空き家の子供 第12章 過去・夏(6)
第12章 過去・夏(6)
少し迷いがあったけれど、聡子はやっぱり空き家へ向かった。描きたい絵のことを思い浮かべると、気持ちがうずうずしてきてしまった。それでもまだ迷っていた聡子の背中を、最終的に押したのはお母さんの一言だった。
「今日は絵はやめときなさいよ」と、出かける際にお母さんは言った。
「どうして?」
「毎日描かなくたっていいでしょ? 勉強でも友達と遊ぶでもいいけど、もっと為になることしなさい。だいたい、そんなにいっぱい描いてどうするの?」
反発心がむくむくと立ち上がり、聡子は今日も空き家に行くことを決めた。
おばあちゃんのお守りには紐をつけて、首からかけてあった。シャツの下の素肌の胸に、お守りの厚みが頼もしく感じられた。
いつものように穴をくぐり、庭の影の中に立った。毎日通っていると庭の植物の配置も覚えてきて、昨日はつぼみだった花が開いているのに気づいたりもした。八月に入り、庭の緑は更に濃さを増していた。昼顔の花は萎れて見えなくなってしまい、代わりに大きな真っ赤な花が、木から垂れ下がるようにして咲いていた。
空き家を前に立つと、聡子の目は自然に二階の窓と、雨戸の隙間に引き寄せられた。隙間の向こうの暗がりをじっと見つめたけれど、今のところは何も怪しいものは見えなかった。
セミが猛烈な勢いで鳴いていた。茂みではキリギリスが独特の抑揚で鳴いていた。聡子は場所を決め、いつものように虫除けスプレーを撒き蚊取り線香をセットして、絵に取り掛かった。描き始めてしばらくすると、余計な思いは消えて色と形が心の中を占めていった。
茂みがガサガサと揺れる音で我に返った。ドキッとして、聡子は胸のお守りを握り締めた。
茂みから出てきたのは、猫だった。前に見た白と黒の猫だ。聡子に気づくと上目遣いに睨みつけ、にゃあと鳴き声を上げた。
「怖がらなくっていいよ。おいで」と聡子は囁いた。
手を差し伸べてみたが、猫はかえって飛び退いてしまった。聡子の座っている場所を迂回して、空き家の方へと歩いていった。その間も、警戒の視線はじっと聡子から外さなかった。
「縄張りの邪魔をしてるのはこっちの方か。ごめんね」
聡子から程よく距離をおいた位置に猫は座って、体の毛を舐め始めた。
ひと休みすることにして、聡子はペットボトルの水を飲み、タオルを出して汗を拭った。途中の絵を見直してみる。自然と、影や顔が隠れていないか探してしまう。二階の窓にも雨戸の隙間にも、今のところ何も描いてはいないようだった。
スケッチブックを置いて聡子は立ち上がり、伸びをした。猫がぴくりと反応したけれど、逃げることはなくすぐに毛づくろいに戻った。
家を眺め、聡子はおばあちゃんの話を思った。何十年も前だけれど、ここにも家族が住んでいたんだ。お父さんとお母さんと、女の子。おばあちゃんはいないけれど、うちと似ている。あまり幸せな家族では、なかったようだけれど。
その頃の様子を、聡子は思い描いてみた。洋館は、きっとおしゃれな建物だっただろう。日本でなく、外国の家みたいに。
板壁は白く、赤い屋根が載るとまるでおもちゃの人形の家みたいだ。二階の窓は開け放たれ、きれいなカーテンが風にたなびいていただろう。
一階の木戸も開かれて、今ほど巨大化していない楠からの木漏れ日が、部屋の中まで届いている。戸外の気持ち良さを取り入れる、テラスのような部屋だっただろう。テーブルや椅子、ソファが置かれ、そこでお茶を飲んだらきっと素敵だったに違いない。
平屋の方も、歪んだりしていなくてきれいだ。雨戸はすべて開かれ、庭に面した縁側が見える。日よけに簾なんかが、かかっているかもしれない。襖で仕切られた畳の部屋がその奥に見えている。薄暗いけれど、気持ちの悪い暗さじゃない。風通しが良くて、涼しげだ。軒先に風鈴がぶら下がっていてもいい。楠の梢を揺らす風が吹くと、風鈴はちりんとかわいい音を立てる。
お父さんは洋間で、新聞を読んでいる。昔の人だから、家では浴衣を着ている。灰皿の煙草から、煙が立ち昇っている。お母さんは畳に座って、よちよち歩きの娘を見ている。微笑ましい笑顔。まだ立ち上がったばかりの女の子は嬉しそうに、お母さんの方へよちよちと歩いていく……。
自分の中にありありと浮かんだイメージに、聡子はびっくりした。全部自分の想像でしかないはずだけれど、でもあまりにも真に迫っていた。この場所に残る何かが、聡子に働きかけているのかもしれない。
庭も、きれいだっただろう。下草は刈られ、伸び放題の雑草もない。植木も程よく手入れされて、整った形をしている。花壇の近くには赤い屋根の犬小屋があって、鎖で繋がれた犬が昼寝をしている。
近所の子供達が、庭の中に入ってきている。犬と遊んだり、花壇に来るチョウを追いかけたりするために。今のところは、お父さんも寛容だ。娘の友達が庭を自由に駆け回るのを、優しく眺めている。今のところは、まだ大丈夫。
子供達の声が、花が溢れる庭で聞こえている。新しい子がやって来る度に、こんなやりとりが繰り返される。
いーれーてー……
いーいーよー……
あーそーぼー……
早送りのように、時間が経過していく。
暗い影が、差してきた。楠の木が伸びていく。徐々に大きく伸びていって、気がつけば庭全体を影で覆い尽くしてしまっている。明るい陽射しが射さなくなり、きらめく木漏れ日もなくなった。洋間に光は届かず、和室は暗さを増していく。心地よい日陰はいつしかただじめじめとした暗がりになり、庭木も手入れされず荒れ始めた。
何があったのだろう? おばあちゃんが言っていた、「いろいろな不幸」という奴だろうか。
庭からは子供達の声が消えた。この家の少女一人が残されて、広い庭に一人きりだ。いつの間にか、犬もいなくなってしまった。犬小屋はバラバラに分解されて、木材は庭の隅に積まれた。
一人きりの荒れた庭で、少女は呟きを繰り返している。
いーれーてー……
あーそーぼー……
おいで。声がした。洋館の二階の窓。カーテンが風に揺れる窓から、少女の父親が外を見ている。
おいで。父親が少女を呼んでいる。行きたくないけれど、行かない訳にはいかない。行かなければ、ひどいお仕置きをされるから。行っても、きっとひどいお仕置きをされるのだけど。
聡子の意識は少女の視線で、複雑に入り組んだ廊下を進んでいた。廊下の板はギシギシと不気味な音を立て、外の光が届かないのでとても暗い。襖で仕切られたいくつもの部屋が連なっているが、どの部屋もどんよりと影に沈んで、まるで何か悪いものが澱になって淀んでいるように見える。
いちばん奥の暗い部屋、大きな仏壇が置かれた部屋。その部屋でお父さんが待っている。お父さんの姿をしているけど、中身はお父さんじゃないものが。少女にお仕置きをするために。
怖さが限界に達して、少女は廊下の途中で回れ右して、泣きながら逃げ帰っていく。パタパタと、少女の裸足の足音が廊下を移動していく。
だが、襖をガラッと開けて、少女の前に立ちはだかったのはお母さんだ。
お父さんのところにおいでなさい。
でないと、お父さんがお怒りになるよ。
暗い表情でそう言って、少女の肩を力強く掴み、くるりと回して前を向かせた。少女は泣いて抵抗するけれど、お母さんは肩を掴んだ手を離してくれない。そのまま背中を強引に押して、少女を前へと進ませていく。
お父さんがお父さんでないことを、少女は声高に訴えるけれど、お母さんは取り合ってくれない。
まったく、あなたはどうしてそんな子なの。
あなたがそんなだから、お父さんがお怒りになるのでしょう。
お母さんにぐいぐいと押されて、少女は廊下を進まされていく。廊下は曲がりくねって、進むほどに暗くなっていき、どろどろとした淀みを増していく。淀みの向こうにあるのは、仏壇と床の間のある奥の間だ。その部屋で、お父さんの姿をしてお父さんでないものが待っている。少女の魂を食うために。少女を虐めて、暗い喜びを得るために。
がっちりと少女の肩を掴んだまま、お母さんは奥の間の襖を開けた。
隣で猫が唸り声を上げて、聡子は我に返った。
見ると、猫が耳をピンと立てていた。何か聞こえたように、顔を上げ、全身の毛を逆立てて、緊張している。猫は空き家の方を向いていた。
幻影は消えた。元の荒れ果てた庭に、聡子は一人で立っていた。突然戻った現実の風景に戸惑いながら、聡子は目をパチパチ瞬いた。
これはただの想像じゃない、と聡子は思った。まるで、起きながら夢を見ていたようだ。聡子は首を振り、顔の周りを手で払って、白昼夢の名残りを振り払った。
隣で猫が、空き家を睨んで威嚇するように唸っている。
「どうしたの?」と聡子は猫に話しかけた。「何かあるの? もしかして何か見えてる?」
聡子はあらためて空き家を眺めた。猫は、雨戸の隙間の真っ暗な闇を見つめているようだった。あそこに何かいるのだろうか? また別の猫かもしれないが。それともやっぱり、あの少女がそこにいるのか。
聡子は歩いていって、雨戸のすぐ近くに立った。雨戸の隙間から覗き込んでみたが、まったくの闇で何も見えない。闇が濃過ぎて、目がチカチカするばかりだ。懐中電灯を荷物のところに置いてきたことに、聡子は気づいた。
足音が聞こえた。家の中のどこかを、てててと走り回る軽快な足音。長い廊下を走る子供の足音を、聡子は連想した。あれほど深い闇の中を、あんなふうに走れる訳がないのに。
聡子は楠の根元へ走り、荷物の中から懐中電灯を取ってきた。その間にも足音は走り続け、平屋から洋館の方へと移動していった。その間も猫は家から目を逸らさずに、睨み続けている。
懐中電灯を持って、聡子は洋館へと向かった。
レンガの階段を登り、戸口に立った。枯れ葉の積もった洋間に、木の葉を越した薄い光が射し込んでいる。光は入ってすぐのところまでしか届かず、あとは影がだんだん深くなる。
聡子は懐中電灯のスイッチを入れた。光は弱く、まだ暗がりの深くない場所では、ついているかどうかもよくわからない。
戸口を越えて踏み込んでいきながら、聡子は懐中電灯の光を奥へと向けた。正面の扉は、半分開いたところで止まっている。隙間から覗く暗闇は濃く、小さな懐中電灯ではまるで歯が立たない。
光を左右に向けた。花柄の壁紙が光の中に浮き立つ。ずっと日影の中にあって、ほとんど日の光を浴びていない壁紙は、意外なほどに鮮やかな色を残していた。緑の地色にピンク色の花が並んでいる。
右手の壁には、二階へ上がる階段室。左手の壁には何もなく、外から入り込んだつる草が天井まで這い上がっている。
懐中電灯を強く握り前に向けて、聡子はゆっくりと奥の扉へ近づいていった。
セミの声が背後に退き、落ち葉を踏むガサガサという音が響く。扉の隙間から覗き込み、懐中電灯の光を奥に向けた。
「ねえ、そこにいる?」と呼びかける。声は闇に吸い込まれて消えた。
懐中電灯の細い光は、ごく僅かな範囲だけしか照らさない。丸いスポットの中に、奥の廊下の壁紙が浮かび上がった。洋間の緑とは違う、クリーム色の壁紙だ。
廊下は扉の外で、左右に続いている。左手に光を向けると廊下はすぐに終わって、物入れと思われるスペースがあった。
反対側を見るためには、扉から中へ、一歩踏み入れなければならなかった。ゆっくり、慎重に、聡子は扉と壁の隙間に体を差し入れた。廊下に足を踏み入れ、反対の方向に懐中電灯を向けた。
右手に光を向けると廊下はもう少し長く続き、数メートル先で何もない壁に突き当たっている。その左側に、障子があった。紙はあちこち破れてはいるが比較的きれいなままに残っている。扉と同じように、少しだけ開いてその先の暗闇を見せていた。
「そこにいるの?」と聡子はもう一度呼びかけた。
障子の僅かに開いた隙間に立って、こっちを見ているぼんやりした影があった。
非力な懐中電灯の光では、障子の影まで届かない。女の子が確かにそこにいることはわかったが、顔も、表情も、読み取れない。
表情は見えないが、少女が嬉しがっていることはわかった。聡子が来たことを、喜んでいる。
きてくれたね……
おいで……
「暗くて見えないよ」と聡子は言った。「明るいところへ出ておいでよ」
影は答えなかった。ただじっと、そこに佇んで見ている。
不意に、聡子は不安になった。そこにいると思っていることが錯覚で、本当は誰もいないんじゃないか。女の子の影のように見えるのは、ただの障子の影の偶然のいたずら。最初から誰もいないのに、誰かいるように思い込んで、自分の中の想像の声と話している……。
そんな聡子の思いを否定するように、障子の隙間の影が動いた。手を伸ばして、聡子を誘うように手招きしている。
おいでよ……
いっしょにあそぼう……
「そんな暗いところへは、入っていけないんだよ」と聡子は言った。「どうして明るいところへ出てこないの?」
しくしくと、今度は泣き声が聞こえてきた。
「どうしたの? 泣いてるの?」
わたしはここからでられない。
「どうして?」
だって、わたしはおうちから、でられないから。
おうちのそとでは、わたしはわたしでいられなくなる。
「そうなの?」
そう。だから、はいってきて。
なかにきて。
かいちゅうでんとうがあるから、へいきだよ。
聡子は手に持った懐中電灯を見た。その小さな光は、障子の向こうに待っている濃厚な闇の前では、あまりにも非力すぎる気がしてならなかった。
少女の泣き声が聞こえてくる。
さびしいよ。ひとりぼっちで、さびしいよ。
はいってきてくれないなんて、ひどいよ。
思わず、聡子は前に進んだ。扉と壁の間を離れて、廊下の中に入っていく。
扉から手を離すのは怖かった。安全な命綱を離して、頼るもののない虚空に踏み出すような気がした。壁に手を当てて数歩進み、背後で扉が閉まったらどうしようと不安になって、それ以上進めなくなった。
「やっぱり怖いよ」と聡子は言った。
どうしてこわいの?
「だって、暗いもの。暗くてなんにも見えないのは、怖いよ」
こわくないよ。
こわくないのに。
今度は笑い声。さっき泣いていたのに、もう軽やかな笑い声が聞こえてきた。
おいでよ。
ここはたのしいよ。
まっくらだけど、あそべるよ。
いっしょにここにきて、あそぼうよ。
ころころとトーンが変わる声に、聡子は困惑した。からかっているんだろうか?
同情とは別に、聡子は少女に奇妙に歪んだ怖さを感じた。少女には、どこかとてもいびつなところがあった。
もう一歩、聡子は前へ進んだ。
懐中電灯の光が、障子の白を浮かび上がらせる。障子の向こうにいる少女も、少しずつ姿が見えてくる。
聡子と同じような、半袖のシャツにスカートの格好をしている。髪の長さもよく似ている。うつむいている顔は白い。まるで障子の紙のようだ。表情はよく見えないが、笑っていることはわかる。
おいで……おいで……
いっしょにあそぼう……
歌うように、口ずさむように言っている。その声が、もうずいぶん近くから聞こえている。
不意に、聡子は怖くなった。外の世界から隔絶されて、既に空き家の中にいて、闇の中で少女と二人きりになっている。いつの間にか人の世界を離れて、幽霊の世界に入り込んでしまったような。
くるりと振り返って、聡子は廊下を戻っていった。
いっちゃうの?
いっしょにあそばないの?
少女の声が失望に変わった。
扉に手を伸ばした時に、ギイ、と音がして扉が動いた。バタン、聡子の目の前で扉が閉まった。
外から入っていた僅かな光が失われ、扉の位置さえ見えなくなった。聡子は慌てて、懐中電灯の光で扉を照らした。
ノブに手を伸ばして握りしめ、カチャカチャと揺らす。扉は開かなかった。
「開けて!」と聡子は叫んだ。
いかないで。
もどってきて。
なかにはいって、いっしょにあそぼう。
いーれーてー……
あーそーぼー……
少女の声が、後ろから近づいてくる。
ミシリという足音が、聞こえた。
「開けてったら!」
押すべき扉を引いていたことに、聡子は気づいた。押すと、扉は難なく開いた。通り抜けた扉を、後ろ手にバタンと閉める。落ち葉の積もった洋間を前のめりに走って、聡子は空き家から外に出た。
レンガの階段を駆け下りて庭に出て、ようやく一息ついて聡子は振り返った。想像の中ではあの子が後を追いかけて来ていたが、空き家には誰もいなかった。ただ、薄暗い洋間に聡子が走り抜けた埃が立っているのが見えた。
くすくすと笑う声が聞こえた。
またきてね……
まってるよ……
と声がして、洋間の奥の扉が、ギイ……と開いた。
扉は来た時と同じ半分開いた状態になって、誘うように内側の暗闇を見せている。
楠の根元まで戻って、聡子は倒れるように座り込んだ。緊張感が強すぎて、なんだかへとへとに疲れてしまった。
見ると、猫も戻ってきていた。さっきまでの緊張を解いて木の下に座り、自分の体をぺろぺろと舐めているのだった。
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