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画廊喫茶マヨヒガ:act.0 天地創造 〜はじまりの物語〜

 かすみたなびく深山幽谷の奥、ほとんど人跡未踏とおぼしき場所に小さいながらも瀟洒しょうしゃな洋館があることなど誰が知ろう。知られる必要はない、知るすべもない。知ったところで神ならぬ人の身では訪問することなど叶わぬというもの。故にその館が何時いつからそこにあるのか、誰の住まう居なのか、記憶している者はひとりたりとも居らぬはずである。

 しかし声をひそめてまことしやかに囁かれる噂によれば、その館は自ら人を招くという。傷つき弱った者を、人生に倦み疲れた者を、貧しくとも正直に生きる者を。あるいは、驕り高ぶる者を、他者を害する者を、嘘と裏切りにまみれた者を。何を基準に館が人を選ぶのか、常人の理解の及ぶところではない。

 その館には生涯に一度しか入れぬという。館に入ったが最後、生きては出られぬという者もいる。御伽おとぎ話の不思議な屋敷のごとく、その後の人生を助けてくれるものを授けるとも言われているし、入った者を魂ごと喰らうのだと恐れおののく者もいる。真偽の程は無論不明のままである。人智及ばぬ者の聖域やあやかしねぐらと同じく、明らかにすべきではない謎や神秘のたぐいなのであろう。されど今この時、読者諸君はこの面妖めんようなる洋館の内外を漂う浮遊霊がごとき視点で物語の始まりを見ることになるのである。

 来るもの拒まずといったていで開け放たれた重厚な造りの巨大な黒門──重い瓦で屋根をいた切妻破風きりづまはふを備えた堂々たるたたずまいの四脚門しきゃくもんきりとともに抜けると、黒光りする鏡柱かがみばしらの冷たさ、硬さといった感覚が触れずとも判るほどに見えざる手で顔を撫で、門の天井からは無数の視線やおよそ人の言葉とも思えぬ無音の囁きといったものが降り注ぎ、肌にあわを生じせしめる。敷居をまたいだ途端にまぎれもなく異界に足を踏み入れたのだという実感が湧くというのもあながち大袈裟な感想ではあるまい。
 もやに包まれた中、人類文明に由来する音の無い静けさと、四方八方からさんざめくように迫る野の生物の立てるかすかな音に囲まれると危うく方向感覚を失いそうになるが、かろうじて足元の飛び石が行き先を示してくれているおかげで道を誤らずに済む。しかしそれとて読者諸君を正しい方向へ導いているのか怪しいものなのではあるが……

 おぼつかぬ足元に注意深く向けられていた視線は辺りを見回し、次いで天を仰ぐ。視界を妨げていた、息詰まるひんやりしたものは速やかに後退し、白きとばりが上がるがごとくに眼前が開けたのであった。

 雨上がりの山のような、野営地の天幕テントから這い出したばかりの朝のような、濃密な緑と土の匂いがする。赤い実を付けた灌木かんぼくは綺麗に手入れが為され、青々と茂る広葉こうようの木々は下生えが入念に刈り取られている。広い柵の中で鶏たちが自由に歩き回って餌をついばむと見れば、その内にやがて光が差し込み、見上げると空には青い色がぽつらぽつらと現れはじめ、先程までの冷たい湿気が嘘のように身に暖かさを感じるのである。

 富農ふのうの庭先然とした場所を抜け、今や飛び石は矩形くけいを組み合わせて積み上げたような小さな洋館にまっすぐ来訪者を導いている。日本風の門と庭に斯様かような洋館が建っているのはいささか奇妙な事に感じられるが、館の外観をよく見てみれば、それが明治から大正にかけて流行した建築様式であることがうかがえ、和風庭園との取り合わせも納得が行く。かの時代に多く見られた和洋折衷のおもむきであろうか。

 不意に、じゃくり、という音とともに足が沈みこみ、態勢を崩しかけた。いつの間にか土の地面から玉砂利の敷かれた小道へと変わっていたのだ。視線を戻せばもうすぐ目の前に二階建ての洋館の露台バルコニーが、そこに続く御影石みかげいしの階段が待ち構えている。

 じゃり、じゃくり。ツカッ。カツッ。カツン。

 三十畳はゆうにある広さの露台の床は那智黒石なちぐろいしによく似た上質な玉石を混凝土コンクリートで美しく並べ固めた枠取板パネルを何枚も敷き詰めた、目を見張る仕事である。その周りはといえば、石の手摺に判読不能な文字のようなものを図案化した鉄の飾り格子をめこんだものが錆と苔の只中ただなかにしつらえられ、その古色は手を触れるのもはばかられるほど。であるのに露台の所々に置かれた深い藍色の釉薬が日の光に鮮やかに照り映える大鉢には、今を盛りと色とりどりの花が植えられ、親しみやすさと生命力とを感じられるのだ。

 眼前に突き出た建物の一部は、玄関ではない。露台へ続く古びた硝子ガラスの扉を何枚も備えたそれは内部が充分に明るく、おそらくは天井部分にも同種の硝子ガラス板が嵌めこまれているはず。この手の洋館によく見られるいわゆる採光室サンルームなのであろう。数少ない柱の部分には時代を感じさせる深緑色をした唐草模様の見事な装飾タイルが余すところなく貼られ、主の趣味と経済力、そして職人の妙技とを知らしめている。

 と、野鳥が数羽、大気を叩いて羽ばたく音が聞こえ、硝子にぼんやりと映る自分の背後を一瞬にして横切る影が見えた。飛び去ったかたを見やれば、露台の反対側の端にしつらえられた半円形の石の腰掛けベンチがあり、そこに柔らかそうな羽毛が小さな螺旋らせんを描いて舞っている。ゆっくりと玉石の床を踏みしめ、そのかわいらしいつむじ風が消えぬ間に、と歩いてゆくが、近づく空気の流れに驚いたように風も羽毛も散じてしまった。仕方がない、とややあって腰を降ろした石の腰掛けはヒヤリと心地よく、おまけに背もたれの部分は石の硬さも忘れる程、絶妙に人を駄目にする形状をしているときている。思わず目を閉じて深い吐息を漏らした。

 時折の風に揺れる葉擦れの音はさながら寄せては返す波音であり、そこに混じりこむ野鳥や家禽の鳴き声は長閑のどかという言葉を正しく音にしたかのよう。頭上の巨木がさしかける梢が選別してくれる極上の木漏れ日は清廉そのものであり、手で折り取れそうなほど硬質な気配すらある。暑くもなく寒くもない、嫌味な湿気もなく煩わしい乾きもない。鼻の奥と頭の中を爽やかな刺激で満たす濃密な山の空気をいっぱいに吸い込むや、ここでしばらくまどろんでいたいという誘惑に駆られる。──しかしそういうわけにもいかぬらしい。

 薄く開いた目の端に飛び込んで来たのは、館の入り口であった。玄関である。屋敷の角にあり、今まで見えなかったのは、どうやら階段、露台、石の腰掛け、という動線では、腰掛けの辺りに来るまでは入り口が見えないように巧妙に設計されたからであるらしい。

 その玄関が──開いている。まるで招き入れるかのごとく、家紋と思しき未知の意匠の入った簡素シンプル着色硝子ステンドグラスはまった両開きの扉を開けて。

 中は暗黒などというわけではなく、むしろ周囲の窓からの光で前室ともども満たされているのだが、全身の感覚は言い知れぬ不安を告げている。館全体を通して、人の住んでいる気配がまるでしないのだ。あるのは過ぎ去りし日々の残照、かつてここで暮らしていた人間がいたということを伝える物言わぬ伝言メッセージ、いずれ草木そうもくに飲み込まれて自然に還ることにより穏やかな終焉を迎える文化文明の名残──廃墟や遺跡といった風情である。庭といい動物たちといい世話をしている者がいるのは明らかなのに、建物全体から受ける印象は滅びそのものであるのが二の足を踏ませるのだ。

 見覚えがあるようでいて初めて見るようでもあるその年経たたたずまいは、冷厳れいげん厳粛げんしゅく峻厳しゅんげんといった形容をそのまま形にしたかのような無言の迫力をもって見る者を圧倒し、畏怖の念を掻き立てさせずにはおかなかった。

 玄関から前室にそろり、と足を踏み入れる。どうやら靴は脱がなくてもよいらしい。邸内は静けさと穏やかさ、それに窓から射し込む柔らかな光に満ち溢れているが、相変わらず人の気配はしない。吹き抜けの高い天井の下、揺らいだ空気にゆるやかに舞う塵が光にきらめくのを見つめながら、磨き抜かれた木組み床パーケットタイルに用心深く足を降ろし、なるべく静かに歩を進める。

 玄関の前室から直角に左に折れた最初の部屋の右側──採光室の反対側──には壁一面を埋め尽くすほどのありとあらゆる種類の酒瓶が並んでいる棚があり、驚くべきことにその前の留まり木カウンターの上ではまるで来訪を予期していたかのように湯気の立つ珈琲コーヒー把手碗カップ、新鮮な野菜や果物、乳脂クリイムを挟んだすぐにつまめる作りたてのサンドイッチ、バターの香ばしい匂いを漂わせる黄金色の洋風炒り卵スクランブルエッグ、茹で上げられて今にも肉汁を弾けさせそうな山盛りの腸詰めソーセージが訪問者を待ち構えていた。

 だが、異界に迷い込んだ際、いかに美味うまそうに見えても、どれほど空腹であっても、その世界のものを決して口にしてはならない、というのは鉄則であると言ってもいい。歓迎の品か誘惑の罠かも分からぬものを素通りにし、ぽつらぽつらとある二人卓の間をすり抜けて喫茶店カフェー或いは酒場バー然とした室内を奥へ進むと、部屋は奥行きのあるひと続きの間であるのがわかった。真ん中あたりで部屋を半ば区切るがごとくに右手の壁から手摺のついた階段の下部が飛び出しているのが見えており、その向こうはがらんとした薄明るい部屋、階段の向かいには外から採光室と見た部屋へつながっているとおぼしき開け放たれた扉がある。

 天井と壁の磨り硝子から注がれる柔らかな光に満ちた採光室は暖かく、緑色と白茶ベージュ色の木綿タイルを敷き詰めた床に置かれた素焼きテラコッタの鉢や壁掛けの花瓶に植えられた南国の花卉かき馥郁ふくいくたる芳香を漂わせ、中央に据え置かれた長机の上には今しがたまで誰かが書きつけていたように帳面が広げられたままになっており、万年筆がそのすぐ側に無造作に転がっている。神々しいまでの光の滝に打たれる革張りの椅子にはぬくみとて無いが、それはあたかも絶えて久しい物語の続きを紡ぐ新たな書き手を永久とこしえに待ち続けている様相であった。

 視線を感じた気がして振り向くと、そこには──採光室サンルーム食事室ダイニングを繋ぐ扉の両側の壁には──見上げるほどの大きさの人物画が扉を挟んで二点ずつ、計四点が飾られていた。初めて見るはずなのに奇妙な既視感を覚えるその絵画は、全て女性像、縦長の構図で、頭部から爪先まで人物の全身が収められており、絵画というより昔の広告貼紙ポスターに近い寸法サイズである。

 巻き毛の金髪の下から青い瞳を輝かせる笑顔の少女。
 赤銅の髪をなびかせ凛々しい顔つきをした褐色の麗人。
 妖艶な仕草で白い肌に黒髪を這わせる妙齢の美女。
 黒檀の肌に白銀の髪を結い上げた瞑目の女性。

 まるで実際にそこで生きているかのような緻密で華やかな描写と、それに見合う意匠を凝らした額とが、これらの作品それぞれが世界に二つと無い優品であることを如実に示していた。時に優れた芸術作品はそれ自体に魂が宿ると言うが、先程感じた視線も、溜息が出るほど活々いきいきとした生命力にあふれる描写と、これだけの大きさを誇る画面であれば、その存在を感じぬという方が不思議であろう。

 そういえば中央に置かれた長机は、これらの女人像を製作するとすれば実におあつらえ向きな幅と長さではないか。草花の香気に溢れ、ずっと見ているといつしか動き出しそうな四人の画を飾ったこの採光室はどうやら工房アトリエごときものであるらしい。

 一抹の名残惜しさを味わいつつ部屋を出、今度は左に目を向けると、そこには先程見た、食事室ダイニングとひと続きになった薄明るい部屋がある。中はがらんとしていて小さな卓と椅子がぽつんと一組置かれているのみであり、さらに奥に目を向けると一際明るくなっている箇所があって、近寄ってみるとそこは玄関の前室と同じく二階までの吹き抜けになっていると知れた。部屋には卓と椅子の他には何も置かれておらず、一枚の絵も掛かっていない。ただ純白の化粧漆喰スタッコの壁と透明クリヤー塗装を施した腰板が、窓から吹き抜けから射し込む陽光を柔らかく反射しているのみである。

 何か聞こえる気がする。

 耳をそばだてていると、幻聴か、かすかに交わす話し声のようなもの、鈴を小さく鳴らすような音や、弦を僅かに爪弾つまびくような音が、訪問者の歩みで揺らめく流体となった大気を透かして聞こえてきた。話し声のようなものはどれほど注意を集中しても何を言っているのか全く聴き取れず、何人で喋っているのか、男の声なのか女の声なのかもわからない。ところどころ言語のようでもあり、またところどころは何かの歌のようでもある。この屋敷が今までに住まわせた者らの記憶、今は忘却の彼方に住まいし者らの記憶が残響となって訪問者を出迎えているとでも言うのか。しばらくそのひそやかな声と音とは続いたが、微笑みを思わせる声を最後に、やがて全て聞こえなくなった。

 いつの間にか部屋の奥、最も明るい吹き抜け部分の中央に立っていることに気づき、またそこでは妙に良く音が響くことに気がついた。見上げてみれば吹き抜けの二階部分は大きな採光窓、その上は小さいながらもしっかりとした穹窿ドーム天井になっている。もしや先程の小さな卓と椅子のあった所で最も効果的に聴こえるのではと想像を巡らせ、楽器や音楽的装置などは無いものの、実はここはかつて音楽室のごとき役割を果たしていたものであるやもしれぬと思いを馳せた。

 人の気配を感じぬままに静けさと古びた空気に満ちた館を中央──ひと続きの広間を半ば区切っている階段の所──まで戻り、ながの年月で濃い飴色と化した木製の手摺をつかんで階段を上り始めると、すぐに今までとは違った空気が流れてくることに気がつき、思わず歩みを止めた。階段に面した窓から灰白色の壁や木製の階段に光の影が落ちかかる中、古い建物の匂いの他に、美術館などでよく嗅ぐ匂い──絵の具の匂い、画布キャンバスの匂い、額に使われている木材の匂いなど──が鼻腔をくすぐり、その先にある光景を予想させるのだ。

 階段を上り切るとそこには両翼へと延びる廊下があり、突き当りにはそれぞれに玄関の吹き抜けと音楽室とおぼしき部屋の吹き抜けとに通じる開口部がある。採光窓からの光を不断に取り入れている廊下の開口部の明るさと階段室の天窓に嵌め込まれた薔薇窓からの光の只中ただなかに、二階の部屋への扉──細密な彫刻が見事に施された分厚いオーク材の扉が神秘的とも言える荘厳さを持って開け放たれていた。

 その内部は──さながら宝物庫であった。

 古今東西の絵画、彫刻、書跡、書物、漆器、陶磁器、金属器、工芸品、民芸品、写真、壁画など、美術館や個人が所有しているはずの至宝から路上で自称芸術家アーティストが手売りしている廉価品までが、有名無名を問わず無限の広がりをもって妖しくも美しく陳列され、見る者を圧倒している。直射日光が当たらぬように巧みに設計された明り取りの天窓が部屋の奥まで延々と伸び、遥か遠くの作品にも柔らかな明るさを与え続けている様は、その圧巻の美とは裏腹の一種悪夢めいた気味の悪さを感じさせた。明らかにこの小さな洋館の二階部分の広さではない。この世のものとも思えぬ物理法則で設計された部屋の広がりは端から端を見通すこともできず、この想像を絶する空間は異界からさらなる異界へ踏み込んだという決定的な印象を与えるに力があってなお余りあった。これは招かれた者が見せられる幻影なのか。あるいは真実、ここに世界の全ての美が集うということなのか。

 ことごとくが異常な空間の中でそれでも魅せられたように陳列品のひとつに手を伸ばすと、突然に部屋の明かりが消えた。否、消えたのではない。天窓からの柔らかく豊かな光の代わりに、美術室では禁忌とされる燃焼体によるほのかなあかりが周辺に弱々しくにじんだのだ。ややあって目が頼りない灯に慣れるや、無限に続くと見えた回廊は今や闇の中へと飲み込まれ、見えるものは周囲の僅かな空間だけとなっていた。手を差し伸ばした訪問者の前では展示品の影が踊っているのが見え、見渡すとどこを光源とするのかも定かではない焔によって目に入る範囲の全ての展示品から影が伸び、不規則かつ不気味な舞踏ダンスを踊っている。
 その影たちは伸び縮みを繰り返している内に何やら馴染み深いものを連想させるように形を変じてゆく。
 友と並んで写生をするかと思えば絵筆を腕にくくり付けて身を震わせる影。
 力強くのみつちを振るうかと思えば皮だけの無惨な姿になり果てる影。
 筆を選ばす書を記すかと思えば虚空に向けて筆を投げつける影。
 ペンを持って紙に向かうかと思えば深い水底みなそこへと沈みゆく影。
 訪問者を取り巻き踊る影たちは、見つめれば見つめるほどに濃さを増して激しく動き、注意が離れると薄くなって動きは落ち着くが、しかしその輪舞ロンドを止めることはない。ありとあらゆる展示品から伸びる影は人の似姿のようにも、その似姿の運命を喰らう怪物のようにも見え、その暗示するところの意味を判じ切れぬままに訪問者は震えた。

 訪問者が、光源は自分だ、と気がついた時、展示室の重厚な扉が音を立てて閉じられ、辺りは闇に包まれた。


──────────


 静寂に支配された人気ひとけの無い邸内に何か重い物に体当たりするような鈍い音が何度か響く。次いで蝶番ちょうつがいきしみ扉が開く音、誰かが床に倒れ込む音と痛みに呻く声。すぐにひどく慌てた様子で階段を駆け下りて来る軽く甲高い靴音が聞こえ、開け放たれた採光室の扉から見える階段の踊り場に華奢な体格の若い女性が姿を現した。内向きに跳ねた癖毛に縁取られた細面ほそおもてに大きな目を見開かせた女のその瞳に映るのは──先程までは誰も居なかったはずの採光室の中、長机に片腕をゆったりと乗せ、その向こうの光を浴びる革張りの椅子に鷹揚な態度で座る一人の大柄な男の姿であった。
 磨き上げられた上等な革靴、折り目のついた白い洋袴スラックス、懐中時計の金鎖が覗く駱駝色キヤメル袖無胴衣チヨツキに、陽光を受けて眩しく輝く純白のワイシヤツをまとった男はいかにも紳士然とした出で立ちだが、奇妙にも屋内であるというのに白と黒の市松模様の鳥打帽ハンチングを着帽し、異国の祝祭カーニバルで見るような銀色の半仮面ハーフマスクで顔の上半分を覆っている。道化師プルチネルラを思わせる服装をしていながらもその屈強な肉体は隠しようもなく、分厚い胸板から太い腕をがっしりとした顎の前掛けエプロン髭に伸ばし、上品に刈り込まれたそれを大きな手でしごきながら、大男はそこはかとなく上からの印象を与える目で踊り場に現れた女を眺めていた。
 言葉も無く立ち尽くす女に向かって、大男は髭をいじっていた手を膝の上に置き、無言のまま、机にもたせかけていた片腕を優雅に差し伸ばして招き入れる仕草をした。だが、女は猫のように警戒しており、動こうとしない。それも当然の事で、今まで誰も居らぬと思っていた無人の屋敷にいきなり異様な風体の男が、しかもまとう衣服の上からでも筋骨隆々であることが判る巨漢が現れたとなれば警戒しない方が不可解であろう。彼女の唾を飲み込む音が聞こえてくるようだ。仮面の男は腕を差し伸ばしたまましばらく待ったが、女が一向に動かないのを見て取ったのか、おもむろに口を開いた。
「入ってくるがいい、子供よ。この我に見覚えがあるだろう。久方ひさかたぶりとはいえ、忘れたわけではあるまい。」
 ゆっくりと男の口から流れ出た古風な言い回しは低音ながらもろうとして邸内に響き、そこには視線と同じく若干の見下した響きがあるものの、悪意や害意といったものは感じられず、それは少なくとも危険を感じさせるものではなかった。女の顔から恐れと警戒の色が薄らぎ、代わって観察するような、好奇心に彩られた眼差しが現れ始めた。男は続けた。
「むしろ、覚えているからこそここに来たのだ。そうであろう?幼い頃に語り聞かせてもらった物語の世界へ、今また足を踏み入れるのには理由があるのだろう、子供よ。入ってくるがいい。入って望みを言ってみよ。」
 女は尊大な態度を取る男の表情の見えない顔から目を離さず、慎重に、しかし迷いの無い足取りで階段を降り、光に満ちる工房アトリエの前に、中で自分を招く男の前に立った。思い出したのだ。かつてこの邸内に溢れていたものを。そして、この男が何者であるのかを──


──────────


 ───お久しぶり……です、ね。その、……えーっと……

 そろりと採光室に入ってきた若い女性は落ち着かなげに目を動かしながら口籠くちごもった。その様子を見た仮面の男は脚を組み、顎を上げて見下した視線を浴びせながら呆れたように顔の横で片手の人差し指を立て、自分の側頭部を突付いてみせた。

「我のことを何と呼んでいたかも忘れ果てたのか?まあよい。座れ、人の子よ。その相も変わらぬ枯れ木のような手足では、立っているのも辛かろうて。」

 謎の男が指を鳴らすと、たちまち豪奢ごうしゃな刺繍が施された天鵞絨ビロード製の立派な肘掛け椅子が虚空から現れ、若い女の背後から迫ってその膝裏を打ち、強制的に腰を降ろさせた。柔らかく心地良い弾力のあるふかふかの布張りに埋もれ、一瞬目を白黒させた女は、自分の背丈を超える高さの背もたれを芋虫のようににじり上がって、向かいに座る不敵な男の顔を上目遣いに、しかし正面から見据えた。そうだ。この男に名前は無い。語り聞かせられた物語の中でこの男はいつもこう呼ばれていた──

───ま……魔人、さん……?

 女の口から出た言葉に、魔人と呼ばれた魁偉な容貌の男は仮面の下の口を開いて歯を見せた。肯定して笑っているのか、それとも哀れな獲物をこれから食そうとしているのか判然としない顔だ。

───お、お久しぶりですね。んま、魔人さん。その……十年ぶりくらいになると思いますけど、あ、あの……ぉぉお元気そうで……。

 もごもごと喋る女を前に、仮面の魔人は半身にしていた身体と顔を正面に向け、ひどくゆっくりとした動きで両腕を長机の上に乗せて、両手を開いて掌を上に向け、呵呵かかと笑ってみせた。

「元気かどうかだと?疲れ果てて病の床に伏す魔人など居らぬわ。ましてや我らは死ぬこともない。忘れ去られることはあっても、な。」
「我らの間に月並の挨拶など無用ぞ、子供よ。汝の時で星が十余周したことは解った。だが、そんなことはどうでもよいわ。離れて久しいこの世界に今また舞い戻ったのは何用有りてのことか。夢想の世界に回帰するのは、現実からの逃避か、抗えぬ魅力の虜囚となるかのいづれかだと相場が決まっておる。子供、しかれども汝はどうやら違うらしい。何を望むが故に戻ってきた。」

 女は少しむっとした様子で肘掛けを握った。足も踏ん張ろうとしたが、床までは届かなかった。

───そ、その前にですね、子供子供って。私、もう子供じゃないです。大人ですよ、もうあと少しで三十歳になります。

 鳥打帽ハンチングを被った魔人は女の抗議を鼻で笑った。

「吹けば飛ぶような年月だ、定命の者よ。我らから見れば子供と呼ぶのもまだ生温なまぬるい。汝らは所詮、星間を漂うちりあくた程度のものだということを忘れるな。」
「とは言え子供呼ばわりをいとうのであれば、昔のように名で呼んでやろう。汝はここに来る度に、違う名を名乗っていたからな。さあ、どれだ?奇怪なる館の脱出者の名か?剣をいて荒野を征く女戦士の名か?学び舎で友情と恋に生きた乙女の名か?我は全ての物語と名を知っておる。好きなものを選ぶがいい。」
「それとも、かつてのように、新たな名を名乗るか?死すべき定めの人の子よ。限られた命ゆえに、偽りの現身うつしみを取っては数多の人生を擬似にて味わうのも、汝ら定命の楽しみのひとつであろう。さあ、選ぶがいい。」

 女は尊大な魔人の目を真っ直ぐに見つめ、言った。

───酎 愛零、です。

「チュウアイレイ?」

───そうです。私は今、ある所で「ちゅう 愛零あいれい」と名乗っています。それが、今の私の名前です。

 それだけ聞くと魔人は優雅な仕草で空中に指を滑らせ、如何いかなる奇術を用いたものか、発光する三つの漢字を空間に浮かび上がらせてみせた。

ちゅうあいれい、か。表意文字の三文字……なかなかに珍妙な名だ。昔、坊主どもに付いて汝が大唐の西域におとのうた物語でも似た名を名乗っていたな。あちらのほうが初々しく素直であったが……どうやら泡沫うたかたの年月で得た小賢しい頭を絞って付けたものと見える。そしてここではないどこかでもその名で通っていると言うのだな。」
「では、改めて訊こう。汝、酎愛零よ。ここへ何用があって訪れた。ここには汝が幼生であった頃のあの語り手はもう居らぬ。汝の来訪が絶え、語り手はしばらく誰かの訪れを待ったが、結局、彼奴が去るまでの間に何人たりとも姿を現したことは無かった。」
「ここは自らの物語を紡ぐ者と、それを楽しむちかしい者のみが出入りを許される、言わば創り手の聖域。今や物語を織り上げてそれを語って聞かせる者は絶えて久しく、それを記憶している者は汝を除き定命の中には居らぬ。さりとて昔を懐かしみにわざわざここまで来たというわけではあるまい?かつての子供、酎愛零よ。」

 謎めいた仮面の下で、燃える恒星のような目が女を──酎愛零を見つめている。太陽を直視など出来ぬように、全てを見遥みはるかすこの目を正面から見返すのは常人の成せる業ではない。だが酎愛零はたじろいだものの、眉間に皺を寄せ、目を細めながらも、無駄に有り過ぎるほど有ると言われる己の目力を凝集し、決して屈せぬという強い意志をもって魔人の恐るべき目を見返した。
 洋風趣味ハイカラな出で立ちの魔人の芝居がかっていながらも超然とした物言いからは、何もかも見透かしていてその上で敢えて質問を浴びせかけているような態度が感じられたが、実際のところその通りであり、酎愛零は自分がかつて語ってもらったり読んだりした、心躍る冒険や頭を捻る奇譚ミステリー、血も凍る恐怖や胸ときめく恋愛話の世界へ、逃避しに来たわけでも耽溺しに来たわけでもなかった。もっと重要な要件──彼女の人生に大きな一石を投じることになるであろう依頼、提案をしに来たのだ。

 彼女は知ったのだ。とある表現の場に登録し、そこに寄稿する様々な年代、境遇、職業、主張、性格、表現手段の人々と交流しているうちに、自分に文章を書く能力があるということを知り、そこに生きる者らの才能に呼応して二次創作や企画で腕を確かめ、次は自分固有オリジナルの作品を創ってみたいという、湧き上がる願望が自分の身の内にあることを知ったのだ。
 故にここに来た。ここで幼少の折に浸った幾つもの夢想世界、それぞれがこの世に一つしかない、目の前で綴られた果てしない広がりを持つ目眩めくるめく世界は、彼女の原点であると言ってもいい。しかし、物語の綴り手、語り部を失って久しいこの世界に、彼女は読みに来たのでも、聴きに来たのでもなかった。この世界の中核を成していた魔人に向かって、今、要求するものとは、ひとつしかない。酎愛零はまなじりに力を込めて──


───続きを、書きに来ました。


 小馬鹿にしたように魔人が首を傾げ、片耳に手を当てる。酎愛零はもう一度、今度は大きな声で言った。

───物語の続きを、書きに来ました!私が、新しい書き手です!

 しばしの沈黙の後、魔人は二、三度鼻から息を吹き出すと、分厚い胸板を小刻みに震わせ、すぐに大きく揺らして耳障りな嘲笑を漏らし始めた。

「子供!貴様がか!」


 瞬時に部屋の中から光が失われ、仮面の男の全身から紅蓮の炎と黒煙とが噴き出したかと思うと、壁や床の継ぎ目からも火炎が舌先を出し始め、それまで光と花の香りに満ちていた穏やかな空間は突如として地獄の光景と化した。今や暗黒へと変じた眼窩の中に赤色巨星の如き眼を閃かせ、身体を倍の大きさへと成した魔人は鼓膜が破裂しそうな大声で嘲笑あざわらい、太古の獣脚類がごとき太い鈎爪を生やした指で目の前の小柄な女を刺すように指差した。

「他人から与えられる物で満足していた小娘がか!大きく出たな、酎愛零とやら。瞬きにも満たぬ卑小な年月で何の自信を付けたのか知らぬが、貴様の性格はここで紡がれた物語に劣らず知っておるわ!」
「知識を溜め込むだけ溜めて、それで何をするわけでもない。石橋を叩いて渡ると言いながら、叩いて見せるだけで結局渡ろうとはしない。そのくせ心中では自分の意見こそが正しく、他の連中など取るに足らぬと思っている。小賢しい頭で捻り出した屁理屈でつくろうことだけ長けていて、自分を正当化することが十八番。それが貴様だ。」
「創作活動とやらが、今まで長続きしたことがあったか?自分の見たいものを創ると言っておきながら何回、投げ出した?貴様は己を完璧主義者だと言ったこともあったが、その実不完全極まりないのだ。己の妄想するところを他人もそうであると決めつけ、関係を破綻させたことが何度あった?言葉の力を目の当たりにしながら他人を傷つけるためだけにその力を望んだ事が幾度あった?何たる傲岸不遜!全てに於いて足りぬ定命の分際ぶんざいで、己の卑賤な欲の為だけに続きを書こうなどとは滑稽の極みというものよ!」

 縮み上がるほど恐ろしい声と姿を前にして、彼女は手足が冷たくなり、呼吸が浅く速くなって心臓が痛いほど早鐘を打つのを感じた。しかし顔面を蒼白にして震えながらも、酎愛零は目を開いたまま、全身を赤熱化させ煙を吐いて吼える巨大な魔人を、正面から見据えることを止めなかった。確かにその通りだ。魔人の言うことにひとつも間違いは無い。だが、魔人は「帰れ」とも「止めろ」とも言っていない。何より、すぐにきびすを返して逃げ出したくなる迫力であるにもかかわらず、落ち着いて感じてみれば火は熱くないし、煙を吸い込んでむせることもなく、また悪意や害意といったものも相変わらず感じられない。震える声を押して彼女は言った。

───足りないから、来たんです。私のような者は、足りないところだらけですから。魔人さんの力を、借りに来たんです。

───私には、独創性が無い。継続してやる力も無い。今まで色んなことを考えても実行に移せなかったり、やってみても続けることができなくて、中途半端に終わってきました。すでにあるものに不満を唱えるだけで、自分で創るということができ……いえ、しませんでした。

───でも、ある所で、私は知りました。創作をこころざして、日夜励む人たちがいる所を。いろんな人がいます。その中で、私はある人とコラボして、初めて短編小説をひとつ、書き上げることができました。私にも書けるんです!その後、絵描きさんの絵を元にして、三つの異なる作風で書くこともできました。いろんなことができるようになったんです!お酒をよく飲む人をモデルにして、ファンタジー作品を連載することもできました。連載だって、やってやれないことはないんです!アラビアンナイトを下敷きにした、童話風のお話も書けるようになりました。リライトができるようになったんです!不老不死を自分流に表現することもできました。少しは独創性もついたんです!だから!

 轟音を上げて立ち昇る紅焔プロミネンスに負けじと叫ぶ酎愛零を、魔人は首をぐるりと回して、赤く光る目でいぶかしげにめつけた。

───だから!私はできるんです!もう、今までの私とは違います!私にはできるんです!これからは、私が書き手です!文章も甘いし、完全な独創ではないかもしれないけど、私はまだまだ成長できます!だって──

「『全ての芸術は、まず模倣から始まる』から、か?」

 思いがけない魔人の言葉に酎愛零は目をしばたたいた。地獄の光景は急速に引き、部屋は元通りの光と花のに包まれる静寂へと変わり、目の前の男は火と煙を噴く魔物から元の紳士然とした装いに戻った。ただし今度は筋骨隆々たる大男ではなく、魔人は背の低い痩せぎすの老人であった。木材を突き刺すことができそうなほど尖った鼻と、地面を掘り返すことができそうなほどしゃくれた顎を持つ老人は、革張りの椅子に難儀そうに身体を沈めて言った。

「『無から有は生まれない』とも言っておったな。色々と語録が作れそうではないか、小娘よ。」
「なぜそれを?という顔をするのか、人の子よ。お主がこの世界への扉を開けることができるのと同じかそれ以上に、わしらがお主の心の扉を開けて中を覗き見るのは容易たやすいのじゃぞ。」
「この計画をいつから思いついておったのかまではさかのぼれんが、のう。彷徨さまよえる小娘よ、お主がわしらに何を求めてここに来たのかも大方おおかた察しはついておるわい。じゃが、それをわしらの口から言うわけにはいかんのう。先程の決意と同じように、ほれ、言うてみい。」

 この魔人からは、先程までの上からの目線から発する嫌味な態度は感じられない。だが不気味な老獪さがそれに取って代わり、油断できない相手だということがいや増しに感じられた。これは相当、言葉を選んで練らなければならないだろう。果たして言うことを聞いてくれるのか。いや、これからの自分の計画、ひいては自分の人生設計に関わるのだ。何が何でも聞いてもらわなければならない。ならば、余計な修飾をするよりも──

───……単刀直入に言います。魔人さん、私の書く物語の、登場人物になってください。

 登場人物になれ──それは自分の思う通りに動け、という意味なのか。いや、今の酎愛零は物語の登場人物とはそのように都合の良いものではなく、むしろ勝手に動き回って収拾がつかなくなる危険性をも孕むものだと知っている。人の思考とは相容れぬ魔人ともなれば尚更なおさらであろう。
 魔人はその望みにすぐには応えず、いつの間に手にしたのか、右手にも左手にも見える手首で火皿を支える奇怪ながらも見事な彫刻が施された海泡石メアシャムのパイプをくゆらせ、革張り椅子に深く腰掛けたままくつろぎ始めた。しかしその口や火皿から立ち昇るものは煙草の煙とは到底思えぬ宇宙的な色の未知の気体であり、酎愛零はそれに遥けき巨蟹宮キャンサーに永遠にわだかまるという死者たちの霊にも似た感覚を覚え、かつて読み聞かせられたいくつかの物語における登場人物の末期を思い出して背筋を寒くした。半目となった老いた男は綺麗に剃り上げられた尖った顎に手を遣り、酎愛零を見ずに言った。

「……にわかには読めぬ話じゃ……」
「どの物語であれ、わしらはまでも傍観者であり、お主らの言うところの狂言回しじゃった。わしらの様に人の子の感情や倫理、正義といった物を軽んじて踏みにじる事に何の躊躇も無い人外が勝手気儘かってきままに動いても愉快なものではあるまい。お主に益が有るとは思えんが……何か思惑があるのかね?」

───そうです。人ではないから、頼みたいんです。人の倫理や感情、正義なんか関係ない、魔人さんだからできることをやってほしいんです。
───私がこれから書く物語は、人に優しいものだけじゃない。人が隠していたい闇や、醜いところ、耳を塞ぎたくなるようなこと、読んでて辛くなるようなことも書きたいんです。そのとき、魔人さんみたいな、人間外の視点──人間よりも強い力を持っていて、人間の築き上げた価値観や情緒なんかをなんとも思っていない存在からの視点が必要になるんです。

 老人は乾いた声で笑った。

「ほうほう、それではわしらに汚れ仕事をさせようという魂胆こんたんかな。肝が太いことだ。」

 横を向いたままの老人の、半目だった銀の仮面の下のまなこが片目だけ見開かれ、漆黒の宇宙に浮かぶ白色矮星わいせいを思わせる細く重い視線が酎愛零の心を射抜いた。なんと凄まじい重圧なのか。この視線の前では人間の嘘や偽りなど児戯にも満たないだろう。だが、それが嘘を見破ろうとしている目ではないことは重々分かっている。おそらく魔人は酎愛零に、何もかも晒けだせと、他でもない己自身に嘘をつくなと、そう警告しているのだ。彼女は心が折れそうになるのを必死で堪えた。

───汚れ仕事……たしかに、凄惨な描写とか、邪悪な人物とか、救いの無い結末を受け入れてもらうには、世の中のハードルは高いと思います。でも、きれいなものだけ見て生きていきたいと思っても、現実にそれはできないし、そういった物語を読むことによって、自分の置かれている現実の立ち位置を把握できることもあると思います。たとえ生き地獄のような世界でも、薄皮一枚むいた自分の足元に広がっているそうった世界を知らずに、上ばかり見たり、他人の成功を羨んだりするのは危険です。いつかそうと知らずに、自分が今まで見聞きも想像もしなかった世界、目を背けていた世界に足を掬われたとき、まったく知らないのかそうでないかでは立ち直りに雲泥の差が出るはずです。
───それに、先人たちの生きた人生は、必ずしも幸せに満ち満ちていたわけではありません。中には失意と絶望のうちに生涯を閉じた人もいたと思います。私は、そこに迫りたい。生きているうちに報われなかった彼らの生き様、生きた証から、なんらかの物語を紡ぎ出して、それを広く世界に知らしめて、こんな人がいたんだ、こんな人生があったんだ、ということを伝えたいんです。

 不安を掻き立てる手首の彫刻を施したパイプはいつの間にやら消え失せ、魔人は胸の前で枯れ枝のような手を組み、ゆっくり向き直って酎愛零に真正面の顔を向けた。今や老いた魔人の両目は真円なのではないかという程に見開かれ、その中に浮かんで自分を見つめている矮星の瞳は果たして幾つ在るのか、恐ろしくて数えてみる気にもなれない。酎愛零は気力を振り絞り、いつか聞いた言葉を思い出していた。『天使の眼差しの下では、恐れなく立てるは正義のみである』、では善悪を超越した魔人の眼差しの前に恐れなく立てるのは──

 深呼吸をした酎愛零は震えるのを止め、暗い目をして言った。

───……あとは、私自身の願望ですね。破壊してやりたい。殺してやりたい。憎いやつらの人生を無惨に奪ってやりたい。憎くなくても、まったく何の関係もなくても、ゴミのように人の命を弄んで投げ捨ててみたい。丹念に苦痛を与えて、絶望に至る道を周到に準備してみたい。
───私には、そういうところがあります。言い訳や理由づけなんかありません。ただ、他の性格と同じように、残虐性もあるというだけ。放っておいても、さすがにこの残虐性が表に出てきて何か事件を起こすことはないでしょうけど、創作の世界で自由に発露していいとなったとき、暴走する恐れはおおいにあります。そうした時に、魔人さんの存在感でそれをまとめて……

 そこまで言った時、酎愛零は異様な感覚を感じて言葉を失った。いつの間にか部屋は真闇と化しており、どちらが上か下かも、自分が立っているのか、座っているのか、横たわっているのかもわからず、得体の知れない浮遊感が全身を包んでいる。まるでネガポジが逆転したようで、酎愛零は自らの身体と精神があたかも脆く頼り無い隙間だらけの型枠フレームで出来ているかのような感覚を味わい、考えていることや感情の揺らぎが筒抜けになるばかりか、それが勝手に外に漏れ出しているのを感じて愕然とした。

 いつからこうなのだ・・・・・・・・・

 最も恐ろしいのは、老いたる魔人と会話しているどの時点でこの状態に引きずり込まれたのかが皆目わからないということだった。その魔人も視界から消え失せ、酎愛零の目の前には──酎愛零だったものの目の前には、闇の中にあってなお知覚できる三つの黒い円が在るばかりである。酎愛零だったものには最早もはや、それが球体なのか、穴なのか、中空に浮かぶものなのか、壁や床に貼り付いているものなのか、自分から近いのか、遠いのかもわからない。自己を形成する型枠フレームが細い焼き菓子のように砕けて遊離してゆく。流出し、単純化されつつある思考の中で、酎愛零だったものの魂はぼんやりと、三つの丸が人の顔に見える現象のことをなんと言ったか、よくある死霊の漫画的表現だ、などと考え、それらが自分から漏れ出す何か言葉にすることもできないものを口無き口ですすっては咀嚼そしゃくする心象イメージを感じ、それらが魔人だったものであることを理解した。
 その精神の外殻表層に理性や思考で築き上げられた主義主張、生き方といったものをその歪みや偏向ごと啜り取られ、今や人の子の魂は考える力をほとんうしない、原初の魂が持つ感情、感覚といったものだけで現世界を離れ、根源へと同化する寸前であった。しかしその感情、感覚こそが、一個の孤魂が酎愛零であった頃の名残をそこに留めており、根源との同化を妨げていた。

 恐怖がそこに在った。
 敬意がそこに在った。
 憎悪がそこに在った。
 愛情がそこに在った。
 憐憫がそこに在った。
 侮蔑がそこに在った。
 使命感がそこに在った。
 向上心がそこに在った。
 諦観がそこに在った。
 友情がそこに在った。
 優越感がそこに在った。
 殺害衝動がそこに在った。
 破壊衝動がそこに在った。
 憤怒がそこに在った。
 感受性がそこに在った。
 繊細さがそこに在った。
 好奇心がそこに在った。
 探究心がそこに在った。
 なけなしの勇気がそこに在った。
 そして──欲望がそこに在った。

 孤魂はその魂だけが持つ色を持ち、闇から浮かびいでた、細く脆い、しかしはっきりとした型枠フレームが人の形を再構成してゆき、人の子の魂は自分が何から発せられた欲求に従って生きていたのかを思い出して、酎愛零だったものは長い眠りから覚めたように目を開けた。

 辺りは先程までと何も変わらず、高い天井の硝子ガラスの窓を通した柔らかな陽光が降り注ぎ、生命の息吹に溢れた草花の匂いが空気を満たしている。恐ろしくも死霊の戯画めいた怪異は消え失せ、魔人が座っていた椅子はそこに何者も存在しなかったがごとくにへこみもたわみも無い座面を見せて光を浴びており、酎愛零もまたいつの間にか立ち上がって、その背を預けていたはずの布張りの豪奢な椅子は何処いずこへともなく消失していた。最初にこの部屋に入ってきた時と何も変わっていない。

 まさかの夢オチ──そんな考えが脳裏をかすめた瞬間、酎愛零は自らの呼吸しか聞こえぬ無音の世界で、部屋に活けられている南国の花の香りとは違う異国趣味エキゾチツクあでやかな香水の匂いを感じ、次いで背中に柔らかい感触を、両の肩口から交叉して鎖骨の上に回されるたおやかな白い手の温かさを、そして頬に寄せられる香油を塗った波打つ長い黒髪のくすぐったさとその下の金属の冷たさを感じ取った。酎愛零がぎょっとする反応を見せるのにも構わず、白い腕と異国の香りの持ち主は彼女に頬を擦り寄せ、歌うように囁きかけた。

 欲望って、なあに?

 甘やかで滑らかな、シルクの如き女の声音こわねである。

 酎愛零は一歩進んで振り向きながら優しい拘束をそれとなく振りほどき、声の主を見た。そこにいたのは背の高い一人の女性──白くなまめかしい片脚を純白の長腰巻きロングスカート細隙スリットから大胆に覗かせ、金糸銀糸で刺繍がされた瑠璃るり色の帯の両脇に振りほどかれた両腕を静かに下ろし、豊かな胸となだらかな肩をひとつ上下して息をつき、小首をわずかに傾げながら顎を引いて酎愛零を蠱惑こわく的に見つめる美女がいた。波を打った長い黒髪を銀の髪留めで総髪ポニーテールに結い、顔の両側に垂らした先端が完全に螺旋となった前髪を揺らして、美女は銀の仮面の中、長い睫毛の下の瞳を優しげに酎愛零へと向けていた。

 言ってごらんなさい、口にしてごらんなさい

 紅を引いたつややかな唇から奏でられる美しい旋律はしかし、奇妙な違和感を持って、酎愛零が隠していたい真の望みをあらわにせよとの意思を孕んで彼女に迫った。

 それだけ?アナタの望みはそれだけ?


───…………


 そして?アナタが本当に望むものは?


───…………


 しなやかな腰つきで衣擦きぬずれのかすかな音を立て、銀の仮面の魔女は静かに歩み寄り、舞のごとき軽やかな所作で回り込むと、腰を屈めて横から酎愛零の顔を覗き込んだ。一回転した際に振り撒かれた香辛料スパイス香草ハーブを思わせる芳香が酎愛零の鼻を甘く刺激する。

 本当の望みをさらさないと、

 掬い上げるように手を差し伸ばし、まるで聞かん坊をあやすように、魔女は酎愛零の頭や頬を優しく撫でた。

 アナタはきっとまた自分を取り繕うわ

 酎愛零は目を泳がせ、言葉に窮した。

 確かに、本当の望みはある。

 表現すること、物語を書くことは手段であって目的ではない。感動の涙も、凄惨な悲劇も、発見の驚きも、その向こうにある望みへ到達するための手段でしかなく、何ならその手段もひとつではない。しかしそれは今の彼女にとってはあまりにも遠く、大それた欲のように思えてならず、それが彼女に、それを口にするのを躊躇ためらわせるのだ。言ってしまうことでその望みの遠大さを再認識してしまい、打ちのめされるのを恐れているのだ。今までそれを恐れて踏み出すことができず、また踏み出して出鼻をくじかれて何かと自分を正当化する理由をつけて逃げ出してきた経験が、彼女に大いなる望みを口にすることを妨げていた。

 言ってごらんなさい、口にしてごらんなさい

 その時、酎愛零は違和感の正体に気がついた。黒い巻毛の魔女が発する声と、口の動きが合っていないような気がする。まるで字幕で外国映画を観ているような感覚なのだ。酎愛零は魔女の口元をじっと見つめた。読唇術の心得など無い。しかし不思議と、魔女の口の動きが紡ぎ出す、音声とは違う意味を持つ言葉の並びが酎愛零の頭の中には鮮明に浮かび上がった。

 魔女の優しく甘い声と、形の良い唇の表す聲の形との、世にもたえなる二重奏──

 それだけ?アナタが望むものはそれだけ?あなたの望みはきっと尽きることがない

 そして?アナタが本当に望むものは?今までの全てが、望みを叶えるために

 あなたの本当の望みを晒さないと、その大望はきっと多くの人に影響を与える

 アナタはきっとまた自分を取り繕うわ今のあなたならきっとやり遂げられるわ

 言ってごらんなさい、口にしてごらんなさい決意の言霊は、あなたを後押ししてくれる

 魔女の美しい唇が微笑ほほえみのまま時を止めた。酎愛零は目の奥が熱くなるのを感じた。銀の仮面の下、青く燃える六連星プレアデスごときらめく瞳の中に様々な情景が浮かんでは消え、酎愛零にその僅かな人生で見聞きし体験した、自他の叶えられることのなかったあらゆる望みや願い、憧れや祈りといったものを思い起こさせた。

 夢破れて失意の中で泣く者がいた。
 努力が実を結ばずに途方に暮れる者がいた。
 才能を活かせずに空を見上げる者がいた。
 世の理不尽に抗議の拳を震わせる者がいた。
 生まれの境遇から抜け出せずにもがく者がいた。
 不意に自由を奪い去っていった運命を恨む者がいた。
 背負わされた病の痛みにひたすら耐える者がいた。
 誰からも認められずに背を向けて去る者がいた。
 通わぬ気持ちに心を抉られる者がいた。
 己の至らなさに自分を責める者がいた。
 謂れ無き中傷や誹謗に魂を斬り刻まれる者がいた。
 絶望の果てに自らの命を断つ者が、いた。

 流された全ての涙の中に、声無き声が止むことなく木霊するのを、酎愛零は聞き続けていた。

 お願い。どうか、助けてください。おねがいします……

 小さな、小さな幸せと、それを追いかける自由を、どうか……

 酎愛零はわかってきていた。以前は、運命とは自ら切りひらくもので、そのための障害になるものは独力で粉砕すべきものだと思っており、自分も他人もそうあるべきだと思っていた。それが出来ない者は努力が足りないのだと、やる気が無いのだと、本気で考えていた。世に蔓延はびこる自己責任論に骨の髄まで毒されていたと言ってよい。
 しかし、社会に出て働き始めて数年、様々な所で様々な人と出会い、必ずしもそうではないことを知った。どうにもならない運命の下で磨り潰されるしかない人々がいることを、ほんの少しの助けで救われたはずの人々がいることを、終わりの見えない悲しみと苦しみの中に飲み込まれて姿が見えなくなってしまう人々がいることを知り、思った。

 もし・・自分が同じ立場だったなら・・・・・・・・・・・・

 酎愛零には知らないことが多すぎた。自分の興味の及ぶ範囲だけ、自分の好きなことにのみ好奇心を向けているだけの、世界の何たるかをまるで知らぬ無知な小娘であった。生来、引きこもりがちで他人との交流も苦手としていた酎愛零であったが、しかし、芸術や科学、歴史を好むが故にその近くで働くことを欲し、また地域の観光情報を訪れる人々に提供するという、その性格からすればらしくない業務をこなし、そして様々な境遇の人が寄稿・投稿する場に参入して見聞を広めていくうちに、己が世界の狭さを思い知り、自分がどれほど恵まれた安全な環境から声高に理想を叫んでいたのかを、気恥ずかしさと共に知った。
 もし、自分が同じ立場だったなら、何もできないかもしれない。独力で明るい未来を切り拓くことなど、できないかもしれない。

 でも、独りでなければ。

 誰かと一緒なら。

 希望は見えるかもしれない。手繰り寄せる糸は、見えるかもしれない。

 そして寄り添うのは、今を生きる人間でなくともよい。かつて生きた者たちを頼るのだ。生きた人の数だけ経験があり、経験の数だけ学ぶものがある。堕落した最悪のものとされる人生からであってもだ。それが世界に忘れられなければ、受け継ぎ、伝える者がいれば、受け取る者の心の内に色とりどりの灯火となってそれは宿り、これから行く仄暗ほのぐらい未来を照らしてくれるはず。

 いつの間にか大粒の涙を流していた酎愛零には今や心に何の気後れも恥ずかしさも無かった。彼女の頭の中に大男の魔人が言った言葉が思い出された。


『望みを言ってみよ』


 そうだ。今こそ。今こそ。


───私の望みは、


 震える、しかし力強い声。


───私の望みは、守ること。救うこと。

───そのためのチカラが欲しい。

───物語をエンターテインメントとして読ませる文章力チカラ。私が興味を持って取り上げるものが、みんなに興味を持ってもらえるほどの知名度チカラ。私が提起する話題が、みんなの間で健全な意見のぶつかりあいを生むほどの権威チカラ。もがく人たちをまとめて掬いあげられるほどの財力チカラ

───その全てがいちどに手に入るとは思っていません。まずは、文章力チカラが欲しい。先人たちの経験を一級のエンターテインメントにするために、今までため込んだ知識をわかりやすく伝わりやすいものにするために、センスのいい文章力が欲しい。

───あなたは独りじゃない、同じ苦しみを経験した人がいたんだよ、こんな人もいてこんな経験をしたんだよ、あんな人もいてあんな経験もしたんだよ、って伝えてあげたい。

───知らないから、わからない。対処する方法を知らないから、疲れて傷つく一方。伝えることで、そんな人を、ひとりでも救いたい。守ってあげたい。私の物語で!

 銀の仮面の魔女の美しい顔がほころび、その白く細い指が期待に大きく膨らんでゆく胸の前で祈るように組まれゆく。

───私が受け継ぐ!私が伝える!そのためのチカラが欲しい!

 魔女は大きく息を呑むように口を開き、大輪の花を思わせる笑顔がこぼれ落ちた。

───それが、私の望み……


 言い終わるか言い終わらぬ内に、突然、連続する爆発のような熱く速い拍動を、名状しがたい何かの奔流が自分の内に巻き起こるのを感じ、体勢を崩しかけた酎愛零は思わず息を呑んだ。湧き上がる何かに体ごと浮き上がるような高揚感を覚え、風も無いのに頭髪は暴風に晒されているがごとくに逆立ち波を打った。

 酎愛零の脳裏に流れ込む心象イメージ──それは大海のごとき大いなる抱擁であり、また大地のごとき盤石なる支持であり、同時に天空のごとく自由なる意志であり、そして銀河のごとき無限の可能性であった。心身にみなぎるそれらは全く正体が知れなかったが、それらは欲するものを手にするために遣わされたもの、望みを叶えるために与えられたものだということを、酎愛零は直感で理解した。

 計り知れない恩寵にざわめきなびく髪に翻弄されながらも、酎愛零は黒い巻毛の魔女が両腕を高く掲げて差し伸ばし、しかし目線は自分の頭上にあり、自分の背後の何かに──誰かに語りかけるように口を動かすのを見逃さなかった。

 その時が来たのねずっと待っていた

 あの人の言う通りだったあなたが来るのをずっと

 今こそ今こそ約束の刻約束の刻──

 背後から、衣擦れの音がした。

 黒檀の肌。

 あでやかな唇。

 赤銅の髪。

 振り返った酎愛零の目に飛び込んで来たのは、青い瞳を輝かせた金の巻毛の少女が喜びの声を上げて満面の笑みで飛びついてくる光景であった。酎愛零に驚きは無かった。抱き止めた少女が上ずった声で未知の言語を早口で喋るのも、その向こうの褐色の麗人が微笑みながら大きくうなずくのも、妖艶と見えた美女が目に涙を溜めて二人をまとめて抱きかかえようとするのも、銀髪を結い上げた女性がつむった瞼の下から銀河の星々のような神々しいきらめきを放つのも、全て当たり前に受け止めた。

 そう……全て覚えがあった。初めて見る姿態にもかかわらず、この四人の神性からは懐かしいあの頃の思い出が感じられた。間違いない。工房アトリエたる採光室サンルームの壁にかけられた四幅の女人像──最初に見た時に奇妙な既視感を覚えたそれは、まぎれもなくかつての書き手、語り部の手によるものだった。この地を去って創作の世界から身を引いた、かの人物の、おそらくは最後の作品だったのだ。

 絵なんかちっとも描けなかったのに、と、酎愛零が四柱の女神にもみくちゃにされながら思った時、女神の壁の外側からのんびりした甲高い声が聞こえてきた。

「そう、それがあの人の、最後の置き土産だよ、酎愛零。」

 神性たちのかぐわしい髪やすべらかな肌の囲みからなんとか外を覗いてみると、先程まで黒髪の美しい魔女が居た所に、大男の魔人と同じ格好をした、まるまると太った少年が立っていた。顔だけ出して呆気あっけに取られている酎愛零などさして興味は無いというように、少年は頭の後ろで手を組みながらその辺を歩き回り、声変わり前の少年に特有の高音で独り言のように喋り始めた。

「あの人はね、全て分かっていたのさ。たぶんね。」
「成長したキミがここに来ることを、自分と同じ書き手を目指すんじゃないかってことを、ほとんど確信していたんだと思うよ。なんでかって?ハハハッ!そんなのボクが知るもんか。」
「ただ、血のつながりがそうさせたとしか言いようがないんじゃないかな。キミら定命にも、ときたま未来視とも言うべき能力を持つものが生まれるみたいだけど、どうもそれとも違うようだね。言えるのは、あの人が去り、キミが来たということ、あの人はキミの助けになるように四柱の神々を残していったということだけ。で、ボクは彼の最後の願いである、彼女たちの引き渡しをするために、ここでずっと待ってたってわけさ。」
「この神々は、彼の最後の創作だけど、外見とか印象、それが暗示するものとか、象徴するものとかを、なんとなくでしか想定してないらしいんだ。つまりこの神々に真の魂を吹き込んで、何を司らせるかは、キミの裁量にかかっているってわけ。もちろん、彼女らの助けを借りなくても、それはそれでいいんだろうけどね。なにせ、キミの創作はキミだけの世界だからね。」

 酎愛零は二、三度ゆっくりとまばたきし、いつのまにか自分への囲みを解いて魔人少年の両脇に揃って並んだ四人の女神たちを見つめた。かつて幼かった自分にこの世でひとつの物語を書き、語って聞かせてくれた人──叔父の最後の創造物。あえて未完で残したという、四柱の神性。その外見と印象、暗示するものと象徴するものとが、彼の物語で育ってきた彼女には考えるまでもなく理解できた。

 生み、育み、支え、守る。

 生命をめぐる四つの要素。

 西洋の四大素霊エレメントや東洋の五行思想とも違う、独自の概念。これらが意味するところはひとつしかない。そうだ。この四神は、去った者から、きたる者への、時を超えた伝言メッセージ──自分だけの新たな世界を創れ、ということづけなのだ。

 酎愛零は僅かに下を向き、小さく鼻を啜って、ふっ、と笑った。いかにも浪漫主義者ロマンティストの叔父が考えそうなことだ。彼は、自分が物語をせがむことがなくなったから創作から離れたのではなかった。自分の役割を引き継がせるために、いずれ与えられるものでは満足できなくなる自分に向けて、思い出の場所にこんな仕掛けギミックを遺したのだ。

 はらら、はらら、白茶ベージュ色のタイルに熱い滴が落ちる。

 絵なんてちっとも描けなかったのに。こんな見事なものを創り上げるくらいに上達して、それをこんな風に利用するだなんて。やっぱり叔父さんはただものじゃない。今までずっと、物語のお礼を言いそびれてたし、創作をやめちゃった原因が私にあるんじゃないかって思ってたけど、そうじゃなかった。
 わかるよ。叔父さんは創作をやめてなんかいない。次の段階に進んだんだね。何かを捨てて何かができるようになったんじゃなくて、できるものを増やしに行ったんだね。
 じゃあ、私も負けないよ。叔父さん、遺してくれたもの、ありがたく使わせていただきます。今は背中は遠いけど、いずれはライバルとして、叔父さんの作品と私の作品とで競演することができるくらいのものを創れるように、がんばります。


 パキッという小気味良い音がした。


「──さてと。これであの人の願いは聞き届けることができた、もぐもぐ……ようやく肩の荷が下りたよ。でも……」

 魔人少年のくぐもった声が背後からすることに気がつき、酎愛零は顔を上げた。涙を拭いた顔を心配そうに見つめている女神たちが、申し訳なさそうな顔をして、場都合が悪そうに、順番にちらりと食事室ダイニングの方に目線を遣った。振り向くと、太った子供はいつのまにか止まり木カウンターの中に入り込み、今だ湯気の立つ料理を手づかみでむしゃむしゃとやっているではないか。酎愛零は唖然とした。せっかく感動に浸ってたのに。なんなのこいつ?さっきのパキって、もしかして……?

「と、思ったら今度は新しい書き手から、『チカラが欲しい』と来たもんだ。『なら、くれてやる』って言いたいところだけどねえ、」

 肉厚の顔に銀の仮面を半ばうずめながら、怪男児は満足そうに食物を頬張っていた。間違いなく、先程の快音は少年の食する腸詰めソーセージの上質さを物語るものであった。

「そうしちゃうと、ほかならぬキミ自身が、納得しないんだろ?キミの作品で言えば、『拾ったおたからで いい暮らしをしようだなんて』だっけかな?ハハッ!まったくめんどくさいやつらだよね、定命てのは。チリ・アクターのくせに、変にこだわりが強くて困るよ。」
「チカラが欲しい、でもそのチカラは無条件に与えられるものじゃあなく、自分の力で得なけりゃならない、成しとげられなけりゃならない。ボクはそのための手伝いをする、ということでいいのかな?むしゃむしゃ!登場人物になるっていうのが、どうにもひっかかるところなんだけどねえ。どんな扱いをしてくれるのかわからないけど、そんなことでいいのかい?」

 手をシャベルのようにしていっぱいに掬った洋風炒り卵スクランブルエッグを右手、左手と交互にがつがつと食べる小さな肥満体に若干引きつつも、酎愛零は改めて周囲を見回した。

 古ぶるしい洋館。
 旧きき時代の空気をかもすバーカウンター。
 いい感じに使い込まれたテーブルとチェア。
 雰囲気のいいアトリエとホール。
 何よりも、およそ美と呼べるこの世の全てが集められた魔法のような展示室。

 これだ。この空間、この印象。
 まさに、これから始める物語の舞台としてふさわしい。
 はたして叔父は、ここまで計算づくだったのか。それとも、既に酎愛零が望むような何らかの変化が始まっているのか。いや、そんなことはどうでもいいことだ。いづれにしても、構想はもう決まっている。

───魔人さん、

 果物の美味そうな断面を見せているサンドイッチに手を伸ばす小さな樽のような魔人に向かって、ゆっくりと言った。全ての望みを晒け出した今、もう魔人の如何いかなる視線も恐れることは無いし、また魔人は自分のどのような望みであっても聞いてくれると確信していた。

───ここの、主人マスターになってください。

 子供の姿をした魔人はその言葉を聞いた途端にぎくりとしたようで、食物に手を伸ばしたまま一瞬動きを止め、まずは目を、次いでゆっくりと頭を回して酎愛零の方へ顔だけ向けた。ここに来て初めて、銀の仮面の下の肉に埋没したような目の奥に、驚いたような、困惑したような色が宿っているのを、酎愛零は見逃さなかった。主導権をこちらに引っ張るチャンスだ。ここで畳み掛ける!

───そう、マスター。主人。主。

───びっくりしました?それはそうですよね、今まで主となった人間の願いや、欲望を叶えてきた魔人さんが、自分が主人マスターになるなんて、思いもしなかったでしょうから。

───でもですねえ、私の言ってるマスターっていうのは、もちろん、主とかそういった意味を含むんですけど、この場合……

理解わかっている。店を切り盛りする者、という意味での店主マスター、ということなのだろう。」

 酎愛零の言葉に被せるように野太い声が響く。変じたのは蒸気か煙か、太った少年の姿をした魔人の姿は瞬きにも満たない僅かな時間に蜃気楼のごとくに揺らいで酎愛零が最初に会った尊大な態度の大男の姿へと成り代わり、やや不機嫌そうに、彼女の言わんとするところの意味を理解していると主張したのだった。その変身は完璧だったが、酎愛零が知覚できるような変身の瞬間を見せたのは初めてであり、また、口の周りには先程がっついていた腸詰めソーセージについていた粒洋辛子マスタード洋風炒り卵スクランブルエッグの食べ残しが僅かに残り、手には子供形態の時に掴んだ果物のサンドイッチを持ったままだった。

 動揺してる……!
 やっぱり主人マスターと呼ばれることに慣れていないんだ!
 正直に言って、叔父の作品で八面六臂の活躍や暗躍をした人外の存在にこんな手が通じるなどとは望み薄だったが、試してみるものだ。酎愛零は勢いづいて、この館に入って初めての笑みを浮かべた。

───さすがですね、魔人さん。『わしらがお主の心の扉を開けて中を覗き見るのは容易たやすいのじゃぞ』、でしたっけ?いやーまいっちゃうなー!簡単にばれちゃうなんて!じゃあ、私がこれから何をどんな形で始めるのかもわかっちゃいますよね。あっ、それとも『口にしてごらんなさい』でしたっけ?

 どんなならず者ですら避けて歩くような筋骨隆々の魔人を前に、今や酎愛零は軽口を叩いている。銀色の半仮面ハーフマスクの下で魔人が、ぬぬ、とばかりに片眉を吊り上げているのが透視できるようだ。とはいえ、酎愛零は魔人を虚仮こけにしているのではない。魔人からかけてもらった言葉のひとつひとつが、迷い、躊躇ためらっていた自分の心に深く沁み入り、自分の背中を押してくれたことは間違いない。今、一言半句たがわずに魔人の言葉を暗誦できるのが何よりの証左だ。

 そして、自分を後押ししてくれたのは、様々な姿から発せられた魔人の言葉だけではない。


 言ってごらんなさい、口にしてごらんなさい。


 決意の言霊は、きっとあなたを後押ししてくれる。


 その通り、酎愛零は自分の頭で考えた、自分だけの言葉で、自分自身を鼓舞することができたのだ。自分が何を求め、何を欲し、どうなることを望んでいるのか。その大元に、何の虚飾も無く真摯に向かい合った結果、自然に口をついて出た言葉は、天地の何物にも恥じることの無いものであった。

 チカラが欲しい。そのためには何が必要か。何をしなければならないか。

 館の外を吹き敷く清らかな空気と同じように。館の中に降り注ぐ清々しい光と同じように。酎愛零はさやかな、希望とやる気に満ち満ちた気分で胸がはちきれそうになるのを感じた。四柱の女神が自分の傍らに控え、優しく見守っているのを感じた。目の前では片方の口角を上げた仮面の魔人が太い腕を組んでその幅広い肩を僅かにすくめてみせ、酎愛零が何を言うのかを待っている。

 舞台は整った。役者は揃った。足りなければ、りながら足していけばいい。これが、私の独自作品オリジナル。ここが、私の生きる道。過去も未来も飛び越えて、いろんな人と交流する演劇世界プログラム。じゃあ、口に出して言いますね。

 心からの笑顔で、酎愛零は高らかに宣言した。

───ここは、迷家マヨヒガ!「画廊喫茶マヨヒガ」!

───私たちが登場人物キャラクターとなって、まだ見ぬみなさんをお迎えして、おもてなしする、ギャラリーカフェ!アートの殿堂!私が受け継ぎ、私が伝える場所!どこまでできるか全然わかんないけど、わかんないのも、きっと楽しいよね!みんな、みんな、力を貸してください!

 言うが早いか、酎愛零の、みんな、という呼びかけに館そのものも応えたかのように、建物が鳴動しだし、邸内の光景は目まぐるしく変わっていった。簡素シンプルな木の食卓テーブルに映る夕日、冷たい石の止り木カウンターに並ぶ酒の入ったグラス、吹き抜けになった天井から覗く星空、土と草とが薫る露台バルコニーの露天席、まだまだ続くそれらは、酎愛零が望む、あるいはいつか望む光景であろうか。有り得べき未来が手招きしている。あらゆる手段で現在いまを変えよ、そう言っている。

「大望!」


 贈られた大喝采は魔人からのものか、書き手の聖域に今も尚揺蕩たゆたう数多の物語の魂からか。破顔一笑、魔人の笑い声と共に館は変化するのを止め、元の通りに戻ったかに見えた。しかし酎愛零は知っていた。たとえ同じように見えても、ここにも、現世界にも、同じ瞬間など有り得ないことを。時間も、環境も、刻々と変化してゆき、しかも元には戻らない。一刻も無駄にはできない。

 魔人はお得意の心眼で心を見透かしたか、女神たちを従えた酎愛零に言った。

「ようやく叩きに叩いた石橋を渡る時が来たようだな、酎愛零よ。なれどこの橋は一旦渡り始めたならば、引き返す事あたわず、道半ばで飛び降りる事も叶わぬ。中途で立ち止まる程度なら、まあ、出来ようか。」
「これよりの汝の人生は、これまでとは全く違ったものになることだろう。今まで以上に時に追われることに悩まされ、薪の上に仰臥し、胆汁を嘗めるがごとき貧困に苛まれることがあるやも知れぬ。だが、心曇らせるなかれ、恐れるなかれ!汝の叔父たるあの男もそうだった。人生に迷走し、試行に錯誤を重ね、故に物語を紡ぐ比類無き力を鍛えることが出来たのだ。」
「汝には我らが居る。つまづきたる時は、我らの背に倒れよ。行き詰まりし時は、我らの後に続け。汝が胸に宿りしさやけき大望を持ち続ける限り、我らはどこまでも汝の力になってやろう。」

 鳥打帽ハンチングと銀の半仮面ハーフマスクを身に着けた紳士的な出で立ちの大男は、駱駝色キヤメル袖無上衣チヨツキから金鎖で繋がれた懐中時計を取り出してそれを一瞥した。

「どうやら、頃合いのようだ。」
「汝、酎愛零よ。現世界に生きる身なれば、あまり長い間、現身うつしみおろそかにしてはならぬ。創作の世界にうつつを抜かし過ぎれば、壮健を保つのも覚束おぼつかぬであろう。なに、あの男から、汝が自分の二の舞とならぬようにとも、我はことづかっておるのでな。」
「それに、汝が酎愛零と名乗っているここではないどこか……noteとか言ったか。ここ数週間はろくに顔を出せてもおるまい。数少ない読者に忘れられぬよう、日々の交流は怠らず行わねば、な。遠回りのように感じられるかもしれぬが、それが汝が欲する力への着実な道となる。」

 酎愛零が気まずそうな笑みを浮かべて少し頷くと、魔人は振り向いて、優雅な弧を描いて片手を振り上げた。四人の神性たちがそれを見守った。闇と光が、悲しみと喜びが、絶望と希望が、あらゆるものが混在する世界がそこから見えた。

 現世界への扉。

 大きな瞳に自信と不安を綯交ないまぜにして、しかし意志固く扉へと歩みを進める華奢な体格の人間の女。後に続くは魁偉な容貌をした巨躯の魔人と、美しき四界の女神たち。これは帰還ではない。都合の良い甘い夢から醒めるのでもない。今や自分のものになった聖域からの挑戦であり、進撃なのだ。使えるか使えぬかも定かでない自分の力と、受け継いだ大いなる遺産とを武器に、一人の女が紡ぐ物語が、ここから始まるのだ。




 古き時代の瀟洒しょうしゃで不思議な洋館は、人跡未踏の深山幽谷にだけ在るとは限らない。入ったことの無い路地の奥にも。見慣れたはずのビルの谷間にも。さびれた町の商店街にも。雪の降り積もる無人の原野にも。光のどかな南国の砂浜にも。その奇妙な屋敷は世界中どこででも、いつの時代でも、見ることが出来るという。

 かつては御伽おとぎ話の不思議な屋敷のごとく、その後の人生を助けてくれるものを授けるとも、入った者を魂ごと喰らうのだと恐れおののく者もいたその館は、今では謎の仮面を着けた店主マスターと、痩せっぽちで矢鱈やたらと目力のある女給ウェイトレスが二人で画廊喫茶ギャラリーカフェを営んでおり、常連とおぼしき四人の美女がよく見かけられ、その秘密の展示室には贋作うそ真作まことか、世界中の美の至宝が集められていると言われている。

 訪れようと思っても自らの意志で訪れる術を知ること叶わぬこの館の真実を知る者はいない。ここまで、この始まりの物語を見続けてきた読者諸君にさえ、何より物語の主人公である酎愛零にさえ、画廊喫茶マヨヒガはその片鱗を僅かに覗かせたに過ぎない。果たして酎愛零の望みは叶うのか?まだまだ羽ばたき始めたばかりの彼女、その筆が導く先、その行く末を、とくと御覧頂こう。



 ……そうそう、驚くべきことに、画廊喫茶マヨヒガは酎愛零が拠点とする場所、noteにも支店を出していると聞く。ここは本店と違って、月間の席料チャージさえ支払えば、自らの意思で訪れることが出来るようだ。まだ出来たばかりで、マスターとウェイトレスとの他愛もない会話しか聞けぬだろうが、いつの日かこの支店もメニューコンテンツを増やし、本店と肩を並べられるくらいの伝説を残すことになるのだろうか。何の確証も無いが、開店祝いに訪れて、最古参を名乗るのも、あるいは一興かもしれぬ。








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