見出し画像

「擬態」と呼ばれる行動について考える話

よければ記事上部、下部の♡でいいねをお願いします
記事を探すのに便利な目次ができました↓

note マップ – おがさんの絵本 (ogasan-ehon.com)

これまでの、これからの有料記事が読み放題になるメンバーシップもお勧めです↓

絵本はこちらにも投稿しています

ラインスタンプもひっそり始めました


前回、「愛される障害者」の話を書いたと思いますが、

これも関係ある話です

たびたび発達障害、福祉界隈でこの「擬態」について議論が繰り広げられます

私自身の考えをまとめておきたいと思います

擬態の意味とどんな現状か


「擬態」とは

「生物が他の生物や無生物に似た形や色、行動を持つ現象」

「攻撃や自衛などのために、からだの色や形などを、周囲の物や植物・動物に似せること」

とされています

人間社会でも同じようなことが数多く起こっています

・働くためにマナーを身につけてその場から浮かないようにすること

・遊びの仲間外れにされないように相手の意見や行動に合わせること

・好きでもないことも好きと言って相手を不愉快にさせないこと

こういったことへの不満や愚痴はよくSNS界隈で見かけますし、皆さん大いに苦労なさっている様子です

かくいう私もその一人です

しかし、それは「悪いこと」だけではないとも考えています

「人から良く思われたい」

「この人に好かれたい」

「不愉快にさせない」

「気持ちよく話したい」

「一緒にいたい」

こういう意欲からくる「擬態」、いうなれば「自分をよくみせる努力」は人と人とのコミュニケーションには
大いに重要です

成長への
「外発的動機づけ」
「内発的動機づけ」

からくる「擬態」とも言えます

まず相手に「悪い所をみせよう」という人は少数なのではないでしょうか?

この人間社会において現状「擬態」は良くも悪くも生き抜くために

「必要な力」

なのだと考えています

「障害者福祉」「発達支援」における「擬態」についてと私の考え


それは「障害福祉」の世界も例外ではないのです

障害、特性等の強さで社会に馴染むことが難しい人もいます

発達支援の業務についていた私は、子どもの世界ににもしっかりこの「擬態」があることを確認しましたし、難しいお子さんはやっぱり集団から抜けていました

成人した方も、他者の気持ちが理解できないながらも相手に話を合わせたり、周囲の真似で乗り切るなどの手段で日々生き抜いている方もいました

他者への興味などが薄い特性なども相まって、本人の「擬態」への意欲も高くないと、その負担感、疲労感は想像絶するものになるのではないか

とも考えています

「他者との関わり方」を伝える支援者側も「社会を生き抜くためには」と、「意欲も興味も薄い」ことに対して熱心に支援を行う場面もあったりします

この匙加減というか、見極めが本当に難しいと感じています

いつか本人が成長し、気づくことを信じ伝えておくことも決して間違いではないとも思いますし

今それを理解する段階ではないから無理に伝えることはしないこと

これも決して間違いではないのです

私としては

・今、目の前の人はどこで躓いているのか

・コミュニケーションの前の身体の土台はできているか

・他者と関わろうとする気持ちが見えるか、芽生えてきたのかどうか

そういった見極め、アセスメントを日常的に行っていくことが必要なのだと考えています

要するに

・「擬態の必要性を本人が感じられる状態にあるかをタイミングよく見極めること」

・「必要だと感じた時に「学べる場所」「学べる人間関係」が本人の目の前にあること」

が重要なのではないか ということです

それは子どもの時かもしれません、大人の時かもしれません

それは支援の場なのか、社会でそういった場を設けられるか…

私はあればあるだけ良いのではないかと思っています

まとめ


障害あるなしに関わらず

「過剰な「擬態」を求められ、精神的負荷が常にかかっている」

そういった方も多い現状なのだと思っています

「ありのままがいい」とは微塵も考えていません

一人一人が自分の「我」を思うままにだしたら、そこら中トラブルになるのは目に見えてるじゃないですか

「擬態」しすぎずたと思った人が適度に息を抜ける

「擬態」を学びたいと思った人が学べる環境がある

そういった社会になるといいなぁ…と



以上になります
これからも少しづつ投稿していけたらと思っています
よろしくお願いします。よければノート、ツイッターで♡でいいねをお願いします!


ツイッターURL ↓




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?