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【悟り】飲茶氏の東洋哲学入門書。「本書を読んでも東洋哲学は分からない」と言う著者は何を語る?:『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』

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「東洋哲学」は「西洋哲学」とはまったく異質だと理解できる超絶面白い入門書

飲茶氏は、数学・科学・哲学について、基礎知識のない人間にも分かりやすく面白く説明してくれる天才だ。このブログでも何冊か感想を書いており、哲学の本に絞っても、「正義」をテーマにした『正義の教室』や、「西洋哲学」を扱った『史上最強の哲学入門』がある。

本書『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』は、『史上最強の哲学入門』も続編だ。前作が「西洋哲学」だったのに対し、本作は「東洋哲学」が扱われる。順番通りに読まなければならないわけではないのでどちらから読んでもいいが、このシリーズの場合むしろ本書から読んだ方がいいかもしれない。

というのも本書の冒頭には、「東洋哲学」と「西洋哲学」の違いが詳しく語られているからだ。この記事でもまず、この両者の違いについて触れてから、個々の東洋哲学の思想の紹介に移りたいと思う。

相変わらず、知的好奇心をバシバシと刺激される、べらぼうに面白い作品だ。

「東洋哲学」は「最終回しか存在しない連続ドラマ」

本書の冒頭に、こんな文章がある。

まず最初にはっきりと断っておくが、本書を読んで東洋哲学を理解することは不可能である。

いきなりの試合放棄だ。「そんなこと言っちゃっていいのか?」と感じるが、続く説明を読むと納得できるだろう。「東洋哲学」が「西洋哲学」とはまったく異なる理屈で成り立っているが故に、どの東洋哲学入門書を選ぼうとも「読むだけでは理解できない」のである。

ではまず、「西洋哲学」について説明しよう。西洋哲学は基本的に「無知」を前提とする。つまり、「私はまだ何も知らない」というのが出発点なわけだ。そこから、様々な人間が協力し、階段を一段一段上るようにして知見を積み上げていく、というのが西洋哲学のスタンスである。これは西洋哲学に限らず、歴史や科学など、一般的に「知」と呼ばれるものの順当な発展形式だと言えるし、誰もがイメージしやすいと思う。

しかし「東洋哲学」はまったく違うと著者は語る。東洋哲学では「無知」が前提になることはなく、それどころか、「私は全部理解した!」と主張する人物が現れるところからすべてが始まるというのだ。著者は東洋哲学をこんな風に簡潔に説明している。

ある日突然、「真理に到達した」と言い放つ不遜な人間が現れ、その人の言葉や考え方を後世の人たちが学問としてまとめ上げたものであると言える。

確かに禅でも仏教でも、「『悟った!』みたいな状態」が存在する印象ジはあるだろうし、それは「私はすべてを理解した」みたいなものと捉えていると思う。しかしやはり、分かったような分からないようなイメージになってしまうだろう。

そこで著者は、この両者の違いを連続ドラマに喩える。

「西洋哲学」は、「現時点の知見」を最終回とする全13話の連続ドラマだと思えばいいと著者は言う。第1話にアリストテレスなど古代の哲学者が登場し、そこから順を追って話が進んで最終回に辿り着くという、我々が連想する「連ドラ」のイメージでいいというわけだ。

こう捉えた場合、「西洋哲学の難しさ」についてのの理解の仕方が変わるだろう。「西洋哲学が難しい」と感じられる理由は概ね、「全13話の連続ドラマの第58話しか見ていない」のと同じと考えていいからだ。5話ぐらいまでドラマが進めば、大体の主要登場人物は出きっていて既に紹介もされないし、舞台や世界観の設定も既に終わっているので、5話だけ見ても話の筋は理解できないだろう。

西洋哲学の場合もこれと同じで、連綿と続く「知」の一部しか切り取っていないから、「なんだかよく分からない」という感覚に陥りがちだと著者は指摘する。

さて、同じく連続ドラマで喩えた場合、「東洋哲学」はどう理解されるのか。それは、「最終回しか存在しない、全何話かさえ不明な連続ドラマ」のようなものだという。

「連続ドラマの最終回を、最終回だと知らずに見る」という状況について少し想像してみてほしい。初めて見る登場人物たちが、それまでのやり取りを踏まえているのだろう会話をし、とりあえず何か解決に向かったのだ、ということぐらいは理解できるだろう。つまり、「ドラマの内容はよく分からないが、それはここに至るまでの様々なやり取りが抜け落ちているからであり、きっとこれは連続ドラマの最終回なのだろう」と推定できるはずだ。

そして「東洋哲学に触れる」ことは、「連続ドラマの最終回を、最終回だと知らずに見る」ことと同じだ、というわけである。何だかよく分からないが、とりあえず自分たちは「最終回」に触れているのだということは理解できるはずだ。そして、そんな「最終回」を色んな人が見て、そこに至るまでの過程についてあれこれ想像したものが「東洋哲学」なのである。

実際のドラマの最終回の場合は、「この2人は兄弟なのではないか」「このようなラストの展開を迎えたということは、恐らく主人公はかつていじめに遭っていたのだろう」のように想像することになるだろう。同じく東洋哲学の場合も、様々な人が「『悟った!』と主張する人物の思想(=最終回)」に触れ、あーでもないこーでもないとやり取りをしているというわけなのだ。

この説明で、「西洋哲学が理解できない理由」と「東洋哲学が理解できない理由」の違いがはっきり分かるだろう。「西洋哲学が理解できない理由」は連続ドラマの途中の回だけ見ているからであり、1話から見れば理解できる可能性がある。しかし、「東洋哲学が理解できない理由」は最終回しか存在しないからであり、そもそも「理解が及ぶものではない」というわけである。

このように説明してもらえると、「東洋哲学」を学ぶ際の心構えが出来て良いのではないかと感じた。

西洋と東洋では、「『知った』とみなされる状態」が異なる

さらに西洋と東洋では、「何かを知っている」という状態に関する理解が異なる。意味が分からないと思うので、まずは本書から該当する箇所を引用してみよう。

西洋であれば、「知識」として得たことは素直に「知った」とみなされる。(中略)
しかし、東洋では、知識を持っていることも明晰に説明できることも、「知っている」ことの条件には含まれない。なぜなら、東洋では「わかった!」「ああ、そうか!」といった体験を伴っていないかぎり、「知った」とは認められないからだ。

西洋では、の知識を頭の中で理解する、あるいはそれを他人に説明できる、という状態に達すれば「知った」とみなされる。しかし東洋ではそうはならない。東洋では、「分かった!」という感覚こそが重要だからだ。そしてこれは、東洋哲学が目指す「『悟った!』という状態」の話にも繋がっていく。

本書ではこの点について、「『白』と『黒』しかない部屋にずっと生きてきた人に、『赤』をどのように説明するか」という問題を取り上げながら説明していく。

西洋的な基準で言えば、「波長が◯◯の光は赤色に見える」という知識を理解していれば「知った」とみなされる。しかし東洋では、言葉での説明をいくら理解しようが意味はない。実際に「赤いもの」を目にして「これが『赤』なのか!」という実感が伴わなければ、「知った」とは見なされないのである。

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