トゲトゲした図形
B:丸みを帯びた図形

の2つを見せ、「どちらが『ブーバ』でどちらが『キキ』でしょう?」と質問する実験が、様々な国で行われています。そしてその結果、使用する言語に依らず、「Aを『キキ』、Bを『ブーバ』と答える人がほとんど」になるのだそうです。ネットで調べれば、実際に実験で使われた図形が出てくるので見てみて下さい。確かに私たち「日本語ネイティブ」も、「トゲトゲした方」が「キキ」で、「丸みを帯びた方」が「ブーバ」に感じられるはずです。ただし、使用している言語に依らず結果が一致する理由については、はっきりとしたことは分かっていません。

このように、「理屈やルールが分からないのに、『間違いなくこれが正解』と断言できること」は結構あるわけです。

もちろんそれらについて、知的好奇心から「理屈やルールを探りたい」と考えることは大事だと思います。しかし、実際には多くの人が、「理屈やルールが分からなくても、正解が分かるならそれでいい」と感じるはずです。「文章を書くこと(直すこと)」も、基本的にはそのような領域に属するでしょう。個別の理屈を知ることはもちろん無駄にはなりません。しかしやはり、「読みやすい/読みにくい」という感覚に従う方が圧倒的に早いし楽なはずです。

もちろん、「読む力」を身に付けるのは簡単なことではないし、それを「回りくどい」と感じる人もいると思います。しかし、仕事であればもちろん効率を求める必要もあるでしょうが、「書きたい!」という気持ちをどうにかしたいなら、時間が掛かるとしても、より本質的で確実な方法を選ぶべきでしょう。さらに本書では、「『読む』ことで『思考力』や『言語化力』を伸ばせる」という話にも触れます。本書を通して、「『読むこと』の重要性」を理解していただけたら幸いです。

「書いていて気持ちいい文章」と「読んで気持ちいい文章」は違う

「文章を書くこと」について、私が昔から感じていたことがあります。それは、「『書いていて気持ちいい文章』と『読んでいて気持ちいい文章』は違う」ということです。何故そんなことになるのでしょうか? その理由は、「文章を書くのは『自分』で、文章を読むのは『他人』だから」です。この辺りの話をしていきたいと思います。

「書きたいことがある」場合、「文章を書く」というのは基本的に、「頭の中から『思考』を取り出しながらまとめること」です。もちろん、先に「思考」を取り出して「設計図」を作っておくことは可能だし、そのような話にも後で触れます。ただやはり、「設計図」の時点ですべて出し切るのは難しいでしょう。だからこそ、「書きたいこと」を取り出すために、書いている間もずっと頭はフル回転しているというわけです。

この場合、「書いている時に、『他人がこれをどう読むか』という視点を持つこと」はとても難しくなります。考えながら文章を出力している真っ最中なわけで、「書きながら、その文章を『他人』目線で捉える」のは簡単なことではありません。

そんなわけで私は、「書きたいことがある」場合には、「『書いていて気持ちいい文章』を書き、『読んでいて気持ちいい文章』に直すのがいい」と考えているのです。

こう説明されると、「『文章を書く』上で一番大事なのは『書く力』ではない」という私の主張がより理解しやすくもなるのではないかと思います。というのも、「書く時は『書いていて気持ちいい文章』で十分」と考えれば、文章を書くハードルはグッと下がるはずだからです。とにかく、「後で直せばいいんだから、まずは書きたいように書く」というスタンスを持つことが、「書けない!」を脱却する第一歩だと私は考えています。

「文章を直すこと」の難しさ

さて、ここまでの話を踏まえると、「『文章を直すこと』の難しさ」を捉えやすくなるだろうと思います。その難しさは、「『自分』が書いた文章を『他人』が直さなければならない」と要約できるでしょう。もちろん、実際に文章を直すのは自分以外にいません。つまり、「文章を直す時には、『書いた時とは違う自分(=他人)』になる必要がある」というわけです。

ここには、複数の「難しさ」が含まれているので紐解いていきたいと思います。

まず書いておきたいのは、「文章を直す時には『他人』になる必要がある」という私の主張を理解できない人もきっといるだろうということです。

私は以前書店で働いており、15年近くに及ぶ書店員人生において、お客さんを含めた様々な人と関わる機会がありました。そしてその中で強く感じたことは、「『自分の頭の中にあること』がそのまま他人に伝わると思っている人」が結構いるということです。もう少し分かりやすく、「『相手がどう受け取るか』という観点が欠落している人」と言ってもいいでしょう。

文章に限らずあらゆる「伝達」に関わる話ですが、私は常に「『自分がどう伝えたか』ではなく、『相手がどう受け取ったか』で判断されるべき」だと考えています。誰かに何かを伝えたいのであれば、その相手に届くように工夫しなければならないのは当然のことです。しかし世の中には、「俺はこう言った」「私はこういうつもりで伝えた」など、「自分がどう伝えたか」ばかり訴える人が結構います。

そのようなタイプの人は、文章だけではなく、すべての「伝達」に向いていないと言わざるを得ないでしょう。「『自分がどう伝えたか』ではなく、『相手がどう受け取ったか』が重要だ」という主張を理解できないのであれば、「伝達」全般を諦めていただく他ないというのが私の基本的なスタンスです。

さて、その重要性を理解できている人でも、「直す時に『他人になる』のは難しいはずだ」と想像してもらえると思います。文章を書いたり直したりすることの難しさは、この点に集約されると言ってもいいと私は考えているのです。その難しさを分かりやすく伝えると、「自分で仕掛けたドッキリを、『知らないフリ』して自分が掛かる」と言えるでしょう。どちらも同じ人の行為なのに、後で「他人」として振る舞わなければならないという意味で、このドッキリの例は、「文章を書いたり直したりすることの難しさ」を端的に表すものだと言っていいかもしれません。

文章を書いているのは「自分」なので、「自分」のまま文章を読み返すと、どれだけ「欠落」があっても脳内で補完できてしまいます。例えば私が、「A君が飼っている犬のことがとても好き」だとしましょう。そして、「好きで好きで仕方ないので、A君の家の前を通るとつい長居してしまう」ことに悩んでいるとします。では、「犬がいるからA君の家の前を通りたくないなぁ」とツイッターに書いたら、フォロワーからどう受け取られるでしょうか? 「A君の飼い犬が好き」という情報を知らない人が読めば、間違いなく「犬が嫌いなんだな」と判断するはずです。しかし私は当然、「自分がA君の飼い犬が好き」という事実を知っているので、「(好きすぎて)家の前を通りたくない」という風に補って読めてしまいます。

私が今提示したのは「とても分かりやすい例」なので、実際にはこれほど極端な誤解を招く文章を書くようなことはないでしょう。ただ私は、これまでたくさん文章を書き続けてきた経験から、「文章を書いている時には、『自分にとって当然のこと』は抜け落ちてしまう」と理解しています。さらに、そんな文章を「自分」のまま読み返したら、「欠落部分」を脳内で補えてしまうわけです。しかしそれだと結局、「別の誰かが読んだ時に意味が伝わらない文章」になってしまいます。

だからこそ、「書いた時の『自分』とは違う『他人』として文章を読み、直さなければならない」のです。

恐らく、「文章を書いたら、しばらく寝かせてから直した方がいい」みたいなアドバイスを聞いたことがあるだろうと思います。これも、「書いた時の『自分』を出来るだけ忘れて、『他人』になるための手段」と言えるでしょう。どう実現するかはともかく、「書いた時の『自分』をできるだけ忘れる」というステップが、「執筆」という行為においては非常に重要になるというわけです。

「文章を直す」ためには「読む力」が必要

ここまでくれば、「『読む力』が必要な理由」も自ずと理解できるでしょう。

「『読む力』が必要な理由」は、大きく分けて2つあります。1つは非常にシンプルな話で、「『読みやすい文章』の『正解』を自分の内側に取り込むため」です。

当たり前ですが、色んな音楽を聴けば聴くほど「良い音」が理解できるようになるし、色んな写真を見れば見るほど「良い写真」が分かってくるようになります。もちろん世の中には、「マンガをほとんど読んだことはないが、傑作マンガが描ける」みたいな「天才」もいるわけですが、そういう人を参考にしても何の意味もありません。我々凡人の場合は、「『どれだけ多く触れたか』でその『良さ』が理解できるようになる」というわけです。

もちろん、「文章」でも同じことが言えるでしょう。色んな文章を読めば読むほど、「これは読みにくい」「こっちは読みやすい」という感覚が育っていきます。そして、そうやって「読みやすい文章の『正解』」が自分の中に蓄積されれば、後は自分が書いた文章を読み返して「違和感を覚える箇所」を直せばいいだけです。そのために「読む力」が必要だと言えるでしょう。

さて、もう1つの理由が、「様々な価値観を取り入れることで『他人』視点を持ちやすくなること」です。「読む力」が重要である理由として、私はこちらをより強調したいと思っています。

もちろん、「様々な価値観を取り入れる」だけなら、「文章を読む」以外にも様々な手段があるでしょう。InstagramやYouTubeなどに、あらゆる情報が氾濫している時代だからです。「私は色んな人の価値観に触れているから大丈夫」みたいに考えている人も多いかもしれません。

しかし現代は同時に、「同じような情報にしか触れられない時代」でもあります。様々な情報がフィルターにかけられているので、「多くの人が『見たくない情報』を視界に入れずに済む状況」に置かれているでしょう。さらに、検索すれば「興味のある情報」はいくらでも深掘りできるわけです。このように、「自分が関心を抱いていない情報からは隔絶され、心地いいと感じる情報にしか触れられない状態」には「フィルターバブル」という名前がつけられています。「バブル(泡)」に囚われて、その外側に出られないというわけです。

このような状態では、「多様な価値観」に触れることはかなり難しいと言えます。

そういう時代においては、「書籍」ほど「多様な価値観」に触れられるメディアはないと言っていいでしょう。古今東西、老若男女の思考や感情が、様々な形で保存されているからです。「他人」視点を獲得するのにうってつけだと私は思っています。

さらに、本書の最後で改めて触れますが、結局のところ、それら「多様な価値観」は「書くための材料」にもなるわけです。「書きたいこと」を見つけ、それをまとめる上でも、「多様な価値観」に触れることは重要だと言えるでしょう。

ここで少し、私自身の話に触れておきたいと思います。私は元々理系の人間で、国語の授業は大嫌いでした。国語の授業中は数学の問題を解いていたぐらいです。もちろん、文章を書くことは決して得意ではありませんでした。本はそれなりに読んでいましたが、そのセレクトはもの凄く偏っていたと言っていいでしょう。小学生の時は『ズッコケ三人組』シリーズ(那須正幹)だけ、中学生の時は『ぼくらの』シリーズ(宗田理)だけ、高校生の時はシドニィ・シェルダンの作品だけしか読まないという、とても「多様な読書」と言えるようなものではありませんでした。

しかし大学2年生の時に突然あらゆるジャンルの小説を読み始めます。何がきっかけだったのかはまったく覚えていません。さらに書店で働き始めたことで新書を手に取るようになり、それがきっかけでノンフィクションも読むようになりました。そんなわけで、「読まないと決めているジャンルはほとんどない」と言っていいくらい、あらゆる本を読んでいます。そして、読んだ本についての感想を15年以上書き続けたことで、今では苦もなく文章が書けるようになったというわけです。

「読む」だけでも「書く」だけでも、今のようにはなれていなかったと思います。たくさん読み、たくさん書いたからこそ、「書いて直すこと」にまったく抵抗がなくなったというわけです。

さらに、文章を書くことを通じて「考えること」も得意になったと感じています。「読む」「書く」「直す」「考える」は、すべてが連動しているのです。

これ以降はKindleでもお読みいただけます。

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