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空き家の子供 第6章 過去・夏(3)

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第6章 過去・夏(3)

 毎日、聡子は空き家に出かけていった。二日目以降荷物に増えたのは、蚊取り線香と虫除けスプレー、蚊取り線香に火をつけるためのマッチ、ペットボトルの水が二本(絵の具用に水道水を詰め直したものと、自分が飲む用に未開封のもの)、それにペンタイプの懐中電灯が一つ。それから汗を拭くタオルを持って、帽子も被った。
 荷物を画材バッグに詰め込んで、もう片方の手にはスケッチブック。気温が上がるほどにひと気が消える町を歩いて、聡子はまっすぐアパートの裏へと向かった。左右を伺ってだれも見ていないことを確認してから、身を屈めて窓の下を駆け抜ける。それから慶太に教えて貰った板をどけて、塀の穴をくぐった。だんだんコツがわかって、狭い穴も猫みたいにするりと通り抜けられるようになった。
 毎日、微妙に座る位置を変えて、聡子は少しずつアングルの違う絵を描いていった。少し視点をずらすだけで、空き家は別の表情を見せた。偏屈で威圧的な、薄汚い頑固な老人のような表情。田舎の気のいいおじさんのような表情。外国の、イギリスあたりの上品な老婦人を思わせる表情まで。今日はどんな表情に出会えるか楽しみにしながら、聡子はスケッチブックに鉛筆を走らせていった。
 場所を決めたら、虫除けスプレーをその周りに撒く。バッグを立てて座り、マッチを擦って蚊取り線香に火をつける。蚊取り線香の匂いが漂うと、この場所に染み付いた古い匂いもいくらかましになった。姿勢が整うと、聡子は絵に集中した。
 薄暗く荒れ果てていて、埃っぽく黴臭い……そんな場所だったが、じっと腰を落ち着けていると、様々なきれいな瞬間を発見することがあった。光線の具合によって、楠の葉陰から明るい木漏れ日が射して、庭にちらちらと光の網目模様が踊った。大きな黒いアゲハチョウが音もなくふわふわと飛んできて、名前のわからない赤い花にとまって蜜を吸った。セミの鳴き声は相変わらずうるさかったが、その鳴き方にも表情の変化があることに聡子は気づいた。午前中の間ひっきりなしに鳴き続けるクマゼミは午後になると鳴き止み、アブラゼミがそれに代わった。時にすべてのセミが一斉に鳴き止む瞬間があって、そんな時には不思議なくらいの静寂が聡子を包み込んだ。
 時々慶太がやってきて、勝手に庭の隅で遊んだり、少し離れたところから絵を描く聡子を眺めたり、近づいて絵を覗き込んだりした。
 聡子の斜め後ろに立ち、絵を眺めながら慶太は聞いた。
「面白いか?」
「うん。面白いよ」と聡子は顔も上げずに答えた。
「どこが面白いの?」
「どこって……」
 聡子は絵筆を持つ手を止めた。
「描いてみると、自分では思ってもいないような絵ができあがるところかな」
「なんだよ。自分で思ったふうに描くんじゃないのかよ」
「うん」
「それじゃ、自分で描いたとは言えねえじゃん」
「うん。そうかもね」
 慶太は言葉に詰まった。聡子はまた絵筆を動かし始めた。
「描いた絵、どうすんの?」と慶太が聞いた。
「どうもしない」と聡子は答えた。
「人に見せたら、ここに入ったことがバレちゃうじゃん」
「うん。だからどうもしない」
「どうもしない絵をいっぱい描いて、どうすんの?」
「だから、どうもしないんだよ。私はただ、描きたいから描いてるだけ」
 ふうん、と慶太は言った。
 慶太は木の根元に並べて置いた聡子の荷物を物色した。その中に懐中電灯を見つけると、「平井、これ貸して」と掲げて見せた。
「いいけど」
 懐中電灯をつけたり消したりしながら、慶太は洋館の方へ近づいていった。木戸のところに立って、そっと中を覗き込んでいる。
 絵の具を塗りながら、聡子はちらちらと様子を伺っていた。戸口で慶太はしばらく迷っている様子だったが、やがて体を斜めにして、壊れた木戸の隙間から中に入っていった。洋間の暗がりの中に慶太の背中のシルエットが見え、積もった落ち葉を踏むガサガサという音が聞こえていたが、じきに影の中に見えなくなった。音も聞こえなくなり、慶太の気配は消えた。
 聡子はドキドキした。筆を動かす手を止めて、じっと空き家を見つめた。
 やがて、二階の窓の向こうに、小さな光が点滅するのが見えた。懐中電灯があちこちに向けられている光だ。窓の向こうに人影が現れた……ガラスが曇っていてよく見えないが、慶太であることはわかった。慶太は窓に手をかけて、開けようと四苦八苦している様子だ。窓を揺さぶるガタガタという音が響いて、聡子は思わず周りを見回した。誰かに気づかれやしないだろうか。
 遂に、窓が開いた。バン!と大きな音がして、聡子は窓枠が落っこちたんじゃないかと思ったが、ただ勢いよく開いただけのようだ。勢い余って、慶太が窓から上半身を乗り出した。おっとっと、とバランスをとって体を戻す。焦った顔を見せた慶太だが、見上げている聡子と目が合うとクールな表情に戻った。舞い上がった埃が目に入ったらしく、目をゴシゴシと擦っている。しばらく窓からの景色を眺めていたが、やがてつまらなそうに中へ引っ込んだ。
 しばらくすると、一階の木戸から慶太が出てきた。埃を被った体を手で払い、やっぱりつまらなそうな表情のまま歩いてきて、懐中電灯を聡子に返した。
「何かあった?」と聡子は聞いた。
「別に。何も」と慶太は答えた。
「二階はどんなだった?」
「一階と同じだよ。何にもなくて、ただ汚いだけ」
「なにも残ってないの?」
「ないよ。空っぽ」
 更に、聡子は聞いた。
「奥の方はどうなってた? 洋館の部分から、向こうの日本風の家に繋がる部分は、どんなふうになってるか見た?」
「そんな奥まで行ってねえよ。あの部屋にある階段を上がって、降りてきただけだよ」
「なーんだ」
 慶太は少しムッとした表情を見せた。
「気になるんだったら、自分で行って見てくりゃいいだろ」
 慶太は手を伸ばして、聡子が広げていたスケッチブックをひったくった。
「ちょっと、何すんのよ!」
 慶太はスケッチブックをぱらぱらめくって、聡子の描いた空き家の絵を眺めていった。
「へえ。うまいじゃん」
「いいから、返してよ」
 次々にページをめくっていき、夏休みの最初の日に描いた絵に至って、ん?と慶太は覗き込んだ。絵の一部を指差して、聡子に見せる。
「おい、ここに何かいるぞ?」
 慶太が指差したのは、聡子が描いた洋館の二階の窓。影が覗いているように、見えるところだ。
「ああ、それ?」
 聡子はちょっと意地悪な気分になった。
「それ、たぶん幽霊だよ」
「幽霊?」
 慶太は顔をしかめて、また絵に顔を近づけてしげしげと眺めた。
「女の子の影に見えるでしょ? 慶太くんがさっき立ってたところだよ」
「お前、俺をビビらせようとしてるだろ?」
 慶太は大声を出した。
「ちょっと、声がでかいよ。大声出すなって自分で言ったでしょ?」聡子は眉をしかめる。「それに、ここに幽霊がいるって言ったのも、自分じゃない」
「それは噂を聞いただけで……」
「あ、あと声も聞いた」
「声?」
「うん。あそこの入り口のところにいたら奥の方から、いーれーてー……あーそーぼー……って」
 慶太の顔から血の気が引いた。あからさまに怯えた顔をして、聡子から後ずさっていく。
「ちょっと、それ返してよ」
 慶太が持ったスケッチブックを、聡子はひったくるように取った。
「俺、もう帰るよ」と慶太は言った。聡子は答えなかった。
 塀の穴の方へ向かいながら、慶太は立ち止まって振り返った。聡子はスケッチブックを広げ、また絵に取り掛かっている。
「なあ」と慶太は呼びかけた。「お前怖くないのか? もし幽霊が本当にいたら」
「怖いよ」と聡子は答えた。
「だったら……」
「怖いけど、でも絵が描きたいから」
「お前、本当に変わってんなあ」
 そう言い残して、慶太は茂みの向こうへ駆けていった。

 絵を描くことに没頭すると、聡子の意識はいつも狭く閉じていった。色と形、遠近と角度だけが意識を捉え、意味や理屈は背景に退いた。
 でも今日は、妙に気が散っていた。慶太に話したことが気にかかって、何度も意識に上ってくるのだった。
 もし幽霊が本当にいたら、それはもちろん怖い。だが、聡子はまだ半信半疑だった。窓に描いた影は、結局はただの光のいたずらかもしれない。慶太が実際に二階に上がっても、何もなかった訳だし。
 楠の葉陰が常に光と影を複雑に彩るから、光のいたずらが起きる余地は十分にあった。それに、元々が幽霊屋敷を思わせるような建物だ。つい、そこに佇む幽霊を描きたくもなろうと言うものだ。
 呼びかける声も、あの時に思ったようにどこか外から聞こえた声だったのかもしれない……と、今となっては思えた。家の中で聞こえた物音も、正体は猫だった。
 怖いと思うと、かえって怖くなる。なんでもない景色に人影を見つけてしまったり、風の音が人の声に聞こえてしまったり、するものだ。本当は入ってはいけない場所に忍び込んで、一人きりで絵を描いているという時点で既に、まともな心理状態じゃないのかもしれない。何かを見たり聞いたりしてしまうのは、むしろ当たり前のことなのかも。
 そうだ、そうに違いない。聡子は少し安心した。そして、色と形の世界に意識を集中していった。
 聡子は、洋館の前に張り出した枝の木の葉を、一枚一枚濃淡をつけた緑色で描き分けていった。ただ色を抜き取り、形を捉えて、紙の上にもう一度置いていく。その単純な繰り返しは、聡子を夢中にさせた。
 木の枝から、洋館の二階に移った。汚れた屋根は、木々に紛れて保護色みたいに見えていた。色褪せて灰色になった板壁。二階の窓を、聡子は描き込んでいった。前までは閉まっていたけれど、今は開いている。慶太が無理やりに開けたからだ。窓が開いて、曇ったガラスがなくなっても、部屋の中の様子は相変わらず見えない。ただ、闇が漏れ出しているだけだ。
 窓の内側の黒を、聡子は塗っていった。筆を洗い、黒を落として、パレットの白の絵の具を拾った。それから窓の内側に、白い顔を描いていった。
 白い顔。こっちをじっと見ている顔。体は影に溶けていて、まるで顔だけが闇に浮かんでいるように見える。
 白い顔?
 聡子は我に返った。反射的に、顔を上げる。
 さっき慶太が開いた二階の窓。その同じ窓から、白い顔の子供が外を見ていた。黒い髪と、服は闇に溶けている。感情の感じられない表情で、じっと聡子を見下ろしていた。
「ひっ」
 思わず、聡子は声を上げた。引きつって、しゃっくりみたいな声が出た。
 ほとんど考えることなしに、聡子は筆を洗い、黒の絵の具をパレットから拾って、窓の内側を塗りつぶしていた。大急ぎで乱暴に、黒を塗った。まだ乾いていないうちに塗ったので、絵の具が混ざって汚い色になった。でもとにかく、白い顔は消えた。
 聡子は顔を上げた。現実の二階の窓からも、顔は消えていた。ただ何もない暗がりが見えているばかりだった。
 今にもまたあの白い顔がひょいと窓から覗きそうで、聡子は目を離すことができなかった。見張るように、じっと窓に視線を注ぎ続けた。
 一瞬しか見なかったが、顔は聡子の脳裏に焼きついていた。女の子の顔だった。十歳くらい、聡子自身とほぼ同じくらいの年頃の女の子に見えた。身長や体格も、よく似ているんじゃないだろうか。髪型や服装まではよく見て取れなかったけれど、そのつまらなそうな無表情は強く印象に残っていた。
 真っ白な顔。闇の中で、日に当たらないから。
 退屈で仕方がないと言いたげな、つまらなそうな顔。この空き家にずっと一人きりなら、無理もない。
 しばらくずっと見ていたけれど、窓にはもう顔は現れなかった。
 空き家の幽霊は本当にいるんだ、と聡子は思った。怖さはもちろんあったけれど、その表情に感じた強い寂しさの方が、聡子の印象には残っていた。

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