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【対立】パレスチナとイスラエルの「音楽の架け橋」は実在する。映画『クレッシェンド』が描く奇跡の楽団

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「世界で最も解決が難しい問題」を「音楽」で乗り越えようとする若者たちの、実話をベースにした「奇跡の楽団」の物語

この映画で描かれるストーリーそのものは、実話ではない。しかし、映画の設定は現実を踏襲している。「世界で最も解決が難しい問題」と言われるほど複雑な歴史を持つパレスチナとイスラエル、その2国に生きる者たちによる混合管弦楽団が実際に存在するのだ。

お互いを憎みい、殺し合いを続ける両者が、「音楽」によってなんとか歩み寄ろうとする。そんな物語を通じて私たちは、日本人にはなかなか馴染みが薄い対立について、その重苦しさを実感ができる作品だ。

「この問題はもう終わった」と無理やり区切りをつける以外にはない

岩手県に住んでいた頃、度々驚くような話を耳にした。それは、「かつて南部藩だった地域」と「かつて伊達藩だった地域」の間に、現在でも”曰く言い難いしこり”のようなものが残っている、というものだ。私は元々、日本の歴史には大変疎く、かつて両者がどうしていがみ合っていたのかよく知らない(なんとなく分かるが、説明できるほどではない)。しかし、数百年も前に起こっただろう出来事が現在にも禍根を残しているという事実には、とても驚かされてしまった。

あるいは、日本と韓国との間には、「慰安婦問題」を含め様々な「禍根」がある。韓国との関係においては、日本は「加害者」の立場だと思うので、日本人である私が何を言っても説得力は生まれないだろう。ただ、この記事に関連して私が言っておきたいのは、「私は韓国に対して特に何も感情も抱いていない」ということである。繰り返しになるが、「加害者」側がこんな発言をしてもまったく何の意味もないし、むしろマイナスに受け取られてしまうだろう。もちろん、問題を軽視しているつもりなどまったくない。ただ、感覚として強調しておきたいのは、「戦時中の日本が韓国に何をしていたとしても、『私自身の問題』だとは感じにくい」ということである。

さて、このような話から何を伝えたいと考えているのか。それは、「私自身は、この映画で描かれているような『対立』とはあらゆる意味で無縁だ」ということである。「何らかの『当事者意識』を踏まえた意見ではない」というわけだ。だから、これ以降私が書くことはすべて「机上の空論」だと思われても仕方がない。ただ私の中には、「どれだけ机上の空論だと思われようが、こう考えるしかないという結論」がある。

それは、

「この問題はもう終わった」と無理やり区切りをつける

というものだ。

パレスチナとイスラエルの問題にせよ、日韓の問題にせよ、既に問題は大いにこじれてしまっている。それ故、「この問題の原因はこれで、その原因を解消するためにこのような対処を行う」というような正攻法では解決不可能と考えるのが妥当だろう。

というのも、既に「当事者」ではない者たちが問題の中心に立っているからだ。

「直接加害を行った者」と「直接被害を受けた者」が問題に向き合っているのなら、「原因究明」「謝罪」「補償」などの手段で解決できる可能性があるだろう。直接の加害者・被害者が問題の中心にいる場合は、「根本的な解決」を目指すべきだと思う。

しかし、時間経過と共に、直接の当事者が亡くなったり、問題の中心にいられなくなったりする。それによって問題が次世代へと引き継がれるわけだが、そうなってしまえばもう「根本的な解決」など望めないだろう。何故なら、振り上げた手をどのタイミングで下ろすかを、直接被害を受けたわけではない者が判断するのはとても難しいはずだからだ。

イスラエル・パレスチナの問題の場合は、さらに難しいことに、現在に到るまで何世代にも渡り双方に被害者が生まれ続けている。「祖先の恨み」と「自身の恨み」が混じり合うというわけだ。そうなってしまえば、余計状況はややこしくならざるを得ない。両者がどこかのポイントで合意することなどまず不可能だろう。

『クレッシェンド』は音楽映画なのだが、話し合いの場面が実に多い。普段からいがみ合っているイスラエル人とパレスチナ人が一緒に練習をするというのだ。簡単に上手くいくはずもない。だから、まとめ役である指揮者が、幾度も話し合いの場を設けるのである。

その中で彼らが、「私のおばあちゃんが……」「僕のおじいちゃんは……」という話ばかりしているのが印象的だった。彼ら自身も、普段から砲撃や迫害を受けているのだが、自分のこと以上に「祖先が強いられた歴史」のことを語る。そして、「だからこそ許せない」と語気を強めるのだ。登場人物の1人は、

これは歴史の物語なんかじゃない。家族の話なんだ。

と言っていた。これこそが、問題の根深さの根本というわけだ。

「被害」が先で「対立」が後という「最初の当事者同士の問題」であれば根本的な解決もあり得るだろう。しかしその後は、「対立」が継続することで「被害」が生まれるという逆の流れに変わる。そしてそうなってしまえばもう、状況を根本的に解決する手段など残っていないはずだ。

だから私は、「無理やりにでも『この問題は終わった』と区切りをつけるしかない」と考えている。「根本的な解決は不可能だ」という認識を全員が共有し、「問題の原因は取り除かれていないし、その後の被害の補償もないが、それでも、この問題はここで終了だ」と判断するしかないと思う。自分で書いていて、あまりに理想主義的な、現実離れした解決策だと感じる。しかしこれ以外に、具体的に提案可能で実行性のある手段など存在するだろうか?

「分かり合おうとする者」同士を、他人が邪魔する権利などない

さて、上述のようなことを前提にしつつ、私はさらにこう考えている。それがどんな問題であれ、「他人の決断を邪魔する権利」など誰も有していない、と。

過去の歴史を背景にした国家間の問題においても、すべての国民が同じ捉え方をしているとは限らない。パレスチナ・イスラエルの争いにしても、「相手の国を絶対に許さない」と考えている人もいるし、「憎いが、対立したいわけではない」「個人的には恨みを抱いているが、国民としては相手を批判しないと決めた」みたいに考える人もいるはずだ。

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