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【権利】「難民だから支援すべき」じゃない。誰でも最低限の安全が確保できる世界であるべきだ:『ファヒム』

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誰もが安全に生きられる世界が実現しなければならない

「才能があるから認められるべき」と考えるのは間違いだと思う

この映画は、実話を基にしているという。どこまでが事実で、どこまでが創作なのかイマイチよく分からないが、物語の大枠である、「バングラデシュからやってきた難民の子どもがフランスのチェス大会で優勝し、家族と共にフランスの永住権を手に入れた」という部分は事実だろう。

こういう物語に触れるとやはり、「才能がある人間はきちんと報われるべきだ」「実力で権利を勝ち取ることができてよかった」などと考えてしまいがちだ。

しかし、そうじゃないそうじゃないと踏み留まる。

彼が難民になったのは、彼のせいではない。自分のせいではないことについて、「才能や努力で這い上がらなければならない」と考えるのは間違っているはずだ。

本当に考えるべきは、才能が無くても、努力しなくても、最低限の安全ぐらいは誰だって確保できるべき、ということだろう。

母国では安全を確保出来なかったからこそ、彼らはフランスへと逃げてきた。どんな境遇の人であれ、こんな経験をせざるを得ない世界は、やはりおかしい。

「才能の有無ではないぞ」と、映画を観ながら、そして観た後も、意識的に考えるようにしていた。

世界が安全ではないのは、我々の責任

私は、安全を確保するために時間やお金や労力を費やしたことはほとんどないと思う。私が男性だからということはあるだろう。女性であれば、いくら日本といえども、安全に対する意識が皆無というわけにはいかないはずだ。しかしやはり、全世界的に比較しても、恐らく日本は圧倒的に安全な国で、だからこそ、「安全を確保するための努力」には、あまり想像が及ばない。

しかし世の中には、常に砲弾が飛び交っている、あちこちに地雷が埋まっている、安全な飲み水を確保するためにかなりの距離を歩かなければならないなど、危険や不衛生と隣合わせの環境で生きている人もたくさんいる。そして、そのような悪環境は人々の心も蝕み、様々な犯罪が蔓延る社会になってしまうだろう。

「自分は安全な国に生まれ育ってラッキー」なんて思っている場合ではない。それらの悪環境は、我々先進国に生きる人間の「便利な生活」が生み出している可能性は十分にある。直接的にあるいは間接的に、私たちがただ便利な生活をすることで、彼らを苦しい環境に押お嫌やってしまっているかもしれないということだ。

「SDGs」という呼び掛けの元、世界中の大きな問題を解決していこうという流れが生まれているし、若い世代ほど関心が高いとも言われている。そんな現状に対しては、これから少しずつ世の中は良くなっていくのかもしれない、と期待を抱く。私も、気持ちとしては常に「誰かのためになるような生き方をしたい」と思っているし、可能なら行動も起こせたらいいと思うが、自分一人を生き延びさせるので精一杯の生活しかできずに忸怩たる思いを抱くことはある。

ともかく、これは我々の責任なのだと、正しく認識すべきだと思っている。

映画のラストは、なかなか印象的だった。これが実際にあった出来事なのかは不明だが、もし事実なのだとしたらなかなかドラマティックだといえる。その中である人物がこんなことを言う。

フランスは、人権の国なのですか?
それとも、人権を宣言しただけの国なのですか?

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