見出し画像

空き家の子供 第1章 現在・冬(1)

あらすじ

現在・冬。久しぶりに実家に帰った私(平井聡子)は、子供の頃に深い関わりのあった「空き家」が壊されたと知る。その跡地に出かけた私は、「空き家の子供」に襲われる。危ないところで近所に住む慶太に助けられるが、慶太は「捕まればよかったのに」と言うのだった……。
過去・夏。十五年前、十一歳の平井聡子は、空き家の絵を描くことに夢中になっていた。クラスメートの慶太の導きで空き家に入った聡子は、「空き家の子供」の呼ぶ声を聞く……。
現在と過去が交錯しながら進行する物語。十五年前の空き家で、何が起きたのか。そして、空き家の子供に追い詰められる私の運命は……?

第1章 現在・冬(1)

 誰でも、子供の頃の特別な場所があるものだ。私の場合、それは「空き家」だった。
 実家の近くに、ずっと誰も住んでいない大きな家があった。少女の頃の私はある時期、その空き家との間に強い繋がりを持っていた。
 空き家は奥まった路地に面していて、古い木の塀や格子戸は半ば崩れ、塀に囲まれた庭には深い草薮が生い茂り、大きな木がそびえ立っていた。
 誰も切らない楠の大木は伸び放題に伸びて、神社で見るような巨木に成長していた。巨木が落とす影によって、空き家の敷地は常に暗がりの中にあった。
 傾いた板壁。黒く変色した雨戸。隙間から雑草が生えた、ひしゃげた瓦屋根。そんな平屋の日本家屋に、二階建ての三角屋根の洋館が接続されている。和洋折衷の独特な作りになっていて、角度によってまったく違った印象に見える建物だった。そんな空き家の姿を知っている人は、近所にもほとんどいなかっただろう。閉ざされた塀を越えて敷地に足を踏み入れなければ、空き家の全貌を見ることはできない。
 私はそれを知っていた。人知れず、空き家で長い時間を過ごしたから。
 今から十五年前、私が十一歳の少女だった夏。危うく永遠に囚われるところだった空き家から、かろうじて逃げ出した夏の頃には既に、そこは長いこと放置されたままだった。まるでそこだけ時間が止まっているような、長い年月が積み重なった澱のようなものが、楠の落とす影の中によどんでいた。
 あの夏から十五年が経ち、私が大人になっても、路地の空き家はあの頃と変わらない佇まいのままでそこにあった。
 私はそう思い込んでいた……今年になって、久しぶりに実家に帰ってみるまでは。

 大学進学を機に家を出て、私は離れた街で一人暮らしをするようになっていた。卒業後もそのままその地で就職し、実家からはますます足が遠のいた。実家に帰るのはせいぜい年に数回。何かの用事にかこつけた親からのしつこい呼び出しに根負けして、顔だけ見せに帰るだけだ。それでも帰るたびに、私はぶらぶらと歩いて空き家を見に行って、それがあの夏と変わらずそこにあるのを確かめていた。
 今回の母からの電話は、いつもと少し様子が違っていた。祖母が入院することになったので、家にいるうちに一度会いに来いと言う。祖母はもう九十に近い高齢で、言外には死ぬ前に会っておけという含みがあった。
 十一月半ばの雨降りの日曜日、私は実家に帰った。今回の帰宅はお正月以来、一年近く振りだった。
 久々に見る実家の玄関は、なんだか妙に古びて見えた。玄関の周りに並べられた植木鉢やプランターの植物が、すっかり枯れてしまっているのが原因だ。つまり、祖母が植木の世話を焼くのを止めてしまったということだ。
 玄関の格子戸はずいぶん前からレールが歪んでいて、引き開ける時にギシギシと軋んだ。この家自体がずいぶん老朽化して、空き家の印象に近づいているな、と私は思った。
 父は居間でテレビを見ていた。母は祖母のいる和室にいた。居間に隣り合った、仏壇のある和室は以前から祖母の寝る部屋だったが、今はそこに見慣れない介護用のベッドが運び込まれていた。畳の上に大きなベッドが置かれているのは変な感じだ。
 祖母はそこに横たわっていた。痩せて、隙間の多い寝間着を着たその姿は異様に存在感が薄く、既に幽霊になってしまったように見えた。
「前に来た時は元気だったのに」
 コートを脱ぎながら、私は母に囁いた。
「前って、もうずいぶん前じゃないの」と母は言った。「なかなか帰ってこないから」
 私からコートを受け取って、母はそれを運んでいった。私はあらためて、祖母のベッドに向かった。
「おばあちゃん」
 私は呼びかけた。
「久しぶり。元気? 体の調子はどう?」
 祖母はしばらく反応もせず、向こうを向いたままだった。私が重ねて「おばあちゃん」と呼びかけるとのろのろと首を回し、焦点の定まらない目で私を見た。
「どちらさまですか?」と祖母は言った。
「忘れたの? 聡子。あなたの孫だよ」
 少し動揺しながらそれでも笑顔を作って、私は言った。
 祖母はしげしげと私を眺め、それからつまらなそうな表情をまるで変えないまま、「知らない人」と言った。
「聡子だってば!」
「知らない人」と祖母はもう一度言った。そして、またのろのろと首を回して、向こうを向いてしまった。
 私は後ろを振り返って、「知らない人だって」と言って笑った。母は訝しげな表情で見ていた。
「おばあちゃんぼけちゃったの?」と私は聞いた。
「そうみたいねえ」
 母は言って、首を傾げた。
「そんな、認知症って訳でもなかったんだけどねえ」
 そっぽを向いて動かない祖母を見下ろして、私は胸がざわざわするのを感じた。
「滅多に会わないから忘れちゃったのかな」
「忘れちゃったってことは、ないでしょうけどね。まあ、調子が悪いんでしょ。日によって調子の波があるのよ、おばあちゃんは」
 居間でテレビに向かっていた父が、思い出したようにぽつりと言った。
「そういえば、空き家が潰れたよ」
「えっ?」
 不意を突かれて、私は固まってしまった。父はテレビに背を向けて、私の方に向き直った。
「聡子が気にしてた空き家があっただろう。もうずいぶん長いこと、ほったらかしになってたところ。あんまり長いことそのままだから、これから先もずっと同じような気がしていたけどね。この秋に突然重機が入って、あっという間に壊して、きれいに均してしまったよ」
「本当に?」私は呆然としていた。「建物は何も残ってないの?」
「ああ、何もない。きれいさっぱり、更地だ」
「それで、跡地はどうなったの?」
「さあ、マンションでも建てるんじゃないかな。今はまだ何もないけど」
 私は記憶の中の空き家を思い描いた。大きな楠の影の下にあって、ジャングルのような荒れ果てた庭に囲まれ、崩れかけた姿を隠していた空き家。それがすっかり消えてしまって、更地になっているなんて、私にはうまく想像できなかった。

 細かで静かな、冷たい雨が降っていた。私は傘をさして、空き家を目指して雨の町を歩いた。
 空き家は、私の家から二区画離れた場所にあった。住宅街のことだから、近いものだ。ゆっくり歩いても三分もかからず着いてしまう。
 この辺りはもともと入り組んだ古い住宅街で、道路の幅は狭く、交通量も少ない。私が子供の頃から比べると、ずいぶん高齢化が進んでいて、活気のない町になっていた。通りを歩く人も滅多にいない。こんな冷たい雨の日にはなおさらだった。
 空き家は、そんな道から更に折れた車の入れない狭い路地にあった。周辺には、年季の入った古い家が建ち並んでいた。傷んだ板壁や埃の染み付いたモルタル、それに古めかしいデザインのタイル飾りが昭和を感じさせる。どれも空き家と同じくらい古そうだが、大きな違いは生活感があることだ。お年寄りが聞いているのだろう、やけにボリュームの大きなテレビの音がどこかの家の中から漏れ聞こえている。
 路地に入る角には、木造の二階建ての家があった。空き家ではないはずだが、昔から住んでいる人を見たことがない。たぶんお年寄りがひっそりと住んでいるのだろうと思う。ところどころ欠け落ちた板張りの壁は、子供の頃の印象と何も変わっていない。雨を受けて、いくつもの染みが板壁を伝っていた。その家の横に、狭い路地が奥へと続いている。
 路地に沿って左手は木造の家。右手は比較的新しい二階建ての家が建ち並んでいるのだが、その家々はどれも揃って、路地には背を向けている。玄関は反対側の通りに向かう側にあって、路地側はどの家も裏側の飾り気のない壁があるばかりだ。どの家にも窓がなくて、まるで空き家の方を向くことを頑なに拒んでいるかのようだ。
 路地の途中までは舗装されていたが、途中からは今時珍しい舗装のない土の道になっていた。その舗装のない区間に面しているのが、空き家の敷地だ。空き家の前を過ぎると、また舗装が復活する。つまり、空き家の前に当たる部分だけ、取り残されたように舗装されていない訳だ。本当に、そこだけ時が止まっているようだ。
 私は片手に傘をさしたまま突っ立って、見えているものと記憶との、微妙な齟齬を感じていた。空き家の敷地はまだよく見えなかったが、それでもはっきりと空気が変わっているのがわかった。ただでさえ狭い道をより狭苦しく感じさせていた、空き家の高い塀が消えていた。この辺り一帯に消えない影を落としていた、巨大な楠の木も消えていた。雨だから明るいという訳ではなかったが、それでもなんだか拍子抜けするような、ぽかんとしたあっけなさがそこにはあった。
 路地へと入っていく。舗装は手入れがされず荒れていて、ひび割れに沿って雨水がちょろちょろと流れていた。
 あの夏以来、私は何度もこの場所に来ていたが、その度に感じていた圧迫感、強烈な磁場のようなものが消えていた。私は抵抗なく、路地を先へと進んでいった。
 何か特別なものを感じさせる気配は、何もなかった。雨でぬかるんだ未舗装の路地に面して、がらんとした何もない空間が開けていた。
 私はかつて空き家の門があったあたりに立って、四角い更地を眺めた。少し盛り上がった砂利混じりの地面が、向こう側の家の裏壁まで続いている。左手は木造の家の後ろ側の壁、右手は高い金網のフェンスで終わっている。その向こうにある二階建てアパートの敷地との間を仕切るフェンスだ。地面は水はけが悪いようで、あちこちに大きな水溜まりが出来ていた。ところどころに雑草が生え、一旦伸びてまた枯れて、なにやら汚らしい塊になっていた。枯れていない草木は根を張り地を這うようにつるを伸ばして、雨に濡れていた。がらんとした空き地の端から端までを見渡して、私はその狭さに驚いた。こんなに狭い敷地だとは、思ってもいなかった。周囲の住宅に比べたら広い。何軒分もの広さがある。それでも、記憶の中の空き家はもっと広かったのだ。
 傘を片手に路地の前に立ち、私はしばし息を整えた。記憶の中の印象があまりにも強過ぎて、今目の前に見ている光景は現実感を欠いていた。木がないせいだ、と私は思った。この場所を常に覆い尽くしていた影が消えて、雨の降る中でさえ、記憶の中の光景よりずっと明るかった。
 それでもなお、敷地の中に足を踏み入れるには、若干の勇気を要した。私は一つ深呼吸して、路地から踏み出して空き家の敷地である更地の中に入っていった。

 それはあまりにあっけなくて、私には現実感がなかった。かつては、正面の門にあたる場所からは、中に入ることはできなかった。門の引き戸は釘を打った板で封じられていて、誰も開けることはできなかったのだ。門はひどく歪みひしゃげていて、板がなくても開けることはできなかっただろうけれど。
 完全に閉ざされた塀の向こうは広い庭で、放置された草木が好き放題に繁殖し、濃厚な緑に覆われていた。そして、はびこった草木の向こうに、古く朽ち果てた空き家が、低く横たわるようにして、あった。
 今では、あれほど生い茂っていた草木もきれいさっぱり消え失せて、ただがらんとした空間があるだけだ。遮るものも何もなく、簡単に奥まで歩いていくことができる。そのあっけなさが、気持ち悪かった。
 泥の水溜りを避けて、私は足元に気をつけながら前へ進んだ。建物の基礎らしいコンクリートのブロックがいくつか残っていたが、それも僅かな残骸でしかなかった。あの大木の楠も跡形もなく、切り株も残っていない。何もかも根こそぎ壊して持ち去ってしまったようだ。ただ、奥の壁に近い辺りに、低い石の出っ張りが残っているのが見えた。腰の高さほどの、灰色の丸い筒のようなもの。しばし考えて、すぐに思い至った。井戸だ。空き家の庭には井戸があった。
 何となく息を潜めて、私は井戸に近づいた。覗き込むと、被せられた金網越しに暗闇が見えた。井戸は深く、その中に水があるのかどうかも見て取ることはできなかった。
 傘を片手に井戸の前に立ち、私は周囲を見回した。記憶の中の空き家の大きな存在感と、この場所の一目で全体を見て取れる狭さとは、釣り合いがとれない気がしてならなかった。
 冷たい風が吹き抜け、私は身震いした。ここにはもう何もない。もう帰ろう……と思った時に、私は声を聞いた。
 おかえり。
 子供の声だ。女の子の声……。
 私はその場に立ち尽くした。全身が硬直していた。傘を持つ手に力が入り、気がつくと痛いほどギュウギュウと傘の柄を握りしめていた。
 落ち着いて、と私は自分に言い聞かせた。周囲を見回す。さっきと同じ、ただ静かに雨が降りしきるだけの空き地。周囲を壁とフェンスに囲まれ、路地にも、フェンスの向こうに見えているアパートの廊下にも、誰もいない。ここにいるのは私だけだ。だから今の声はきっと、私自身の中から出てきたものなのだろう。
 私の記憶の中から、聞こえてきた声。
 それは私にとって、懐かしい声でもあった。あの夏、十五年前の夏に、空き家の閉ざされた暗闇の中で、耳にしていた声だから。
 あの暗闇の中に永遠に囚われた、空き家の子供の声……。
 おかえり。
 また聞こえた。今度はさっきよりはっきりと。さっきより近く、ほとんど息がかかるほどのすぐ近くで囁かれたように。
 慌てて後ろを振り返る。誰もいない。ただ、土と水たまりが見えるだけ。
 そんな……と私は思った。空き家は壊され、もう跡形もないというのに。空き家の子供は、建物と一緒に消えたんじゃなかったのか。
 私は動こうととしたが、ブーツの足が思うように抜けない。いつしか粘土質の泥がねっとりと絡みつき、私の足を引っ張っていた。強引に力を入れると転んでしまいそうで、私は慎重にバランスを取りながら、片足ずつ前に進めようとした。
 ようやく、右足が地面から離れた。まだしも乾いて硬そうな地面を探して、その足を下ろした……はずだったのに、下ろした右足はさっきよりも深く、ずぶずぶと泥に沈み込んだ。私は両手をぐるぐる回してバランスを取り、思わず傘を落としてしまった。
 開いた傘が、泥の上に逆さまに落ちる。どこからか、少女がくすくすと笑う声が聞こえた。
 笑い声。私に会えて、私と遊べて嬉しいとでも言うような。
 おかえり……
 ……おかえり……
 声は前からも後ろからも聞こえた。まるで、私の周りをぐるぐると回っているように。
 私は目を閉じ、深く呼吸して、気持ちを落ち着けようと努めた。十数えてから目を開けて、井戸の縁に手をかけ、体の平衡を取り戻す。それから顔を上げ、ほんの十メートルほど向こうに見えている路地の方を向いた。
 なんでもない距離だ。あっという間に出ていけるはずだ。
 空き家の子供なんていない、と私は自分に言い聞かせた。かつていたにせよ、今はもういないはずだ。空き家はなくなった。子供は、空き家に属する存在だ。空き家の暗闇の中でのみ、かろうじて存在をとどめていた空き家の子供は、家と共にこの世から消えてしまったはずだ。
 片方ずつ慎重に足を上げ、私は前に進もうとした。だが、まるで何かのトラップに踏み込んでしまったみたいに、私の足はぬかるみに固定され、引き上げようとすると強い力で引っ張られるのだった。ネバネバした粘土質の土はまるで強力な糊のように、ブーツに絡みついていた。強引に足を引き抜こうとすると、ブーツが脱げそうになった。裸足でここから帰らせる気か。どろんこの足で、十一歳の子供みたいに。
 苦い笑いが、私の口から勝手に漏れた。それに呼応するように、後ろの方から嬉しそうな笑い声が聞こえた。思わず、私は肩越しに振り返った。
 そこに、子供がいた。
 雨に煙る空き地の向こうの端、裏に面した三軒の家の中央の、染みの浮き出た裏壁の前に。
 不自然な体勢で振り向いているから、はっきりとは見えない。だがギリギリ視界の端っこに、こっちを向いて立っている小さな姿が確かに見えた。
 痩せっぽちの、女の子だ。あの夏の私と、同じくらいの背格好。薄い半袖のTシャツ、青いデニムのスカートの、いかにも夏の小学生らしい格好。短く切り揃えた黒い髪、その下の白い顔。雨の中俯き加減で、傘もささずに立っている。それなのに、雨に濡れている気配がなかった。
 子供はまっすぐに私を見ていた。私を見ているのに、その表情は暗がりに沈んでよく見えない。
 また声が聞こえた。
 おかえり……
 まってたよ。
 笑い声。私が帰ってきて、本当に嬉しくて仕方がないと言うような。
 私は息ができなくなった。空き家の恐怖、暗闇の恐怖が、私の心臓を掴んで絞った。あの暗闇に、戻されるのは絶対に嫌だ。
 顔を背けて逃げようとしたけれど、粘つく泥に絡みつかれたブーツは持ち上がってくれなかった。私はバランスを崩して倒れ込み、倒れた先には井戸があった。
 井戸の縁に手をつくのと、ガシャーン!という大きな音が響くのと、同時だった。井戸を塞いでいた金網が落ちたのだ。私は両手を井戸の縁にかけて、地の底へと続く闇を覗き込んでいた。
 覗き込んだ闇の中から子供が現れ、伸ばした両手で私の頭を掴んだ。
 子供の顔は、一瞬しか見えなかった。すぐに頭を両手で抱え込まれたから。一瞬見えた子供の顔は、満面の笑みを浮かべていた。
 ……つかまえた。
 上半身が、井戸の中に引きずり込まれる。井戸の底から吹き上がる、冷たい風を私は感じた。必死で井戸の縁を掴み、私は抵抗した。あれほど動かなかったブーツは泥から簡単に離れ、私の両足は宙に浮いていた。
 悲鳴を上げようとしたが、吸い込んだ息が足りず、パクパクと口を開け閉めすることしかできなかった。自分自身の悲鳴の代わりに、子供がくすくす笑う声が聞こえた。いたずら好きの子供が、いたずらが成功して嬉しくて仕方がなくて笑う声。
 井戸の縁のもろい石が崩れ、指が空を掴む。重力が私の上半身を捕え、井戸の中へと引き込んでいく。自分の体が浮くのを、私は感じた。落ちる。
 と、強い力が私の背中を掴み、私は井戸の外へと引き戻された。誰かが、私の体を掴んで引っ張っている。
 反射的に、振り解こうと私はもがいた。
「落ち着いて!」と男の声がして振り返ると、いつの間にか近づいていた大柄な男が、私を井戸から引き戻したのだった。男の足元に、開いたままの黒い傘が落ちていた。雨に濡れながら、抵抗する私を井戸から遠ざけようとしている。
「ほら、ここに体重をかけて。ゆっくり足を抜いて」
 ぬかるみから足を抜き、もう少し地面が乾いている場所へ移動する。井戸の方を見ると、泥の上に私がもがいた足跡がぐちゃぐちゃに残っている。
 それから、私の目はおずおずと奥の黒ずんだ壁の方……子供の姿が見えた方に、吸い寄せられた。半ば予期していた通りに、そこには誰の姿もなかったし、誰かがいたような形跡もなかった。
 そのままぼんやりと壁を見ていたら、やんわりと肩を押されて、自力で立つように促された。支えてくれた男に、そのまま体重を預けたままでいたのだ。私は慌てて、礼を言おうと向き直ったが、彼はふっと目を逸らすように離れて行った。部屋着らしいトレーニングウェアを着ている。スポーツマンであるような、がっしりとした体格。足元はスニーカーで、すっかり泥にまみれてしまっていた。
 黙ったまま背を向けて歩いていった彼は私の傘を拾い、少し離れた水たまりに落ちていた自分の傘を拾った。何度か振って、内側についた雨水を払ってから、彼は私に傘を差し出した。
 傘を受け取るために近づいて、私はようやくそれが誰かに気づいた。
「慶太くん?」
 小学生の頃より太って筋肉もつき、全体に巨大化していたが、よく見ると確かに面影があった。空き家に隣り合うアパートに住んでいた、慶太だ。今でもそこに住み続けていたのか。
「平井か」と慶太は私の苗字を言った。
 私は傘を受け取り、礼を言った。慶太は目を合わせなかった。彼はさっきまで私が見ていた、壁の方を見ていた。
「そこに何かいたのか?」と慶太は聞いた。
「見たの?」と私は聞き返した。
「何も。ただ家の窓から、水溜まりの泥にはまってじたばたしてる女を見ただけだよ。井戸に落ちそうだったから思わず助けに来たら」言いながら、慶太は顔をしかめた。「お前だったんだ」
「子供がいたのよ。空き家がなくなったから、あの子も一緒にいなくなったかと思ったのに」
「子供?」
 慶太は私をじろりと睨んだ。
「そうか、あいつはやっぱりまだいたのか」
「私を捕まえに来てた。もう少しで、捕まるところだった」
「そうか。そうだろうな」
 慶太はふうと溜め息を吐き、それから僅かに口の端を歪めて笑った。
「捕まればよかったのに」
「え?」
 私を見ている、慶太のとても冷たい目。黒い傘をさして立っている慶太までの距離が、遠いものであるように思えた。
「ちくしょう」と慶太は言った。「どうして、思わず助けちまったんだろうな。黙って見ていればよかったのに。お前が、あいつに捕まるところを」
 私は何も言えなかった。慶太にそんなふうに言われるのも、仕方がないのだとわかっていたから。
 慶太は踵を返して、雨の中をアパートの方へ歩いていった。私を拒絶するような黒い傘が、僅かに揺れながら遠ざかった。

第2章へ

#創作大賞2024 #ホラー小説部門


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?