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こんにちは。櫻子です。
GWからの、中学運動会(雨天のため途中まで)、中学運動会(後半)、小学校運動会という家族タイムand家族フォローの気疲れで顔がおたふくみたいになっているヨガイントラです。(HSPです。1人の時間がほしー。)

小1の娘ちゃんはなかなかの癇癪持ち。
先日は、小学校の国語の時間にした「つ」の練習プリントに花丸がついていなかったことに憤慨して、いい加減に消して、いい加減に書き直して、上手に書けなくて癇癪を起こしました。

わたしはいつからか自分を押さえつけて「いい子」として育ち、大人になって自分を見失っていた人材です。
先日、孫の運動会のためにきた母が「この子(櫻子)は、何にも文句を言わない子だった」と娘の癇癪ビデオを観ながら話してましたので、概ね自己認識は間違いないかと。

意識でバランスを取り戻すボディートークや書く瞑想ライティングライフプロジェクトで、ここのところ自分を取り戻してきたのかな、と感じています。
娘ちゃんに「マミは嫌いなものばっかりだね」と数日前に言われました。
やっと嫌いがわかって、口に出せるようになったのでした。
そういえば幼い頃は癇癪を起こしてたこともあったよ、と最近思い出しました。(母は忘れてるんだな)

そんなわけで、子どもには人に褒められるために「いい子」になって自分を押さえつけるように生きて欲しくない、と常々考えています。

癇癪を起こしながら「つ」のプリントに向かう娘ちゃんに「先生、なんて言ってた?最後ははらうって言ってたよ?」(たまたま学校公開で「つ」の授業を見学してました)と声かけしても、耳に入らず、天邪鬼に反対のことをしたりします。

で、聞いてみました。
「自分の好きにしたいの?それとも花丸がもらいたいの?」
「花丸がもらいたいぃぃ!!」と即答。

「花丸がもらいたいんだったら、自分のやりたいようにではなくて、先生が言った通りにするんだよ。自分のやりたいようにしたいんじゃないの?」ともう一回聞くも、「花丸がいい!!」とのこと。

そうか〜花丸がもらいたいんか。

好きにしたいのだと思い込んでいたので、意外と目から鱗。
そして、「いい子」に育てないというわたしの勝手な思惑を押し付けていたのだなぁと気づきました。

「いい子」じゃなくて、自分のやりたいようにするためには強さが必要だよねと思ってそんな声かけも用意してたのですが。

そして、「いい子」であるから享受できる生きやすさっていうのもあるんだよなと気づきました。

だって、いつでも反抗してくるような子はやっぱり叱られることが多くなります。すると、「ダメな子」「勝手な子」「可愛くない子」という意識が飛んできます。レッテルを貼られてさらに認めてもらえなくなります。

すると、逆にやりたいことができなくなってしまう。

もうバリバリの優等生「いい子」だった中一の春、革靴はローファーの指定でしたが、わたしはアリスみたいなストラップのついた靴での登校を許してもらっていました。
予め持っていって「先生、これで登校してもいいですか?」と確認しておくほどの徹底ぶり。

スクールウォーズからの立て直し時代だから、校則かなりうるさかったのです。「いい子」だから許してもらってたんですよね。

「いい子」は生きづらい、という固定観念にとらわれていましたが、「いい子」いいところもありました。
「いい子」から脱却しなければ、という殻を娘ちゃんが壊してくれました。

その後、娘ちゃんは「つ」で花丸をもらい、味をしめて予め親にチェックしてもらうのは花丸へのアドバンテージだと気づいてから、宿題をやっては「ダメなところチェックして」というようになりました。
(「薄く書いて。なぞるから」という娘のアイデアにはびっくりしました)

「いい子」も使いようかも。

過去の「いい子」の自分はどこまで考えていたかわからないけど、自分なりに頑張ってなんとか自分の居場所を作ろうとしてたんだなーと認めることができました。(お疲れさま)

一匹狼体質だと思ってたけど、そういうスキルもあるんじゃんね。(ナイス。活かしてこー)

花丸に執着して、それだけのために生きるのはアレだけど、自分の生きやすさのために「いい子」のスキルを使うのは悪くない。
つまりは、バランスだなという発見でした。

読んでくださってありがとうございます。


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