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空き家の子供 第19章 現在・冬(10)

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第19章 現在・冬(10)

 私は夢を見た。空き家の夢だ。闇の中に取り残され、パニックになっている。私の周りを、声がぐるぐると回っている。
 いーれーて……
 いーれーて……
 入れちゃダメだ、と私は思った。でも声が出ない。私の代わりに慶太が答えた。
「いいよ」
 私は絶望した。入れちゃダメなのに。
 取り留めなく、夢は移り変わっていった。闇が退き、光が溢れる。蔓草が伸びて、緑がはびこり、次々と花が咲いていく。濃厚な緑に満ちた庭に私はいて、体は小さくなっていた。子供だ。体は羽根のように軽く、土を踏むごとに空中へ飛び上がるようだった。
 視界は低く、地面に近い。あらゆるものが見上げる位置にある。大きな葉が生い茂る庭の中で、まるで小人になったみたいだ。走る足取りは軽いが、頭でっかちでバランスが悪い。何度もバランスを崩して転びそうになり、その度に一歩先へと足を伸ばして、ギリギリでどうにか踏みとどまる。その動きが面白くて、私は笑った。
 私は少女になっていた。でも、それはどっちの少女だろう? 父親に殺されて空き家に残った少女か、空き家に忍び込んで絵を描いた少女か、どっちだろう?
 どっちにしても、違いはないように思えた。今の私と違うという点では、似たようなものだ。どっちの少女も、今の私にとっては遠い他人だ。
 突然私を捉えたのは、強い喪失感だった。永久に失ってしまったものに気づいてしまった、そこから湧き上がる強い悲しみ。私にとっては意外だった。昔を懐かしむ気持ちなんて、自分にはないと思っていたから。
 夏の庭が遠ざかっていく。冷たい冬の暗がりの中へ、私は戻っていく。ひどく寒い。皮膚から染み込んだ冷気が、骨や筋肉を冷やしていく。体温が奪われ、激しい震えが止まらなくなる。
 寒さのあまりに、私は目覚めた。

 薄暗がりの中に、見慣れた木目の天井が見える。自分の部屋だ。子供時代に使っていた、今は母がミシンを置いている、その母ももう使うことのない部屋。電気は消えていて、部屋の様子は夜の暗がりの中でぼんやりと霞んで見えている。
 カチカチと音がした。自分の歯が鳴る音だ。吐く息が白い。部屋の中なのに、どうしてこんなに寒いのか?
 二階のベッドに、私は寝かされていた。瞬間、何が起きたのか思い出せない。そうだ、慶太だ。あれは柔道技だろうか? 私の知っている慶太は柔道なんてやっていなかったけれど、あの大きくなった体を見れば想像できたことではあった。
 私は慶太に絞め落とされ、二階の部屋へと運ばれた。わざわざベッドに寝かせたのは、慶太の優しさと言っていいのだろうか。それにしても寒い。部屋は夜の外気と同じ気温になっていた。窓は閉じている。廊下へのドアは全開だ。冷気はそちらから感じられる。玄関の戸が開いているのだろう、おそらく。
 慶太は言っていた。玄関の扉を開けて、そのままにしておけばいいと。慶太はその通りにしたのだろう。
 玄関から入り込んだ冷気が家の中に染み渡り、家全体を冷蔵庫みたいに冷やしている。どれくらい時間が経ったのだろう。ここまで冷えるのに、どれくらいの時間が必要だろう?
 ベッドの上で、私は慌てて上体を起こした。部屋を見回す。暗がりの中に目を凝らす。
 窓から、外の明かりが僅かに差し込んでいる。月明かりだろう、斜めに差し込む薄青い光。その微かな光の中に、逆光に浮かぶ子供の輪郭の影があった。窓に向いた机に向かい、椅子に浅く腰掛けている。窓の方を向いていて、顔は見えない。椅子から下がった足は、ぷらぷらと気まぐれに揺れている。
 私はあの子と同じ部屋にいた。冷え切った暗がりの中、手を伸ばせば届く距離に、あの子はいた。

 ベッドの上で息を殺し、私は用心深く周囲を見回した。
 ひどく寒く、あの子がいることを除けば、部屋の様子に変化はない。放置された段ボール箱も、母のミシンもそのままだ。慶太の姿は見当たらない。とっくに出て行ったのだろう。
 私を気絶させ、わざわざ二階に運んでベッドに寝かせ、部屋のドアと玄関を開けて、慶太は立ち去った。私がやろうとしていたことの逆をするために。あの子を家に呼び込んだのだ。
 あの子のために、私を残して。
 私は生贄だ。慶太はあの子に、私を捧げた。
 慶太は私を憎んでいた。あの夏、空き家であった出来事のために。だからこれは、慶太の私への復讐だ。
 一方で、慶太は疑ってもいた。あの夏の出来事が、暗示に過ぎなかったのではないかと。もしそうなら、慶太が私に復讐する理由はなくなってしまう。
 少し考えて、すぐに腑に落ちた。幽霊がいないなら、開けっぱなしの家に私を放置しても特に実害は生じない訳だ。私が風邪をひくくらいのことだ。暴漢が入るなどの可能性も低い確率ではあるだろうが、そこまで考えたなら慶太はどこか近くで見張っているのかもしれない。彼は本当に、見張りが得意なのだから。
 幽霊がいるなら、慶太は復讐を達成する。どちらに転んでも、慶太にとっては問題がない。私にとっては大問題だ。
 ベッドの上でできるだけ体を動かさず、あの子の姿を凝視する。あの子が私に気づいているそぶりは見えない。あるいは、ただ無視しているだけかもしれない。気配を消そうとするけれど、体の震えが止められない。歯がカタカタと鳴ってしまう。
 寒さは異常だった。ただ玄関が開いているだけで、ここまで冷え込まないだろう。子供が気温を下げている。この場所を、あの空き家の奥にしようとしているのだ。
 空き家の奥の闇の深さを、私は思い出した。体だけでなく、心も凍らせる冷たい闇。あそこには二度と戻らないと私は誓った。それだけは絶対だと思っていたのに。
 あの子がただいるだけで、ここはあの日の空き家になっていく。
 ベッドの上で少しずつ移動して、子供から距離をとっていく。足元の方へとずりずりと移動し、ベッドから降りようとしたところで、足に絡まったシーツを引っ張ってしまった。シーツに乗った枕がベッドの上を滑り、子供の側に落ちた。ぼふっとくぐもった音がして、子供が反応した。足の揺れが止まり、ゆっくり振り返る。
 子供がこちらを向いた。白い顔。暗がりの中でも、その異様な白さがわかる。小さな子供の輪郭の中に、ぶよぶよとした、年老いたゴムのような皮膚がある。肌には皺が寄り、ところどころにどす黒い染みが浮いている。白目のない目は灰色で、死んだ魚の目のようだ。
 死者の目が、私をじっと見つめた。温度が、またいくらか下がった気がした。離れていても体温が吸い取られていくようだ。死の力、不在と欠落の力が及ぶのを感じた。空き家の力だ。
 子供は、空き家から力を得ていた。私がここにいようがいまいが、この家はもう既に空き家なのだ。
 立ちあがろうとして足に力が入らずバランスを崩し、ベッドの足元に崩れ落ちて、私は尻もちをついた。月光をバックにしたあの子の影が、私を見下ろす。
 私が誰か、わかっているのか。その虚ろな表情からはわからない。ただ無の視線で、彼女は私を見つめていた。天敵に睨まれた昆虫のように、私は動けない。やがて、あの子の声が聞こえてきた。
 ……ちょうだい。
 ……を、ちょうだい。
「何を……」言いかけて、私は激しく咳込んだ。話すと同時に入ってきた冷気で、肺が刺すように痛い。鼻水と涙が流れ、視界は滲んだ。あの子の影が霞んで見えなくなる。
 キキキと音がして椅子が回り、あの子が身を乗り出す。小さいはずの体が、逆光の中で何倍も大きく見えた。白い死者の顔がぬっと近づく。何度も咳をして、涎を垂らしながら、私は床を這って後退った。
 ミシンを乗せた台が、背中に当たる。いくつかの糸車が落ちて、床を転がっていった。追い詰められた私の顔に、あの子の顔が近づいてくる。口を開くと、腐った土の匂いが漂ってきた。
 ……おうち。
 おうちを、ちょうだい。
「あげるから!」と私は喚いた。「そんなものあげるから。私のことは放っておいて!」
 あの子の顔が、笑ったように見えた。椅子の方へと後退していく。椅子を回し向こうを向いて、背を向けた最初の姿勢に戻った。
 声を出したことで、私の肺は激しく痛んでいた。まるで無数の小さな針が肺の中で動き回っているようだ。咳込み、えずきながら、私は体を引きずって床を這い、開けっぱなしの部屋の出口へと向かった。
 壁にすがりつき、膝をついて、部屋を出る。廊下に出たところで振り向くと、窓から差し込む月光の中、机に向かうあの子の背中が見えた。私なんかには目もくれず、あの子は何かに夢中になっているように見えた。

 激しい苦痛の中、廊下も階段も這うようにしてじりじりと進んだ。一階まで降りると、玄関に向かう廊下に杖が置かれていた。杖を持ち、何度も倒れそうになりながらどうにか立ち上がって、私は玄関から外に出た。玄関の木戸は全開になっていて、夜に向かって開かれていた。
 空を見上げると、満月に近い月が出ていた。白い月。凍てつく冬の月だ。だが今となっては、中よりも外の方が暖かいように思えた。夜の空気を吸い込むと、最初激しくむせたが、次第に肺の痛みは楽になっていった。
 空き家の空気。毒の空気だ。それを追い出すように、私は夜の空気を貪った。
 いつものように、夜の通りにひと気はなかった。周りの家もほとんど明かりが消えて、ただ常夜灯が灯っているだけだ。家に向き直り、二階の窓を見上げる。曇りガラスの窓は暗く、闇に溶け込んで人影は見えない。誰かがいるようには見えない……空き家に見えた。
 あの子は、空き家を手に入れた。これであの子は滅びることはない……けれど、空き家はあの子を閉じ込める檻でもあるはずだ。この家が空き家である限り、あの子はここから出て来れない。
 勝ちだ。私の勝ちだ。思わず笑いが込み上げて、また激しく咳込んだ。むせながら玄関の戸を閉める。閉めてから、鍵を持っていないことに気がついた。鍵はどこだ。ハンドバッグの中だ。ハンドバッグは……居間のテーブルの上だ。
「ちくしょう」と私は声に出して言った。「ふざけやがって。くっそ、ふざけんな」
 散々一人で毒づいてから、私はもう一度玄関を開け、家の中に入っていった。鍵を閉めなければならない。そうしないと、空き家は完成しない。
 靴も脱がずに、廊下に上がる。せっかく回復した肺に、また空き家の毒気が流れ込んでくる。息を止めることも考えたが、途中で息が続かなくなって、大きく呼吸してしまう方が危険だ。浅く息をしながら、私は必死で杖を使い、冷え込んだ奥へと向かっていった。
 居間に入り、テーブルの上のハンドバッグを取る。他にも持ち出したいものはあるはずだが、今はそんな余裕はない。脇目もふらず、私は玄関へ引き返した。心を空っぽにして何も考えず、ただ玄関を目指して歩いた。階段の前を過ぎる。緊張して、杖を持つ手に力がこもる。途端にバキッと音がして、私はバランスを崩した。杖が折れたのだ。私はつんのめり、顔を廊下に打ちつけた。
 慌てて顔を上げる。鼻から、大量の血がボタボタと流れて廊下に落ちる。反射的に階段に目をやるが、ただ二階へ続く暗がりがあるだけだ。その暗がりの奥から、あの子の笑い声が聞こえてくる……。
「くそやろう!」と私は喚いた。持っていた杖の残骸を、階段に向けて放り投げた。
 廊下に膝をつき、壁を伝って、私は玄関へと這っていった。靴を蹴散らして外に出て、地面に座り込んだままで戸を閉める。ハンドバッグをひっくり返して鍵を見つけ、膝立ちで手を伸ばして、鍵をかけた。
 カチリと音がして、確かに鍵が閉まる。小さな掛け金がかかるだけの頼りない鍵だが、鍵の丈夫さは関係ないはずだ。家を閉ざして、玄関に鍵をかけたという事実が大事なのだ。
 私は家を出た。住む人はもう誰もいないから、この家は空き家だ。空き家の中で、あの子はこの先も長いこと存在し続けるのだろう。かつてそうだったように、空き家がある限りは永遠にでも。でも、家から出ることはできない。空き家という牢獄の中に、再びあの子を閉じ込めたのだ。
 地べたに座り込み、玄関に背中を預けて、私は笑った。肺はまだ痛いし、鼻血は垂れているし、涙と鼻水で顔はめちゃくちゃだったけれど、構うことはなかった。
 十五年を経て、私はあの子に勝ったのだから。

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