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空き家の子供 第16章 過去・夏(8)

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第16章 過去・夏(8)

 空き家に行けなくなって、数日が過ぎた。
 お母さんの言う通りに、聡子は絵を描くのをやめた。かと言って何か新しいことを始める気にもなれず、目標を失って張り合いのない日々が続いた。
 朝も出かける準備をしてそわそわすることがなくなったので、妙に余裕ができてしまった。聡子は台所に立って、朝ごはんの用意をするお母さんの手伝いをしさえした。
「珍しいねえ」とお母さんは言った。「これからもっと早く起きて、お父さんの朝ごはんの用意もしてくれたらどう?」
「うーん。無理だと思うよ」と聡子は言った。
「無理じゃないよ。あんたはね、一度本気で変わろうとしてみるといいんじゃないかと思うよ」
「変わる?」
 お母さんが急に何を言い出したのか、よくわからなくて聡子は戸惑った。
「私別に、変わりたいなんて思ってないもん」
「だからだよ。あんた、自分は今のままでいいと思ってるでしょう?」
「今のままじゃ駄目だって言いたいの?」
「そういうこと言ってるんじゃなくてね。自分は本当に今のままでいいのか、本当はどんな自分になりたいのか、真剣に考えてみてもいいんじゃないの、ってこと」
 お母さんが珍しく人生訓みたいなことを言うので、聡子はびっくりした。
「私は……別に今のままでいいよ。変わりたくなんかないよ」
「そう。それならそれで、別にいいけどね」
 お母さんはあっさりそう言って、自分の作業に戻った。聡子はペースを崩されて、ぼんやりしてしまった。
「目玉焼き、焦げてるよ」
 言われて、慌てて火を消した。
 お母さんはそれきりその話には触れず、聡子の宿題の話や、絵の話ばかりして、いつものように忙しそうにパートに出かけていった。
 朝ごはんが終わり、お母さんが出かけてしまうと、聡子は居間の隣の和室に移動して、座卓の上に宿題を広げた。おばあちゃんが寝室に使っている、仏壇のある部屋だ。おばあちゃんは何かと忙しく立ち働いていて、部屋にいないことが多かった。
 宿題にも、集中できなかった。何分か経つと、じきに聡子の気は散って、ぼんやりと宙を眺めたり、考え事に沈んだりしてしまうのだった。
 座卓の天板にぺたんと頬をつけ、聡子は部屋を眺めた。おじいちゃんの写真が見下ろしている。まっすぐ聡子を見ているようだ。聡子の知らないおじいちゃん。聡子が生まれる前に、死んでしまったという話だ。押入れの襖を見ていると、いつか見た夢が思い出された。空き家の子供になっている夢。空き家の押入れに逃げ込む夢だ。
 音のない部屋でぼうっとしていると、やがて記憶の中から呼ぶ声が聞こえてきた。例の声。何度か聞いた、あの声だ。
 いーれーてー……
 あーそーぼー……
「ごめんね。遊べなくなっちゃったよ」と聡子は呟いた。
 どうして?
「だって、遊びに行けなくなっちゃったんだもん。入り口が閉められちゃったの」
 きてよ。おいで。
「だから、行けないんだよ」
 聡子は座卓に伏していた上体を起こした。きょろきょろと周りを見回す。当たり前に誰もいない部屋。隣の居間にも、その向こうの台所にも誰もいない。
 聡子はランドセルから図書室で借りた本を出し、柱にもたれて読み始めた。魔法学校の五年生の少女についての物語。一学期から夢中になっているシリーズの一冊だ。
 好きな本を読んでいれば、他のことを忘れることができる。物語の舞台と登場人物がすべてになって、現実の心配事やなんかは心から締め出してしまう。いつもなら、そうだ。だけども今は、それでもやっぱり駄目だった。
 物語の筋を追っていたはずが、気がつくと空き家と、二十年前のその暮らしについて、考えてしまっているのだった。路地に面した門の格子戸をくぐって、少女が学校へ出かけていくところを思い描く。帰ってくるときは、憂鬱だったろうなあと思いが繋がる。お父さんが、怖かったからだ。
 あの子が小さい頃は、お父さんも怖くはなかっただろう……と聡子は思った。お父さんもお母さんも優しく、家は緑の木漏れ日に包まれていた。それが、いつの間にか変わってしまった。楠の木が枝を伸ばして肥大化していくように、手入れのされなくなった庭が荒れていくように、変化は長い時間をかけて着実に進み、そして気づいた頃にはもう元には戻れなくなっている。
 そして戻れなくなった時、あの子の周りには誰もいなかった。お父さんはお話に出てくる鬼になってしまい、お母さんはお父さんの味方だった。家は奥まった路地にあり、楠の木に蓋をされて、誰の目にも触れなかった。
 いや、多くの人が気づいてはいたんだ。噂という形で。でも証拠がないから、証拠がない非難は陰口だから、誰も何もしてくれなかった。
 そんな暗い影の中で、あの子は一人きり。誰もあの子を助けてくれなかった。
 不意に聡子は、自分が見て見ぬ振りの一員になっていることに気づいた。あの子の境遇に気づいている。呼びかける声も聞いている。でも助けには行こうとしない。面倒だし、所詮は他人ごとだから。
 違う違う、と聡子は自分に突っ込んだ。助けに行かない訳じゃない。助けることができないんだ。だってあの子は、もう生きてはいない。幽霊なんだから。
 でも……と聡子はまた考える。幽霊であっても、してあげられることは、何かあるんじゃないだろうか。
 考えてみれば、死んでから後の方がずっとひどいんだ。死んだ後、二十年もの間、あの子は真っ暗な空き家に閉じ込められてきた。天国にも行けず、生まれ変われもせず。朽ちてじめじめした、黴と枯れ葉の匂いが立ち込めた闇の中で。
 歳もとらず、大きくもならず。死んだ歳で時間が止まったまま、永遠に大人にもなれないで。
 あの子の呼びかけに答えてやるべきなんじゃないか。ただ前のように会いに行くだけでも、あの子のためになるんじゃないか。そう考えると、今すぐ空き家に出かけていきたくなったけれど、でももう中に入ることはできないのだ。
 どうにもならない。堂々巡りだ。そして、その間に本のページはまるで進んでいなかった。

 お盆休みになった。お父さんは何日か家にいたけれど、疲れてごろごろしていたので特にどこにも行かなかった。お母さんのパートはいつも通りだったので、聡子の毎日も特に何も変わらなかった。
 お盆休みが終わったら、夏休みも終わりに近づいていく。このまま、空き家に行けないまま、夏休みが終わってしまうと思うと聡子はいても立ってもいられなくなった。画材もスケッチブックも持たずに、聡子は空き家へ出かけて行った。
 いつものように路地に入り、ゆっくりと板塀に沿って歩きながら、聡子はどこかにもぐりこめる隙間がないか探した。小柄な聡子の体なら、無理をすれば通れる隙間があるんじゃないかと思った。小さな穴はたくさんあった……中の草ぼうぼうの様子を覗き見られる穴は。猫が抜けられそうな穴もあった。だが、聡子が通り抜けられそうな穴は一つも見つからなかった。
 注意深く見ながら進んだが、 何も見つけられないままにアパートに出てしまった。聡子は溜め息を吐いた。
 諦めて振り返った聡子は、アパートの二階の廊下にいた慶太と目が合った。慶太は二階の手すりにもたれて立って、じっと聡子を見つめていた。
 聡子は恥ずかしくなった。まだ空き家への執着心を捨てられず、いじいじとうろつき回っているところを見られた。
 顔を背けて、聡子は足早にアパートの前を通り過ぎた。聡子が立ち去るまでの間、慶太はじっと黙って見ているだけで、何の言葉もかけなかった。

 何もないままお盆休みが終わり、長い夏休みも終わりが見えてきた、八月後半のある日。いつものように聡子はおばあちゃんと家にいて、いまいち頭に入らない本を読んでいた。チャイムが鳴って、おばあちゃんが「はーい」と玄関へ向かった。
 しばらくすると、おばあちゃんが戻ってきた。
「聡子、お友達」とおばあちゃんは言った。
「友達?」
「男の子よ」
「男の子?」
 聡子は、家に訪ねてくるような男子に心当たりはなかった。なかったが、来るとしたら一人しか考えられないが。
 玄関に行ってみると、案の定、慶太だった。
 慶太は開いた格子戸の外側に立って、所在無げにきょろきょろしていた。
「なに?」
「お前、まだ空き家に入りたいか?」と慶太が聞いた。
「え?」
「空き家に行きたいかって聞いてるんだよ。答えろよ」
「行けるの?」
 聡子は顔を輝かせた。
 しーっ、と慶太は指を口に当てて、
「方法があるんだよ。もし行きたいんだったら、さっさと用意してこいよ」
「待ってて!」
 画材とスケッチブックを取りに、聡子は二階へ駆け上がって行った。

 慶太が案内したのは、アパートと空き家を隔てる狭い隙間だった。アパートの側には大きな貯水槽があり、高い金網のフェンスがそれを囲んでいる。空き家の側には木の塀がある。このあたりの塀は、聡子もこの間調べた。通り抜けられる穴はなかったはずだが、もしかしたら見落としていたのだろうか。
 と思っていたら、慶太は貯水槽を囲む金網にとりついて、よじ登っていった。足を金網の隙間にねじ込んで、器用にするすると、あっという間に慶太はてっぺんまで登った。てっぺんまで登ると、空き家の塀と同じ高さだった。そこからどうするのかと思っていたら、空き家の塀からはみ出した木の枝に向けてにじり寄って行く。楠ほどではないが、かなり大きなナラかカシの木、ドングリの木だ。塀を乗り越えて張り出した枝を慶太は掴み、素早く枝に乗り移って、サルのようにスムーズに、塀の向こうへ降りて行った。
 聡子はびっくりしてその様子を見ていた。これを登れって?
「おい。こっち」
 慶太の囁き声。見ると、塀に空いた小さな隙間から、慶太の顔が覗いている。聡子は近づいた。
「登れるか?」と慶太は囁いた。
「えっ……どうかな。わからない」
「やってみろよ。ただし、素早くな。ぐずぐずしてると、見つかるからな」
「素早くって言ったって……」
「荷物はここからよこせ」
 言って、慶太の顔は後ろに退き、かわりに手がぬっと出た。聡子はスケッチブックを渡し、それから画材のバッグを肩から下ろして手渡した。
 聡子は金網を見上げた。ところどころ錆びた、青い色が日に焼けて白に近くなった金網。空き家の板塀と共に、二メートル以上の高さがある。聡子は塀の方に戻って囁いた。
「ねえ。行ったはいいけど、戻って来れるんでしょうね?」
「大丈夫。木を登ればいいんだから。登れるだろう?」
 どうだろう、と聡子は思った。登れるかどうかは、行ってみなければわからない。行ってから、もし登れないとわかったら、どうしたらいいんだろう。
「早くしろよ。見つかったら、このルートも駄目になる」
 聡子は金網の前に戻った。見上げて、気合いを入れる。金網にしがみつき、聡子は登り出した。
 最初のうちは、コツがわからずなかなかうまく登れなかった。やがて、うまい体重のかけ方や手足の置き方がわかり、聡子はすいすいと金網を登っていった。
 てっぺんについて、周囲を見回す。アパートの二階の廊下と、路地の向こうの家の二階の窓が目の高さに見えた。ここでぐずぐずしているのが、いちばん危なそうだ。
 聡子は金網のてっぺんにまたがって、塀の向こうから伸びている枝を掴んだ。何度か手で引っ張ってみて、乗っても折れないだろうことを確かめ、思い切って聡子は乗り移った。
 女の子だが、小さい頃はよく木登りをした。緑地公園に家族で行って、お父さんとお母さんがお弁当を食べている間、丘の上に立っていた大きなエノキの木に登ったものだ。いざ木に取りついてしまうと、聡子はその頃のことを思い出した。枝から枝へ素早く動き、聡子はするすると木を降りてきた。ふう、と大きな息を吐く。
「うまいじゃないか」と慶太が言った。ちょっと見直したような目つきで見ている。
 手についた汚れと錆をぱんぱんと払って、聡子は周りを見た。草木に包まれた、空き家の庭だ。またここに戻ってこれた。懐かしい家に帰ってきたような感覚を、聡子は覚えていた。
 乗り越えたのは、穴のあるのと同じ面の塀の、ずっと路地に近い側だった。地面には大量のドングリが層を成すほどに散らばっていた。何年にも渡ってこの場所に落ちたドングリは多くが発芽して、腰の高さほどの木の赤ちゃんがあちこちで育っていた。
 薮の密度が濃く、更に曇っている天気のせいもあって、庭のそのあたりはとても暗かった。夜鳴くような虫たち、コオロギやツユムシのような虫たちが、茂みの中でリーリー鳴いていた。慶太は合図して、聡子に移動を促した。
「こっちだ」
 歩くと足下でドングリが割れ、パキッ、パキッと大きな音がした。藪の中を進んでいくと、やがて見覚えのある場所に出た。空き家の洋館と平屋。大楠の幹と、地を這うたくさんの根っこ。
 聡子は洋館の前に立って二階の窓を見上げた。あの子が見下ろして……はいなかったが、どことなく気配を感じる気がした。
 おかえり……
 と言われたような気がした。

 根っこの上にバッグを置いてその上に腰掛け、聡子は絵を描き始めた。
 慶太は少し離れたところで、背中を向けて立っていた。退屈そうに体を揺らして、洋館を見上げたり、平屋を眺めたり、している。もう帰るのかなと聡子は思っていたが、まだ帰る様子はなかった。
「慶太くん」と聡子は呼びかけた。
 ドキッとしたように飛び上がって、慶太はゆっくりと振り返った。
「ありがとうね。わざわざもう一度、ここに連れてきてくれて」
「いや……」
 慶太はすっと目を逸らした。
「元はと言えば、平井が閉め出されたのは俺たちのせいだからな。別にありがとうってことじゃねえよ」
 慶太はつっけんどんにそう言ったが、聡子は割と幸せな気分だった。
「まだ帰らないの?」
「帰るよ。でも、お前、帰りちゃんと木に登れるかわかんないだろう?」
「あっ、それで待ってくれてるの。ごめん」
「いいよ、別に。どうせ今日はやることないんだ」
 慶太は少し離れた根っこの上に座り、足下の砂をいじり始めた。聡子はそんな様子を見届けて、それからまた絵に戻った。
「家、一人なの?」と聡子は聞いた。
「今日は母ちゃんがいるよ。でも、母ちゃんがいる方が面倒なんだ。いろいろうるさいから。ここにいる方がいいんだ」
「宿題は終わったの?」
「なんだよ、母ちゃんかよ。余計なお世話だよ」
 聡子は笑った。慶太と話している分には、絵の邪魔には感じないことに気づいた。
「なあ、お前、ここにいて怖くないの?」と慶太が聞いた。絵の具を塗りながら、聡子は少し考えた。
「うーん……怖いよ。怖いけど、ここにいられないほどじゃない、っていうか」
「どうして? 幽霊なんていないから?」
「ううん、いるよ、幽霊。何度も声を聞いたし、姿も見たもの」
「マジかよ」
 慶太は目を白黒させた。
「それなのに、怖くないの?」
「怖いって。怖いんだけど……でも怖いだけじゃなくて、かわいそうっていう気持ちも大きい」
「かわいそう?」
「うん。だって、あの子は殺されたんだよ。しかも、自分のお父さんに。それで、それからずっとこんな空き家の真っ暗な中に、誰にも助けて貰えずに閉じ込められてるの。かわいそうだと思わない?」
 慶太は目を白黒させた。
「そりゃまあ……そうなのかな」
 聡子は筆を走らせた。家で描いていた時とはまるで違う。すいすいと、迷いなく筆が進んだ。
「お前、大丈夫か?」
 慶太が言った。聡子は顔を上げて慶太を見た。慶太は立ち上がって、聡子の方に近づいてきていた。
「え?」
「お前さ。もしかして、幽霊に取り憑かれちゃってるんじゃないか?」
 ふっと、呼び声や夢のことを聡子は思い出した。
「なによ、取り憑かれてるって」
「だってさ。父ちゃんに殺された幽霊だろ? きっと、ものすごい恨みの念を持ってるんじゃないのか? その恨みの念でお前に祟るとか、呪いをかけるとかってこと、ないのか?」
「まさか。そんなことないよ」
「そうか? それなら、いいんだけど」
 もうその話はしたくないと言うように、聡子が顔を背けて絵に集中したので、慶太は所在をなくして、また元の位置に戻った。
 黙って筆を走らせながら、聡子は思いを巡らせた。
 取り憑かれている? そうかもしれない。奇妙な夢、呼びかける声。空き家に入れなくなってからは、ずっと頭から離れなかった。正に、あの子に呼ばれているように。
 でも、だからといって、祟りとか呪いなんてことは言えないはずだ。淋しければ、来てほしいと思って呼びかけるのは当たり前のことだろう。あの子はきっと、淋しいだけだ。
 あの子がそんな、「ものすごい恨みの念」を持ってるなんてことがあるだろうか?
 ぽつりと、雨がスケッチブックに落ちた。塗ったばかりの絵の具が濡れて、滲んでいく。
 はっとして顔を上げると、大粒の雨がぽつぽつと落ちてきていた。
「雨だ」
 慶太が立ち上がった。聡子は慌ててスケッチブックを閉じ、濡れないように木のくぼみに置いた。水を木の根の間に流し、絵の具を出したままのパレットを畳んで、画材をバッグに片付けていく。そうしている間にも雨は勢いを増していった。
 慶太が走ってきた。
「早く!」
「木、登れるかな?」
「無理だ。雨宿りしよう」
 慶太は洋館の方を指差した。聡子はドキッとした。
 どうぞ……と言うあの子の声が聞こえた気がしたが、それはさすがに気のせいに違いない。
 だが、今はもう考えている暇はなかった。雨は本格的になってきて、このままではせっかく描いた絵がずぶ濡れになってしまう。遠くで、雷のごろごろという音も聞こえた。
「さあ!」
 慶太が聡子の手を取って引っ張った。スケッチブックを脇の下にはさみ、バッグをぶら下げて聡子は走った。レンガの階段を駆け上がり、洋館の木戸をすり抜けて中に入る。
 洋間の暗がりの中に立って振り返ると、もう雨は豪雨と呼べるほどになっていた。激しい雨が庭を洗い、あらゆるものがぼんやりと煙って見えていた。

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