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空き家の子供 第17章 現在・冬(9)

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第17章 現在・冬(9)

 やがて二月になって、私は退院した。
 大塚が車で迎えに来てくれた。みかんとお節のおばさんたちが、ぱちぱちと拍手して私を見送ってくれた。
 私はまだ杖をついていたが、片方だけのシンプルな杖になっていた。歩くのもずいぶん速くなった。玄関へと向かう私に、トレーナーの澤田さんが並んで歩き、
「うん。大丈夫。リハビリはばっちりですね」と言った。
「おかげさまで。ありがとう」
「すごく頑張ったから。杖が完全にとれるまでもう少しリハビリに通っていただくことになるけど、頑張ってくださいね」
 玄関を出ると、外は雪がちらついていた。
「寒い!」
「うん、今日は冷えるな」
 大塚は急いで荷物を積み込み、車のドアを開けて私が乗り込むのを手伝ってくれた。
「運転、気をつけてね」
「それはもちろん。煽られるくらいの安全運転で行くさ」
 雪のちらつく中を、車は走り出した。落ちるとすぐに溶けて消えるようなかすかな雪で、積もりそうな気配はなかったが、街は冷え込んで路面が凍っている場所もあった。大塚は言った通り、大げさなくらいの安全運転で街を進んだ。何度かクラクションを鳴らされたり、乱暴に追い抜かれたりしたが気にしなかった。
 流れていく冬の街を、私はぼんやりと眺めていた。空き家が壊されたことを知った十一月から、様々な変化があった。祖母が死に、思わぬ形で父と母も死んだ。あまりにも突然に、私は一人になった。だが、悲しみの感情はなかった。ただ、急な変化に対する戸惑いと、今のどっちつかずな状況に対する落ち着かなさだけがあった。
「ねえ、お願いがあるんだけど」と私は、運転している大塚に言った。
「なに?」
「悪いんだけど、実家に送ってくれない?」
「今からかい? 今日のところは、とりあえず自分の家に帰って休んだ方が」
「一旦はマンションの方に行って欲しいの。着替えとか荷物をまとめるから、その後で実家に送って欲しい。お願い」
「いったい何をするつもりなんだ?」
「ほら、掃除とか、物の整理とか。あの時に出かけたっきりなんだから」
「そりゃまあ……でも今日じゃなくたっていいだろう。今日のところは家でゆっくりして、落ち着いてからあらためてでいいんじゃないか?」
「ゆっくりは病院で十分したのよ。いろいろと気になることもあるし」
 ルームミラー越しに、大塚は私を眺めた。疑わしそうな目だったから、私は窓の外を見て目を逸らした。
「……まあ、構わないけど」
「ありがとう」
 しばらく無言のドライブが続いて、やがて自宅のマンションに着いた。
 エンジンを止め、大塚は車を降りて駆け足で後部座席に回った。ドアを開けて杖を手渡し、私が立つのを手伝う。
 大塚は私の荷物を全部持って、私が杖をついて歩くのを、ぴったりと横について見守ってくれていた。私がよろけたら、すぐに支えることができるように。
 優しい人だ。でも、私はいずれ早いうちに、大塚と別れるべきかもしれない。他のいろんなことが変化したのだから、そこも変化するのが自然なはずだ。大塚に寄り添われエレベーターに乗りながら、私はそんなことを思っていた。
 部屋に入り、雑多な用事を済ませた後、一休みしてコーヒーを淹れた。リビングで二人、コーヒーを飲んでしばしぼんやりとするうちに、いつの間にか夕方になっていた。
 窓の外が暗くなっていく。夜の訪れを見ていると、今から実家に向かうのが不安になってきた。わざわざ、そんなことをしなくてもいいのかもしれない。あの子があの家が欲しいなら、好きにさせておけばいいんじゃないか。
 せっかく家から遠くにいるのに、自分からそこに向かおうとしている。これでは、あの夏の繰り返しみたいだ。せっかく空き家から離れたのに、自分から戻ってしまった愚かな少女と同じことを、私はまた繰り返そうとしているのか。
 そんな私の思いを読んだみたいに、大塚が言った。
「なあ、今日はこのままここにいたらどうだい? 疲れただろうし、実家は明日でもいいだろう?」
「ダメよ」と私は言った。「ごめんね。もう出かけましょう」
 大塚の言葉で、かえって決心は固くなった。もう先延ばしにしない。今報いを受けているのは、ずっと先延ばしにしてきたからなのだから。かねてからの懸案は、今こそ片付けるのだ。
 大塚と共に再びマンションを出る頃には、空は既に暗がりに変わっていた。雪はやんでいたが、空気は凍てつくように冷え込んでいた。
「うー、寒い!」と大塚は大げさに身を震わせた。
 走っていく車の中では、ラジオの音楽を聴いていた。ヒット曲は移り変わり、DJの話題も新しいものに変わっていた。しばらく病院で過ごしていた私は、世間から一人取り残されたような気がしていた。ガラス越しに見える街の人々は分厚いコートを着込み、白い息を吐いていたが、どこか暖かそうに見えた。私はここでも、そんな風景から隔離されたような自分を感じていた。
 マイペースの安全運転で、車は街を進んでいった。やがて風景は、懐かしい町に変わる。一方通行の多い、住宅街の狭い道路を進む。曲がるべき道を何度か間違えて遠回りしながら、車は実家の前に停まった。
 大塚の手を借りながら、私は実家を見上げていた。
 閉じた格子戸。玄関の植木鉢はみんな枯れて、汚い残骸だけが残っていた。
 空き家だ、と私は思った。この家は限りなく、空き家に近づいている。

 玄関の軋む戸を開けると、カビ臭い埃の匂いが鼻についた。家族それぞれの靴、廊下に置きっぱなしの新聞紙の束や段ボール、そんな光景は以前のままだったが、空気ははっきりと変わっていた。人の暮らしがない家の空気。空き家の空気だ。
 廊下で振り返り、玄関に立つ大塚に、私は言った。
「送ってくれてありがとう。悪いんだけど今日は帰ってくれる?」
 大塚は不意をつかれた表情になった。
「どうして?」
「いろいろと、両親のものの片付けをしたいから。時間かかると思うし、いてくれてもお構いできないしさ」
「手伝おうか?」
「いろいろと家族のプライベートなものもあるし、一人になりたいから」
「そうか。そうだよな。わかったよ」
 大塚は暗い表情で車に向かった。運転席に乗り込んでエンジンをかけ、それから助手席側の窓を開けて、私を見た。私は窓を覗き込んだ。
「聡子、大丈夫か?」と大塚は言った。
「大丈夫って、何が?」
「泣いてないだろ」と大塚は言った。「病院でも、ここに帰ってからも、聡子は全然泣いてない」
「ああ……そうだっけ。なんか、あまりにも急だったしね。実感が湧いてないのかな」
「病院での初めの頃は、そうかもしれない。でも何ヶ月経っても、聡子は全然変わらない。こんな酷いことがあったのに、何にも感じていないみたいだ。ここに帰って来たら、少しは感情的になるかと思ったけど……それもない」
「冷血動物みたいって?」
「いや……ごめん」
「そんな言われ方は傷つくわよ」
「ごめん。責めるつもりじゃないんだ。心配なんだよ、君のことが」
 私は俯いて黙り、傷ついた振りをした。そんな私を見た大塚はそれ以上何も言わず、車を発進させた。

 片手に杖を持ち、壁に手を這わせながら廊下を奥へと進む。途中、二階への階段を見上げる。二階への急な階段……子供の頃、何度も駆け上がり、駆け降りた階段。その先の、二階の壁が見えている。何も変化はないように見える。どこか不穏さを感じるのは、思い込みのせいだろうか。
 空気の澱んだ家の中を見て回る。事故の後、叔父と叔母が入って最低限の片付けはしてくれたと聞いているが、それでもいろんなところに予告なく不意に断ち切られた生活の名残りがあった。台所の食器かごには洗い終わった食器が収納されず置かれていたし、ダイニングテーブルにはテレビのリモコンが、ちょうど今テレビに向けてスイッチを切って、そして置いたという位置と角度に置かれていた。
 ダイニングテーブルの、いつも父が座って新聞を読んでいたところ。忙しない母が座ったところ。そして、祖母がお気に入りだった奥の和室。どこにも、誰もいない。何かがすっぽりと欠け落ちたように、がらんどうの空白だ。和室に置かれていた介護用のベッドは返却され、足が置かれていた部分の畳が凹んでいるのがここからでも見えた。
 一階の各部屋を見て回り、異常がないことを確認した後、私は廊下へ戻った。二階への階段を見上げる。杖を眺め、少し迷ってから、杖を廊下に置いた。階段に腰を下ろし、壁に背中を当ててお尻をスライドさせるやり方で、私は階段を上がった。
 ゆっくりと慎重に階段を上がり、二階の廊下にたどり着いた。二階の廊下は左右に伸び、右手は物干し台のあるベランダに、左手は正面に面した私の部屋に続いている。少々の苦労の末に私は立ち上がり、二階の壁にもたれるようにして立った。
 壁に体重を預け、摺り足で、私はドアへ近づいていく。本来なら何も考えずに駆け込んでいくはずの自分の部屋に、用心深く近づいていく自分が不意に滑稽に思えて、私は一人で少しだけ笑った。
 ドアを開け、そっと部屋を覗き込む。夕刻の暗がりの中で、部屋はぼんやりとした影に沈んで見える。手探りで壁のスイッチを入れ電気が点ると、影は一瞬で追い払われた。何の変哲もない、見慣れた部屋がそこにある。
 少女の頃の私が使っていた、ベッドや勉強机、持ち物を雑然と突っ込んだままになっている段ボール箱。その合間に、母が持ち込んだミシンが置かれた低い台。私がもう使わないならと、母が持ち込んだいくつかの品物。今では、母もそれを使うことがない訳だ。
 机の上には、スケッチブックがあった。以前にここに入った時、箱から見つけて置いたものだ。あの夏、空き家を描いたいくつもの絵。ある種の感慨を持ってそれを見たが、私は懐かしさは感じなかった。私にとってそれは、二度と見たくない呪わしい過去だ。
 ぴんぽーん、と玄関のチャイムが鳴った。来た。私は緊張する。
 部屋の電気を消して、廊下に出てドアを閉める。さっきと同じ手順を踏んで、段に尻をついてゆっくりと階段を降りた。その間にも、チャイムは何度か繰り返された。階段を降りながら、私の緊張は次第に薄れていった。これはたぶん、あの子じゃない。あの子が来た時のプレッシャーのような禍々しい空気を、今は感じなかった。
 一階まで降りて杖を手に立ち上がり、玄関を覗くと、思った通り見えたのは大人のシルエットだった。
「慶太くん?」と私は呼びかける。
「そうだよ」と慶太は答えた。「開けてくれよ」
「あの子と一緒じゃないよね?」
「一緒って……そんな訳がないだろう。早く開けてくれよ」
 私は玄関を開け、慶太が入るとすぐに閉めた。慌てて鍵をかける。そんな私の手元を、慶太はじっと眺めていた。
「私がいるって、どうしてわかったの?」
「二階の灯りがついてたからな」
「それにしたって、見に来なくちゃわからないでしょ。空き家だけじゃなく、こっちの家も見張ってたんだ」
「そういう訳じゃねえよ。ただ、帰る時の通り道なんだよ」
 慶太を居間へ通し、私は杖をついて後に続いた。がらんとした居間に、慶太は所在なさそうに立った。
「コーヒーでも淹れる?」
「いいよ。立ってると疲れるだろ。座ってろよ」
「でも、今夜は長丁場だよ。あの子が入って来ないように、寝ずの番をしなくちゃいけないんだから」
「それはお前の話だろ? 俺は関係ないよ」
「何よ。手伝いに来てくれたんじゃないの?」
 私は杖をテーブルに立てかけ、椅子を引いて座った。テーブルを挟んで、慶太も腰を下ろした。父がいつも使っていた椅子だ、と私は思った。
 私の目を見ずに、慶太は話し出した。
「あれから、ずっと考えてたんだ。あの空き家に、本当は何がいたのか。本当は幽霊なんか、いなかったんじゃないかって」
 私は少し驚き、そして呆れた。「何それ。あなたがそんなことを言うの? 今更?」
 構わずに、慶太は続ける。
「空き家で、平井は幽霊に会ったって言ってた。声も聞いたし、姿も見たって。でもそれは、暗示だったんじゃないかって」
「暗示?」
「そう。あそこは何というか……独特の雰囲気のある場所だった。いかにも幽霊が出そうな雰囲気があったし、いろんな噂も聞いていたし。あの夏、あそこで絵を描くことを通して、少しずつ平井は暗示にかかっていったんだと思う。そこへ来て、あの大雨だ。雷も鳴って、すごい雰囲気だった。俺も一緒に暗示にかかってしまったんだ」
 私は溜め息を吐いた。
「私の知り合いのある人も、同じことを言ったわ。私の気のせいだって。怖がらず、無視すれば、あの子は私になんにもできないだろうって」​
「あの日の記憶があるから、俺たちは空き家の幽霊に結びつけてしまう。でも、世間一般の奴なら、そんなふうには考えないだろうよ。病院へ行けって、言うだろうな」
「私が狂ってるって言いたいの?」
「そうだな。ある意味、俺も狂ってたんだ。あの日、あの空き家での出来事以来」
 私はテーブルに肘をつき、自分の眉間を押さえた。疲労感があった。またしても、根本から否定される疲労感だ。結局のところ、当事者以外にはわからない。慶太は当事者だと思っていたけど、違ったようだ。長い時間が経って、その時、あの場の臨場感は失われた。慶太も、自分が見たものを信じられなくなっている。
 結局、私だけだ。あの子の存在を疑わないでいられるのは、直接に触れ合った私だけだ。誰かと分かち合うことはできない。私は一人で、あの子に立ち向かうしかないんだ。
 私の内心を知ってか知らずか、慶太は顔を上げて私を見て、続けた。
「もし、幽霊が存在しないなら、俺はお前を憎まなくていいことになる」
「……え?」
「そうだろ。幽霊が暗示でしかないなら、あの日、空き家で起こったことも暗示でしかなかったことになる。何も起こらなかったんだ。俺がお前を憎む理由もない」
「仲直りって訳?」
「そうだな。十五年ぶりに仲直りだ。あれが暗示だったと、お前が認めるなら」
 私は笑った。溜め息と混じった笑いが漏れた。
「わかった。認める……って言ったら、それで私を許してくれるの? そんな口約束に、何の意味がある訳? 幽霊が本当にいたのか暗示だったのか、証明することなんてできないんじゃない?」
「そうだな。だから、玄関へ行って扉を開けるんだ。開けたままにして、誰かが入りたいなら入れるようにしておく。お前が解放されるのは、むしろそっちだと思うよ」
 言って、慶太は顔を上げて私を見た。真剣な表情だった。慶太の言葉に、嘘はないのだろう。彼なりに考え抜いたことなのだ。
「……ダメよ」と私は言った。「そんなことできない。せっかく、あと一歩のところまであの子を追い詰めたのに」
「そうか」抑揚のない声で慶太は言った。
「あなたにはわからないのよ。あの子に殺されかけていないから。父も母も死んだ。あの子に殺された。あの子の存在を否定することなんて、できない」
「わかった」言って、慶太は席を立った。「それなら、俺は協力することはできない。帰るよ」
 テーブルの後ろを回り、慶太は私の背後に立った。私が杖を取り、立ち上がるのを、慶太は手を取って支えた。私は杖をついて廊下へ向かい、慶太はその後についてきた。玄関へ向かう途中、ちょうど階段の前を過ぎたところで、背後から慶太の腕が伸びてきた。
 慶太の腕が、私の首に回される。「ちょっと、何を……」言いかけたけれど、言葉にならない。太い腕に抱きすくめられて、私はまったく動くことができない。腕はガッチリと首に入り、私の体をロックした。
「すまんな」と小さな声で慶太が言った。
 あっという間だった。頸動脈を圧迫され、私は暗闇に落ちていった。

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