見出し画像

空き家の子供 第9章 現在・冬(5)

第1章へ / 第8章へ / 第10章へ

第9章 現在・冬(5)

 祖母は真夜中過ぎに臨終を迎えた。両親と私が最期を看取った。既に意識もなくなっていて、ただ装置の数値を見守るだけ。私は強い感慨は感じなかった。
「とにかく、一旦家に帰りなさい」と父が言った。「お父さんとお母さんは、まだいろいろとやることがあるみたいだから」
「私も手伝うよ」
「私たちだけで大丈夫よ」と母が言った。「どうせ、待ち時間が長いみたいだから。疲れたでしょう。家に帰って休みなさい」
 なんだか両親とも優しくて、私は居心地が悪かった。
 看護士さんが、祖母を載せたベッドを別室へ運んで行った。死後の処置をして、それから寝台車の到着を待つようだ。確かに待ち時間が主になりそうなので、私は帰ることにした。
「明日、会社は休める?」
 母が聞いた。
「休めるなら、なるべく早めにうちに来てくれると助かるけど」
「休めるよ。忌引きだもの。お通夜は明日? あさって?」
「さあ。まだそれも何とも」
「決まったら知らせるよ」
 私は病室を出た。深夜の、末期病棟の廊下。気持ちのせいかもしれないが、どこか独特の暗い澱のようなものが、空間に漂っているような気がしてならなかった。エレベーターに向かおうと振り返って、廊下を歩き出し、顔を上げる。
 長い廊下のずっと向こうに、あの子が立っているのが見えた。
 私は立ち止まって、挑むようにまっすぐに見た。怖くないよ。疲れてるんだ。ほっといてくれ。
 あの子は動かなかった。呼びかけてくる声も聞こえない。ただ何か言いたげに、遠い廊下の端っこにぽつんと立っているだけだった。 
 構わずに、私は歩いていった。ことさらに足音を立てて、長いまっすぐな廊下をどんどん歩いて行く。見ると、向こうもこっちに向けて歩いてきている。あの子との距離は縮まっていく。
 ずいぶん歩いてから、私は気づいた。あれは、私だ。
 廊下の途中に、ガラスの仕切りがあるのに気づいた。昼間は開けたままのガラスの扉が夜には閉じられていて、鏡のようになっていた。いつもより廊下が長いように思えたのは、鏡に映っていたからだ。長い廊下の端にぽつんと立っていたのは、あの子ではなく私自身の鏡像だった。
 子供ですらない。大人の私が鏡に映った姿だった。私は苦笑いした。これでは、ストレスのせいの妄想だと言う大塚の説を否定できない。
 角を曲がり、ナースステーションの前を通って、私はエレベーターに乗った。真っ暗なロビーに出て玄関に向かいながら、タクシーを呼んでから部屋を出れば良かったと、私は後悔した。もう電車はないだろう。子供の影に怯えながら、タクシーを探してうろうろするはめになるのは、考えただけで面倒だ。
 灯りの消えたロビーを横切って歩いて行く。無人のベンチがずらりと並び、四角い柱が一定間隔で並んでいる。その柱の影のどこかに、あの子がいる気がしてならない。気にしないように、無視するようにと思うけれど、それでも予感して不安になるのを止められなかった。
 本当にいなくてもいいんだ。ただ予感を感じさせるだけで、私は不安になってしまう。空き家の子供に勝つ為には、もっと図太くならなくちゃいけない。
 病院を出ると、ちょうどタクシーが一台車回しに停まっていた。私はほっとして、合図をして乗り込もうとした。
 運転手が窓から顔を出して、
「ごめんね、今お客さんを待ってるところなんだよ」と言った。私はがっかりした。
 だが、彼が無線でもう一台のタクシーを呼んでくれた。ほどなくやってきたタクシーに乗り込んで、私は家へと向かった。
 長い夜だ。私は溜め息を吐いた。昨夜もよく眠れていないから、慢性的な寝不足で頭の芯がしびれている。眠いのに、目を閉じても眠気がうまくやってこない。手足がずっしりと重かったが、一方ではじっとしていられない、落ち着かない気分があった。
 体のバランスが、大きく崩れてしまっている。このままじゃ病気になるだろう。つまり、これが呪いというものだ。幽霊を信じようが信じまいが、呪いはあるとしか言えない。大塚も、認めるしかないだろう。
 もしもこれがこの先、何か月も、何年も続いたら。
 死ぬようなことにも、なるかもしれない。つまり、呪い殺すということだ。

 自宅のマンションに着いた時には、もう深夜二時近くになっていた。
 結局、タクシーの中では眠れなかった。タクシーを降りて立ち上がるとき、私は僅かにふらついた。足下がふわふわして、地に足がつかない感覚があった。
 夜中でも煌々と明るいマンションのエントランスで、鞄から鍵を取り出すのに手間取る。その間にも、周りが気になった。玄関の外の植え込みの影。死角になっている柱の向こう。至るところに、誰かが隠れている気がしてしまう。ガラスに反射する自分自身の影に、何度かはっとすることを繰り返した。ようやく鍵を見つけて、私は急いでマンションに入った。
 エレベーターを待つ。なぜかエレベーターは最上階の八階にいて、降りてくるのに時間がかかる。ドアの右上に小さなモノクロのモニター画面があって、エレベーターの中を映している。天井から見下ろす、監視カメラの画像だ。解像度の低い映像に、何かが映っているような気がしてしょうがない。カメラに映るぎりぎりの場所に誰かが立っていて、その影だけが見えているような。ちょうど、子供の背丈の何者かの影が。
 ポーン、と音がして、ドアが開いた。緊張して、私は身構える。開いたドアの向こう、明るい光に照らされたエレベーターには、もちろん誰も乗っていない。
 私はエレベーターに乗り込んだ。4のボタンを押し、ドアが閉まるのを見守る。壁に背をつけて、ボタンのすぐそばに立った。
 ここにあの子がいたのか……それとも私を惑わす錯覚に過ぎなくて、もともと誰もいなかったのか。私にはわからなかった。何の気配も感じなかった。
 四階に着き、ドアが開いた。外廊下を歩いて、自分の部屋に向かう。不意に、強い風が吹いた。突風のような冷たい風が吹き抜けて、私の体は浮きそうになった。一瞬、ひやっとする。まさか、風に吹かれて手すりを乗り越えて落ちるなんてことはないはずだけれど、それでも一瞬落ちるかと思った。心臓が激しく打った。
 部屋に入ると、私はすべての部屋の電気をつけていった。部屋の中を見回して、何か変わったことが起きていないか確かめる。あの子がここにやって来るなんてことはない。ないはずだけど。異常がないことを確かめて、つけられるだけの電気をつけると、ようやくいくらか安心できた。
 電話の留守録ランプが、赤く点滅していた。スイッチを押すと、大塚の声が流れてきた。
「俺だ。大丈夫か? もし俺に何かできることがあったら、いつでも遠慮しないで言ってくれ……れれれれぐぼぎぎぎぎぎ、ぎゃわぶらぎわわわわわ」
 声が歪んで意味不明なノイズになった。私は慌ててスイッチを切った。
 私はクッションを掴んで、電話の上に叩き付けた。

 少しは眠ることができた……だが、やっぱり怖い夢も見た。
 とりとめのない夢だった。空き家の庭の夢。空き家の中の、黴臭い闇の夢。祖母が闇の中に佇んで、責めるような目で私を見ている。
 目覚ましの音で起きた時にも、結局ほとんど疲れはとれていなかった。
 朝になり、明るくなってみると、いくらか冷静さを取り戻すことができた。私は浴室に行って、シャワーを浴びた。昨夜は背後が怖くて、到底シャワーを浴びる気にはなれなかったのだ。
 熱いシャワーを浴びながら、何度も背筋がひやっとする。背後に、子供が立っている気がしてしょうがない。その気配、首筋にかかる吐息を感じた気がする。何度も振り返って、背後に誰もいないことを確かめる。
 浴室を出ると、電話がくぐもった音で鳴っていた。私はクッションを取りのけて、受話器を取った。母だった。
「おはよう。大丈夫? 眠れた?」
「うん。そっちこそ大丈夫? 寝てないんじゃないの?」
「そうだね、寝てないよ。おばあちゃん、今朝方うちに帰ってきたよ。あんたはいつ頃来られる?」
「今から準備して出るよ。1時間以内には行けると思う」
「そう。助かるわ。でも無理しないでね」
 私はできるだけ何も考えないことにして、てきぱきと朝の準備をこなした。頑張って、朝ごはんさえ食べた。お腹は減っていなかったが、なんとか食パンを半分、コーヒーで飲み下した。
 とても寒い朝だった。昨夜以上に冷え込んでいて、道ばたに停まった車のガラスにはうっすらと霜が降りていた。吐く息が白くなった。コートを着込み、マフラーを巻いて、私は実家へ向かった。
 電車を乗り継いで、午前八時には実家に着いた。祖母の遺体は、居間の隣りの和室に安置されていた。祖母が使っていた介護ベッドがそのまま使われ、白い布を被ってそこにいた。
 私は線香をたむけて手を合わせ、死化粧の祖母と対面し、それから再び布を被せた。
「きれいなお顔でしょう?」と母が言った。「昨日あんたが見た時はもっとやつれた感じだったでしょう。さすがなもんよね、プロがお化粧すると」
「なるほど」と私は言った。「お父さんは?」
「また病院。入院費を支払わないといけないから」
「亡くなったばっかりで、もうお金?」
「亡くなるってことは退院ってことだからね。お金払わないといけないのよ」
「そうか」
 母が出かける準備をしていることに、私は気づいた。
「お母さんも出かけるの?」
「うん、葬儀屋さんに、打ち合わせ」
「来てくれるんじゃないんだ」
「会場を見ないといけないんだって。あんた、留守番してくれる?」
 私はドキッとした。
「ええ、まあ」
「よかった。いくら鍵かけるっても、おばあちゃん一人にして出かける訳にはいかないからね」
 しばらくバタバタしたあげく、母は出かけて行った。私は母が出ていくとすぐに玄関の鍵を閉め、祖母と二人で残された。
 賑やかな母がいなくなると、家はしんと静まり返ったように感じられた。あの時と同じだ。空き家が壊されたことを知って見に行って、子供を連れて帰ってきた日。あの時も母が出かけて、私と祖母の二人きりになった。違うのは、祖母が生きていないというそれだけだ。
 私一人ではなく、祖母がいるという事実が……遺体になった祖母がいるという事実が、慣れたはずの実家の雰囲気をいつもと違うものにしていた。和室にいる祖母は、生きていた時よりずっと大きな存在感を持っているように、私には感じられた。
 和室に戻って、私はしばらく祖母の前に座っていた。シーツを被った祖母を眺め、祖母との思い出について記憶を辿った。だが、今の私には、きょとんとした顔で「どちらさまですか?」と問いかける祖母の顔しか浮かんでこなかった。
 私は祖母の前を離れて、居間に移ってテレビをつけた。朝のワイドショーが流れてきた。しんとした空気を振り払いたくてつけたテレビだったが、空気はあまり変わらなかった。居間にいてもちらちら顔を上げて、隣りの部屋にいる祖母の方ばかり窺ってしまった。
 居間のテーブルに向かい、どうでもいい内容のテレビを見ていると、今頃になって眠気がやってきた。私は頬杖をついて、何度もかくんとなっては起きるのを繰り返した。留守番なんだから、眠っては駄目だ。眠りたい時には眠れないのに、眠っては駄目だと思うと眠気に勝てなくなってしまう……。
 私は自分の頬をぴしゃりと叩き、台所に行ってお湯を沸かしてコーヒーを入れた。いつもより濃いコーヒーを入れて、台所で立ったままで飲む。熱くて苦いコーヒーが体に染みていった。眠気は去るというより、夜中に目が冴えて眠れない時のような、頭がじんとしびれたような状態になった。
 コーヒーカップを流しで洗い、居間に戻った。和室を見やる。白い布を被って祖母が寝ている。仏壇の上から、祖父の写真が見下ろしている。
 もう一度テーブルに向かって座り、私はテレビを眺めた。
 どうでもいいコメンテーターが、どうでもいいニュースについて、どうでもいいコメントを滔々と喋っている。
 それを、私はぼんやりと眺めていた。ニュースはテンポよく次々と切り替わり、新宿で起きたビル火事と、引きこもりの子供が両親を殺した事件、そして人気俳優の麻薬事件を矢継ぎ早に伝えた。
 ニュースコーナーが終わって街のレポートに切り替わり、レポーターが話題のケーキ屋さんに出かけて行った。私はリモコンを取ってチャンネルを替え、一回りして元のチャンネルに戻して、またリモコンをテーブルに置いた、その時。
 玄関のチャイムが鳴った。まただ。
 私は立ち上がる気にはなれなかった。何も聞こえない振りをして、テレビを眺め続けた。
 聞こえない振りをしているのに、玄関の方に耳を澄ましてしまっている。待っていたが、二回目のチャイムは鳴らなかった。安心して少し気を抜いたところで、
 バンバンバンバン!
 玄関の戸がすごい勢いで叩かれた。私はびくっとして上体を起こした。
 休止。数秒の間。そしてまたバンバンバンバン!
 誰かが木戸を叩く音だ。激しく四回叩いては、止まる。しばらく止まっていて、またバンバンバンバン!と鳴る。それが、しつこく繰り返されている。
 私は両手で耳を押さえて、テーブルに伏した。
 バンバンバンバン! まだ止まらない。
 バンバンバンバン!
 私は実家の玄関の頼りない木戸のことを思った。あの勢いで叩いたら、簡単に木戸ごと外れてしまいそうだ。
「やめて!」
 私は叫んだ。
「いくら叩いても、入れたげないよ! どっか行って!」
 いーれーて。子供の声が言った。
「嫌だったら!」
 声が止んだ。気配もない。間隔が空いたが、音も鳴らない。いなくなったのか……と思ったら、また声がした。
 おばあちゃんを、ちょうだい。
 私はぞっとした。
「駄目よ」
 おばあちゃんを、ちょうだい。
「駄目だったら!」
 もう一度音が鳴った。バンバンバンバン!
 私は耳を押さえて、聞こえない振りをした。
 バンバンバンバン!
 いーれーて。
「嫌だ!」と私は叫んだ。
 それを境に、しんとした空気が戻った。
 私はテーブルにしがみついていた。テレビではリポーターが皿に山盛りにしたケーキをむしゃむしゃ食べていた。それを見ていれば現実に繋がっていられるというように、私はリポーターがケーキを噛んでは咀嚼するさまを食い入るように見つめていた。

第10章へ

#創作大賞2024 #ホラー小説部門


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?