幼少期 パニック障害発症とADHDの一片

初めて診断を受けたのは小学校2年生の時だったと記憶している。
地元の大きい病院の小児科で母親くらいの年齢の女性の先生からだった。

突然不安になる。自分がどこにいるのかわからなくなる。
耳に聞こえるすべての音が煩く、そして気持ち悪く感じる。

そんな症状は保育園の頃からちらちらとあったのだろうが、当時の自分はうまく言葉にすることが出来ないでいた。
よく家族で温泉へ行っていたのだが、浴室の反響する空間の音が苦手だったのだろう。
だから最初は「耳が変だ」と言って耳鼻科を受診した。そこではたまたま風邪のような状態だったようで、鼓膜が凹んでいて今は聞こえにくいと言われ風邪薬を出されたような記憶がある。もちろん、その薬では治らなかった。
そのあと様々な病院へ行ったが、冒頭の小児科で点と点が線になった。
何か(苦手な音やストレス)がMaxになった時に不安や発作が起こるのだ。
当時の薬は覚えていないが、記憶に残っている最古の薬はパキシルなので恐らくそれを飲んだと思われる。今でも処方される常套処方を受けたおかげで少しその不安、発作たちから救われた。

では何故、その不安や発作が起こるようになったのか。
断定はできないが、幼少期に見たテレビ番組が影響していると今では考えられる。
当時よく取り上げられていたのはノストラダムスの大予言。
空から恐怖の大王がおりてきて、人類が滅亡するというその予言を、世間は面白おかしく取り上げていた。
それが当時の自分にとってトラウマになったのだと思う。
実際、予言の日に見た夕焼けの赤さは今でも恐怖に思うくらい赤く、今でも夕方や空を見上げるのが少し苦手だ。

小学校の授業にはある程度ついていっていたと思う。
いや、正直授業の速度が遅いと感じる事もあった。
特に社会や国語には自信があり、人よりも先に答えていた。
ただ忘れ物や片付けるのが苦手だったし、
机に座っているのが落ち着かず、我慢しているとパニック発作が起こる。
取り乱したりはしないよう気持ちの揺らぎを抑えつけて誤魔化していたから、先生からはわからなかっただろう。
これもまた今思えば、ADHDの症状が出ていたのだと思う。
そういったストレスからパニック発作を起こし、ある種負のスパイラルだったかもしれない。
ただ先生や同級生はそれを気にしていなかっただろうし、運動神経がよかった事や物怖じしない性格もあり多動がプラスに出る面も多数あった。
体育は得意だし、課外授業で外部の人と接するときなどは年代を問わずすぐに打ち解ける。
男子女子問わず同級生とも仲良く出来ていた。
しかし暴走するときもあり、度々何かにキレては授業を飛び出したこともある。衝動性も当時から垣間見えていた。
パニック発作の原因に一つ、音に敏感というのもこの幼少期から見えていたのだと今になってみれば思う。だがそれらに気づくのはそれから20年以上経ってからになるのだが。

小学校3年生の時に転機が訪れる。地元の近くに新しい心療内科が出来た。
小児科の先生から離れそこの心療内科を受診し、改めてパニック障害と確定診断を受けた。
そこへはトータルで9年くらい通う事になる。
デイケアもあり、先生の勧めで学校の無い土曜日はそこに参加した。
年代はバラバラでほとんどが18歳以上のメンバーだったが、割とすぐになじめた。特に年上の女性から可愛がられ、余談だが今でも年上の女性が好きなのはそこからかもしれない。
これもまた今になって思えば色んな事情や病を抱えた人がたくさんいた。
ずっと腕に包帯を巻いている女性、骨が透けて見えるほど痩せた女の子、常にうろうろ歩いている男の人、声を発しないで口パクで意思を伝える男性。
ヤンキー少女やサブカル女子、チャラ男にオタクっぽい男子。
その中でも楽しく出来たのはスタッフの超絶陽気な先生と熱血タイプの先生の二人が馴染ませてくれたからだろう。今でも尊敬している。
小学校高学年になろうとしている頃で、みんなの見る目が優しかったし、そこには寮もあって親や兄弟と離れて暮らす人も多かった事もあり、弟のような存在で見てくれていたのかもしれない。
野球をやったり、ゲームをしたり、料理を作ったり。楽しい時間だった。
競馬に興味を持ち始めた頃、ここのメンバーから詳しく教えて貰ったりもした。それはマイナスかもしれない苦笑
楽しい事ばかりでもない。
メンバーの中で特に可愛がってくれたお兄さんがいた。20代半ばくらいだっただろうか。彼女が同じメンバーの中にいて、二人してよく遊んでくれた。明るい人だったけれどたまに見せる憂鬱な顔が印象に残っている。
ある日、デイケアへ行くと熱血先生が個室へと自分を呼んだ。何か悪いことをしたのかと思った。
告げられたのはそのお兄さんが自殺したということだった。自殺という言葉は使わなかったが、小学生の自分にもそれは察する事が出来る言い方だった。友達を失うのは初めてだった。ただ割とすんなり受け入れられた自分がいた。死というものを恐れてるからパニック発作や不安が起こるのに、お兄さんの死は受け入れてしまう自分が冷たい人間にも思えた。もちろん悲しい気持ちももっと遊びたかった気持ちもあるのだけれど。

小学校が終わるまではこのような流れ。
デイケアには高学年になると小学校の野球部での活動もあって足が遠くなったが、たまに顔を出すとスタッフの二人や知っているメンバーが温かく迎えてくれた。
パニック発作は相変わらずしばしば襲ってくるけれど、端から見たらちょっとだけ落ち着きない普通の小学生の男子だったと思う。

続きはまた追々と







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